住職コラム」カテゴリーアーカイブ

アイデンティティ

自分も含め僧侶や寺の年輩常連者が卑屈になっているように思う。
それは具体的には、参拝者数の激減を目の当たりにしてきたこと、イコール世の中から求められていない、と受け取ることが大きな要因だと思う。また、むかしは僧侶が大切に扱かわれていたけど、それもなくなり、むしろ、偽善者扱いされているように受け取っているのではないだろうか。

ぼくは幸いに、仏教に興味を持つ友人たちに出会えた。寺の息子ということでおもしろがられたり、そこからいろいろな人脈も生まれた。ひと昔前なら、仏教に興味を持つ者は「ちょっと変わった人」扱いだったのだろう。それは今で言う個性的というものではなく、白い目で見られるただの変人扱い。その目は今でも確実にあり、信仰者にとって日本はとても不自由な国だといつも感じる。でも、ぼくらの世代あたりから、その「ちょっと変わった人」の数が徐々に増えはじめたように思う。アメリカナイズされ、均一化されていく世の中に嫌気をさして、多くの人が個性やアイデンティティを求めるようになった。また、アイデンティティが限りなく薄くなった国で、それが更に進んでいることにも気付いた。バックパッカー、表現に目覚める者、ニート、自傷、現代にある様々な問題、すべてその影響下にあるように思えてくる。そんな中、自ずと日本人の根底に強く影響する仏教に興味を持つ者も増えてくる。それは少数派かもしれないが、すでに多数派という価値観すら薄れている世の中。

自分に自信がないのは本人の問題だが、仏教への自信は絶対に必要。
自分たちが触れているものがどれほど大きなことかということを、ちゃんと認識さえしていれば、自ずと自分が歩む道にも誇りが生まれるはずだ。それを、うつりゆく世間の物差しで換算するからおかしくなる。

親鸞聖人が言うところの「非僧非俗」(僧でもなく俗人でもない)とは、俗に生きながら俗に染まりきることなく生きる道。聖を聞かず俗に沈みきった時、それは非僧有俗。
念仏者は、修行して悟りを開こうとする「聖」の道は歩んでいない。肉を食らい色にうつつを抜かしながら「俗」の真っ只中に生きている。しかし、そういう俗のままにしか生きられぬ者を救いとろうという「聖」(阿弥陀仏)の言葉を聞きながら生きることに光がある。
「聖」を俗化するのではなく、「俗」を聖化していくのが、浄土真宗の教えだと聞いている。なんともスリリングな道だと思う。そして、それはすべての人が歩める道であった。

(2005年のブログより)

親の手の中で

あるご門徒さんの3回忌のご法事で、故人の奥さんがこんなことを言われた。

「主人が亡くなって丸2年。ようやく主人と話せるようになりました」

生きている間は話さなかったのだろうか?とはじめは何を言っているのかよくわからなかったが、しばらくしてから自分にも思い当たるフシがあることに気付く。ぼくは生前の父とは目も合わせられない関係だった。まともに父親の顔を見たことがない。いつもチラッと見るぐらいで、それは単純に怖かったのと、自分にいつもなにか後ろめたい気持ちがあったのだろう。そんな関係のまま、ぼくが高校2年の時、父は往生した。

母親は特に想いが強くて、父が亡くなった後、家中に写真が飾られた。顔を洗っていても、食事をしていても、トイレへ行っても、そこにはいつも父がいた。「ようやく主人と話せるようになりました」と言ったご門徒さんのように、ぼくも父が亡くなってからやっと父と向かい合えることができたのかというと、そうではなかった。亡くなってからも、父の写真をまともに見ることができない。ずっと避けて生きてきた。

10年以上たって、今ようやく素直な気持ちで父と向い合うことができるようになった。生きている間に、生きた言葉を交わして心通わすのがいいに決まってはいるけれども、そうはできないことだってある。そういう者にとって法事という節目の中で、今一度故人と向い合う場所を与えられるというのは、とても大切なことだと感じる。

自分で自分を見つめるだけでは、自分のモノサシから抜け出すことはないが、対者を持ってはじめて自分自身が映し出されてくる。信仰も、仏さまという親を持つことだと受け取る。親を持つということは、一面には厳しい生き方でもあり、親に対して自分はどうなのか、今の生き方は親に背を向けてはいないか、とその都度自分を照らし合わせられる。ラクではない。でも、その根底には、親に包まれた自分があり、親の手の中にいるという大きな安心が与えられる。人生順調にいっているときには、「親なんて必要ない」とわずらわしいぐらいに思っていても、いざ壁にぶち当たったとき、前へ進むことができなくなったとき、これほどの安心はない。

ナモアミダブツは親の名だ。親を親とも思わず生きてしまうようなぼくに対して、常に包み込んでいてくれる。そのままでいいよ、とぼくの全存在を肯定してくれる。ぼくがぼくであることを認めてくれる。そして、「そのままでいい」は「このままではいけない」という力になる。ナモアミダブツ。生きることはつらいことのほうが多いかもしれないけど、そんな働きに遇わせてもらっているぼくはしあわせだ。

