「コロナに負けるな」という言葉への違和感

「コロナに負けるな」という言葉に違和感がある。言わんとするところはわかっているつもりで、「厳しい状況だけどみんなで力を合わせてがんばろう!」とか、学校なら、「手洗い検温を忘れずに気を付けよう!」とか、とにかく「気落ちせずにみんなでがんばっていこう!」ということを、まるっとまとめて「コロナに負けるな!」と言っているんだろうけど、そもそも、勝ち負けに単純化して現している点が腑に落ちない。

負けるな、って何だろう?
コロナにかかったら負けなのか?
コロナ感染者の人がその垂れ幕を見たらどう思うんだろう・・・。

前回の一口法話にも、健康第一という言葉が不健康な人を傷付けている場合がある、という話が出て来たけど、まさにそれと同じことだと思う。

ある女流作家で、体の弱い方が、こんなことをおっしゃていたのを聞いたことがあります。
「わたしは、心臓が弱く、いつ発作が起きるかわからないというとても不健康な人間です。そのわたしが、本当に腹立たしく思うのは、世間の人の会話の中の、健康に関するものです。なんといっても健康第一とか、体が悪くないのが一番の宝とか、元気であることが財産ですとか、そんな会話を聞くたびに、どうして世の中の人は、健康のことばかりいうんだろう、と思うんです。だって、不健康なものにも、人生はあるんですよ。不健康なものの人生にもよろこびはあるんですよ」

https://www.zengyou.net/?p=6021

健康でありたいという願いも、コロナにかかりたくない願いも、それに萎縮したり気落ちしたりしたくない願いも、よくわかるけど、それをスローガンとして「負けるな!」というのは、間違った言葉使いじゃないかしら。多数派率いて奮起するがごとくにスローガンにしてしまうのはいかがなものだろう。少し歩み寄った言い方をすれば、日本中が動揺した4月前後にそういう言葉が出てきたのは仕方ないにしても、ウィズコロナという言葉もある中で、そろそろ表現を変えてもいいんじゃないかと思う。水を差すのは心苦しいんだけど、ひいては、いのちの尊厳にも関わってくる問題だと思うので、物申さずにはおれなくて・・・。

拡大解釈になるけど、詰まるところ、根底には老病死の取扱いに問題があるような気がしている。老いることも、病になることも、死んでいくことにも意味を見出していく仏教とは真逆の考え方で、現代がそこにがっちりフタをして遠ざけてしまったにしても、さらに拍車をかけているような印象でゾッとする。老病死に価値がないなら、使い捨ての道具と同じで、そこには命の尊さなんて微塵もない。

少数派の声だということは自覚してる。でも、そういう多数派の声が少数派を苦しめている現実も知っていただきたく、あえて書き残しておきます。これには、教育現場である学校にも垂れ幕があったのを目にして、子供たちが大人が作った言葉を借りてチョイスしているのは想像に難しくなく、それがあまりにもショックで。そんなスローガンを見ながら子供に育ってほしくない・・・。勝ち負けの世界ではあるけど、それがすべてだとしたらみんな負けに向かってまっしぐらの人生やろ。感受性豊かな子は気付くよ。

このスローガンを掲げてがんばっている人たちには水を差してしまうことになったけど、意図せずとも傷つけてしまう人たちがいることをどうぞご理解下さい。私も言葉を単純化して、知らずに誰かを傷つけていることを持戒しつつ。

笑ったあとに本当の顔が

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


大口あいて笑ってると、笑ってる本人のお人柄が知れちゃって、逆さまに笑われてしまうこともありうるわけですけど、何ていうんでしょ、フフっとか、ホホとか、ニコッとか、そういった、ほほえみ程度の笑いというのは、大切にしたいですよね。

いつだったかなあ、もう20年以上前だったと思うんですけど、劇作家の内村直也さんの講演を聞いたことがありまして、そのときに、最も魅力ある笑い方というのを披露していらっしゃった。それは、どんなのかといいますと、フと笑って、もう一度、フッと笑う。こういうのがなんとも素晴らしいなんておっしゃっていました。

フ・・・フッ あなたもお試しになってはいかがですか?
そう、お試しといえばもう一つ。写真を撮ってもらう時、あなたはどんな顔なさいます?だいたいは、チーズ!ですよね。ところが、近頃はこのチーズではうまくゆかないことが多いんです。なぜって、ほら、VTRなんてのあるでしょ、ずぅっと撮られっ放しということもあるわけです。そんなときにチーズ!というと、まあ、チーのときはいいけれど、ズッのときは、あんまりいい顔になりませんよね。で、最近は、チーズじゃなくて、ウィスキー!というんですって。これならいいですよね。キーと長々とほほえんでいられますものね。

