何が中心か

住職継職以降、8巡目のほんこさん参り。「1年があっという間やね~」という通例のご挨拶にも実感が伴ってきました。善巧寺のほんさんは、今回からどの地区もなるべく午前中に終わるように日程を調整しています。それは、葬儀等の突発的な仏事が入った時の対応や、一軒一軒を大切に勤めたいという配慮からです。

親鸞聖人のお師匠である法然聖人は、「念仏」を中心としたものの考え方を徹底された方でした。それは例えば、当時タブーとされていた僧侶の結婚に対しても、

聖(妻帯しない僧)では念仏できないというのであれば、妻帯して念仏しなさい。妻帯したために念仏ができないというのであれば、聖になって念仏しなさい。

とおっしゃっています。親鸞聖人はそれに従い、弾圧を覚悟の上、いのちをかけて結婚を決断されたとお聞きします。一方で、私たちは何を中心として物事を判断しているのでしょうか。法然聖人や親鸞聖人のように突き詰めた言葉はなかなか言えるものではありませんが、浄土真宗にご縁のあった者は、はやりそれにならって、「手を合わすご縁」を中心に物事を判断していきたいものです。

年に1回、30分ほどのご縁。それは一生のうちでマバタキほどの時間ではありますが、浄土真宗において1番大切なお勤めです。それをいかにして、大切さを失うことなく努めあげていくかが僧侶の本分でありましょう。とは言っても、なかなか理想どおりにはいかず、時に楽をしたいという心も湧き出てくることがあります。そんな姿を目にした時は、どうぞ叱咤激励お願いいたします。ご一緒に大切な法事を勤めあげていきましょう。

(寺報122号)