(仏教冊子「御堂さん」2005年11月号より)

ありがとう

うちはお寺ですが、最近、報恩講(ほうおんこう)という行事があったので、バタバタしておりました。この報恩講というのは、恩に報いると書いて、宗祖に対して感謝する行事のことです。シンプルに言うと、ありがとうの日ですね。

ありがとうって言葉を、いつ使っているか考えてみると、ほとんどがモノもらった時ぐらいでしょうか。恩というのは、大きければ大きいほど、見えにくいようで、また、こっちから求めて与えられたものじゃなく、求められるより先に、与えられたものをいうそうです。太陽や空気、なんてのもそうですね。見えにくい。というか見えない。みなさんは空気に感謝したことありますか?あ~、今日もおいしい空気吸わせてもらって、ありがとうって・・・ないですねー。聞いたこともないし、言ったこともありません。酸素マスクをはめなければ生きられない人にとっては、空気に対する感謝の気持ちがあるかもしれませんが、ぼくらは当たり前に思ってますよね。考えたことすらない。食べ物はまだ見える範囲ですが、それすらあやしくなってきます。親のご恩ってのも、耳の痛いとこですね。

恩ということについて、ひとつには、大きければ大きいほど見えにくい。そして、求められるよりも先に、与えられたものと。確かにそうですね。空気なんかは要求したわけじゃないし、請求書も送ってきません。恩というのには、もう一つ特徴があって、それは返しても返しきれないものだそうです。前に、テレビの人気タレントが、親に何千万円を送りつけたと、満足そうに言っていましたが、確かに、稼いだお金を親にポンッと渡すのは、ちょっとカッコイイですけど、それで恩を返したと思ったら大間違いのようです。親はどんな気持ちでしょうか。どんなに大金であったとしても、これで勝手に老後暮らしとけ、なんて気持ちなら、寂しいでしょうね。ありがとう、の気持ちのほうが、はるかにシアワセに思ってくれるものかもしれません。

今回は、ありがとうについて、お話させてもらいました。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

住職継職を振り返る

ぼくが住職を継職したのは、8年前、平成9年の秋。当時24才、学生あがりのぼくには住職という肩書きがとても嫌でした。お寺で生きていく情熱はあったけど、見習い期間もないままに住職なんておかしい!母が継ぐべきだと主張しましたが、ぼくの意見など聞く以前からとっくに準備は整えられていて、結局言われるがままそのポジションに座ることになりました。継職法要自体もすべてぼくの意思とは関係なく、借りてきた猫のように。

「あなたは何もしなくていいから黙ってそこに座っていなさい」

というまわりからの視線は、活気盛んな20代のぼくにはあまりにも苦痛な出来事でした。お寺が嫌なわけではない。でも、自分の意思を必要とされていない住職は嫌でした。ある程度見習いをさせてもらってから、少しでも自信が持てるようになって住職を継職したい。

結局、住職という名前はあまり考えずに、見習いのつもりでお寺の仕事をやろうと考え、無理やり自分を納得させました。そう納得させながらも、ずっと「住職」という名前に縛られていました。住職だからこうしなければならない、とか、住職と見られるようにならなければ、と。まわりからの期待や要求、責任。一方で自分の理想とする住職像と、求められる住職像とのギャップ。自分の理想にも他からの理想にもかけ離れた自分の無力さ。そのくせ「俺は出来るんだ!」という強いプライド。認められたくてしょうがなかった。また、それらのプレッシャーや気負いは絶対に人には見せたくないというプライド。「住職なんて、自由職だぜ!」ぐらいのスタンスを装いつつ、いつしか人と会うことが苦痛になっていきました。多くの人と会いながらも、心は常に閉じていて、ひとりになることだけが安らぎ。完全に孤独にはまったぼくは、3年弱で自己崩壊。逃げました。

2年が過ぎ、再びお寺に帰り着き4年目になりました。

「人生は苦」。「苦」とは「思い通りにならない」ということ。悲観的にではなく、人生は苦なんだというお釈迦さまの言葉を受け入れてから、だいぶ楽になりました。今は自分の力もある程度知りつつ、地道に地盤を固めたいと思っています。無理せず、しかし開き直らず、なるべく等身大の自分でいること。野望は多く持ち続けていますが、とにかく10年は下積み期間のつもりで。

学生生活や一人暮らしで、プチ自由を味わっているぼくらの世代の1番苦手なところは、持続力と忍耐力。飽きやすくて、すぐに「めんどくさい病」が顔を出す。結果、何一つものにならない。その戦いだけに終わらないよう気を付けよう。

(2005年のブログより)