ところで、うちのお寺の日曜学校には、ことばの教室、雪ん子劇団がありまして、ここでは、ことばの体操とか、顔の体操なんてのをやっているんです。で、いつだったか、子供たちに「さあ、みんな、ニッコリ、いい顔で笑ってみよう!」というとそれこそ、みんな思い思いの笑顔を見せてくれたんです。でも、正直いって、あまりいい笑顔がないんです。口に手を当てたり、はにかんでいるだけだったりで。こんなこといったら、しかられるけど、お母さんのコピーなんですよね。子供の笑顔や表情のほとんどは育てるお母さん、たまにお父さん、そして先生の表情そっくりなんです。

で、みんな笑顔がよくないということは、どういうことなんでしょ。いいにくいけど、お母さん、うちであんまり笑ってないんですよね。「早く起きなさい!」からはじまって「いいかげんに寝なさい!」まで、ニコッとか、フフッとか、ホホなんてことめったにないんですよね。そう、お母さんが笑ってるときというのは、近所の奥さんとのおあいそ笑いとか、お客様相手のお上手笑いとか、テレ笑いとか、そんなときしかないんですよね。

ですから、うちの劇団では表情豊かに-と、大いに顔の体操をとり入れて、目も口も鼻もガバッとあけたり、ギュッと閉じたり、唇をとんんがらせたり、ほおをふくらませたり、なんてのをやるんです。そして、写真を撮るときは、ちょっとまぶしそうな顔をして、声をそろえて、ウィスキー!とやるんです。いやほんとに、びっくりするほど、いい顔になりますよ。是非お試し下さいませ。

そして最後にもう一つ。人間の本当の顔は笑っているときの顔ではなくて、笑い終わった時の顔だということも覚えておいて下さい。その人が一番よくあらわれるのは、フフっ、ホホと笑った、その直後の顔なんですって。これはもう飾りようがないんでしょうねー。

「お茶の間説法」(37話分)
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何を笑ったかで器量がわかる

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


笑いとは突如として起こる相手に対する優越感のあらわれである-というマルセル・パニョル氏のことばは、グサリと私の心を突き刺します。私が何気なく、大口あいて笑ったことが、相手をどれほど傷つけるか、ということを、私はあまり気にしていなかったようであります。

例えば、前回も申しあげたように、私達は自分の健康をよろこんで、ついニッコリ笑うことがあります。ところが、これが、健康な者同士なら問題はないだろうが、病人の前ではやはり考えなくてはならないことでしょう。そういえば、ある女流作家で、体の弱い方が、こんなことをおっしゃていたのを聞いたことがあります。
「わたしは、心臓が弱く、いつ発作が起きるかわからないというとても不健康な人間です。そのわたしが、本当に腹立たしく思うのは、世間の人の会話の中の、健康に関するものです。なんといっても健康第一とか、体が悪くないのが一番の宝とか、元気であることが財産ですとか、そんな会話を聞くたびに、どうして世の中の人は、健康のことばかりいうんだろう、と思うんです。だって、不健康なものにも、人生はあるんですよ。不健康なものの人生にもよろこびはあるんですよ」

ハッとさせられました。本当にその通りだと思いました。それなのに、そんなこと気にもかけず、これまで、どれほど、笑いで人を傷つけてきたことでしょう。考えただけでもゾッとします。で、そんなことが気になり出してから、うちの子供を見ておりますと、長男が理由もなくワンワン泣いているときがある。ケンカもしていないのにどうしてだろう、と聞いてみると、「お姉ちゃんがぼくを見て笑うから」だという。バカバカしいと思ったんですが、じつは、これなんですよね。突っ張ってる相手から笑われただけで、もう泣きの原因は十分に成立するわけなんです。

さて、マルセル氏の説の結論でありますが、彼曰く「何を笑うかによって、その人の人柄がわかる」-。
「仮に、人間的な価値の段階が一から百まであるとして、私が61という価値を自分に与えたとする。すると、27乃至34の価値の人間が不幸な目にあっても私は哄笑する気になれないであろう」-と、彼はいうんです。なぜなら「私は彼らにたいして自分の優越性を証明する必要を感じないし、そんなことはずっと前からわかっていたし、その点に関しては、私はつゆいささかも疑ったことはないからだ」とおっしゃる。そして、反対に12乃至14の連中は、31の人間が失敗したりへましたりすると大喜びするだろうし、42の人間が大失態を演じると、この上もない快感を味わう。だが、61の者にとっては、そんなことは面白くもおかしくもない、というのであります。

