私は、雪山隆弘さんのお父上、利井興弘さんのイトコに当る。興弘さんはイトコの男仲間で最年長、私は最年少で、その差15歳。昭和18年3月のこと。興弘さんのお父上興隆さん(ヨスミのオッチャン)から電話がかかった。
「3人の息子が、皆召集で外地へ出てしまい、寺が淋しくなったんで、お前が用心棒にウチから龍大へ通うてくれんか・・・」
早速父親に相談したら、ウンともスンもない、行け!の一言、行季担いで常見寺へ出向き、両手ついて、
「ご厄介に相成ります」
ヒゲポンのオッチャンの笑顔が今も忘れられん。広い境内に、老住職夫婦、若坊守と男児2名、そのチビッコが隆弘少年3歳、まるでまるこめ味噌小僧?!そのとき、申さるるに、
「お前専用の洗面器を用意したぁるんで、明日からそれで顔を洗えよ!」
居候君、第一日目の朝、ピカピカの洗面器と対面。その底に一枝の桜が画かれてあって、それに一句、
散る桜、残る桜も、散る桜
とあった。この古句との出合いはこんな風だった。折しも、国家総動員の真っ只中で、お国のために、この桜花の如く潔く散れと。切ない思いで、一年間このお世話になり、私も海軍予備学生で鹿島立ち旅順へ。
あれから時は流れ、歳は移って40余年、元気そのものだった隆弘君が体調をくずした頃、一冊の近著を送ってくれた。早速、表紙を繰ったところに、見覚えのある例の洗面器の一枝の花と古歌が描かれてあった。半世紀50年・・・、私の意識下で眠り続けていたマグマが、突如、天空目指して噴き上げるのを見た。
(寺報87号)