花まつり

今回は、「花まつり」についてお話してみようと思います。みなさん「花まつり」っていうのは聞いたことがあるでしょうか?クリスマスは有名ですけど、花まつりはそれほど有名じゃないですね。クリスマスは、イエスキリストの誕生日。これは誰でも知ってますね。花祭りは、インドに生まれたゴータマシッダルタという方の誕生日です。仏教を説いた方で、のちにお釈迦さまと呼ばれます。イスラム教をひらいたムハンマドという方の誕生日はマウリド・アン・ナビーと言うそうです。いずれも、その生誕を祝うまつりですが、ここ数十年の話とはいえ、日本では圧倒的にクリスマスが有名ですね。

さて、こんな曲を聴きながら、今回は花まつりのおはなし。

花祭りの主人公、ゴータマシッダルタ、のちのお釈迦さまは、インドに2500年ほど前に生まれました。はなしによると、生まれてすぐに7歩歩いて、天上天下唯我独尊、と言われたそうです。生まれてすぐに歩いたりしゃべったりなんておかしい!っていうとこで、遮断する方がいるかもしれませんが、そこにどういう意味があって、なにを言おうとしているかを見ていかないともったいないですね。この天上天下唯我独尊という言葉、聞いたことあるでしょうか?以外に近くで見ているかもしれませんよ。最近はめっきり見なくなりましたが、でっかい音ならして走っているバイクに乗っている人たち。たまにこの文字を背中にしょっているようです。

天上天下唯我独尊

意味は、「天にも地にも、わたしのいのちは、誰にもかわりようがなく尊い」ということだそうです。ひとりひとりのいのちは、誰にも代わりようがない。いのちはそれぞれに絡み合っていて、関係のないものは何一つなくて、無駄なものもひとつもない。すべてが尊いんだ。そういうこころの領域をひらいたものを、仏教では仏といいます。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

五悪

今回は「悪」をテーマにお話ししてみようと思います。
仏教では、5悪と言って、特に1番してはならない悪を五つ上げいます。

1、生き物を殺してはならない
2、ものを盗んではならない
3、よこしまなことをしてはならない
4、嘘をついてはならない
5、酒を飲んではならない

悪を規定していくというのは、どの宗教でもあることですが、これらは守ったから救われる、守らないから救われないというよりも、信仰を守る中で、教団を乱さないという意味と、自分をコントロールしていく意味がありますね。ということは、逆に見ると、コントロールしていかないと何をしでかすかわからないのが人間ってことになります。

宗教はそれを仏や神の物差しで計りますが、国単位では、代表者が決める法律というのがありますね。国だけじゃなくて、県でも、町でも、会社でも、学校でも、家族でも、なにかしらのルールがあります。複数の人間が集まると必ずルールが生まれます。これらは、そこで生きていく上で守るべきことです。ただ、それは時代や場所によって変化します。お酒ひとつとっても、サウジアラビアでは禁止されているそうです。また、タバコの年齢制限をもっていない国もあります。吸い放題です。

一つ目の、生き物を殺してはならないというのは、人に限ったことではありません。それじゃあ生きていけないじゃないか、ってことなんですけど、それだけ罪を作りながら生きている自覚を持つということでしょうか。意識せずに悪いことをしているのと、悪いと感じながら、そうせずには生きられないというのでは、だいぶものの見方が違いますね。そこには申し訳なさとか、感謝の気持ちが生まれるのかもしれません。

五つの悪の中には、ものを盗んではならない、というのがあります。ぼくは小学生の頃盗みクセがあったらしくて、親がとても困ったそうです。何度叱っても人のものを取ろうとするので、困り果てた親は、親戚のおじさんに相談しました。このおじさんは若い頃散々悪いことしてるんです。だからこの人なら治す方法がわかるかもと思って聞いたんでしょうね。その時おじさんはこう言ったそうです。
「人のものを盗むんは、自分に自信がない証拠や。自分に自信がつくまで直らんわ」

自信がないから物を盗む。自分にはなにもないから物を盗む。そんなとこでしょうか。さて、今回は悪ということについて、少しだけお話してみましたが、皆さんは、自分にとって絶対にしてはならないこと、どのぐらいありますか?

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

他力

本堂に座り、手を合わす。

本当のわたしは、自分が楽をすることしか考えていない。
本当のわたしは、自分の欲求を満たすためにしか行動出来ない。
本当のわたしは、自分さえよければいいと思っている。
本当のわたしは、そういう自分に気づけず毎日を過ごしている。

やっとのことで、自分に少しの余裕が出来て、人のしあわせを願う時でも、
それは往々にして自分の価値観を押し付けている。
それは往々にして自分の手柄としている。

やはり、ほんとうのわたしは自分のことしか考えていない。

そう、本当のわたしは、仏さまの前に座るというこころを持たない。
本当のわたしは、仏さまに手を合わすというこころを持たない。

そのわたしが、本堂に座り、手を合わす。

他力とは仏の力をいう。

ささえ

アミダさま
僕が僕であることを
認めてくれて ありがとう

「そのままでいい」と言われ
「このままではいけない」と思うようになった

(寺報善巧100号より)