だから、笑いというものは、笑い手の尺度に応じたものであることは疑いの余地のないことであって、これを吟味すれば、笑い手の人柄や器量といったものを正確に算出することはいとも簡単なことである、とマルセル氏はのたまうのであります。

さてさて、奥様、どうしましょう。あなたの笑い声は、相手を傷つけると同時に、あなたが何を笑ったかで、あなた自身のお人柄があさましくもバッチリ知れてしまうわけでありまして、ますます、大口あいて笑うわけにはゆかなくなってまいりましたねー。

「お茶の間説法」(37話分)
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大口あけて、不用意には・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


笑いは健康によろしい、というけれど、ふと、思うに、私達、一体、どうして笑うんだろう?何がおかしくて笑うんだろ?何がうれしくて笑うんだろ?どんなことを笑いのタネにしているんだろう?

じつは笑いについては、お経にはあまり説かれていないんです。おしゃかさまがにこやかに笑われたときは、お弟子の方々が上手な質問をされたときでありまして、ようこそ、ようこそ、弟子達よ、ようこそ良い質問をしてくれた。じつは、そのことに関して、私はいま、話をしたいと思っていたところなのだ-といってほほえまれたぐらいでありまして、それ以外、笑いについては、何を、どう笑うかは説かれていないようなんです。

そこで、他の方に聞いてみなくてはならないわけで、遠くフランスのマルセル・パニョル氏の「笑いについて」という本に聞いてみますと、なんと!笑いとは-
「そう、笑いとは、相手に対する突如として発見された優越感のあらわれである」
ですと。おわかりですか?私達が何をタネに笑うかといえば、相手に対する優越感-「ばっかだなあ」とか「それみたか!」とか「ざまあみろ」とか「わかってないなあ」とかいった気分が、フッとわいたとき、ハハハ、アハハとこみ上げてくるものなんですと。

そういえば「笑いは勝利の歌である」などということばもあるくらいで、とりあえず、相手が失敗したり、自分が相手を超えたと思ったときにこみ上げてくるものなんですね。

で、問題なのは、その「相手」であります。相手というのは、ただの相手ではない、いわゆるライバルなんです。(あいつには負けたくない)(あの野郎にはゼッタイ先を越されたくない)と思っている相手であります。そういえば、こんな相手、たくさんいますよね。(ウチの若いものには負けたくない)(お隣さんには負けたくない)そう思うでしょ。そういう相手が、どういうわけか、ひょいと失敗したりしたら、これはもうおかしくって、うれしくって仕方ないものなんだ。だってそうでしょ。自分の子供が、バナナの皮を踏んでころんだら「ああ、かわいそう」と、思いこそすれ、アハハと笑う親はいないでしょ。ところが、同じバナナの皮でも、突っ張てる相手が、すべってころべば、これはもうおかしくって仕方ない。アハハ、と笑って、ハラの中では(ザマアミヤガレ)ということになっちゃう。笑いってものは、そんなものなんですね。だから、あんまり、大口あいて笑えないんですよね。

例えば、病院のロビーで。「アハハ、なんたって人間、健康第一、おかげで毎日ピンピンしてます」と、笑ってごらん。下手すると、ブンなぐられますよ。ね、だから、もう一度考え直していただきたいの。私がアハハと笑う時その笑いのむこうには、笑われて泣いている人がいるということに気付いていただきたいの。

人間だれしも、二度や三度は他人に笑われたことってあるでしょ。そしてそのときのハラの中は(チクショー、今に見ておれ、いつか、見返して笑ったるから)という気持ちだったでしょう。それなんですよ、この世の中に多くの差別や、争いを生んでいるのは。

おしゃかさまのほほえみは大いにけっこうだけれど、あなたの、私の、不用意な笑いはどれほど相手を傷つけているかということをどうぞ、どうぞ、お忘れなく。

「お茶の間説法」(37話分)
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幸せだから、健康だから

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


こだわるようだけど、笑う門には福来るってのは、順序が逆で、福が来たから笑えるんだと思いますね。幸福でもないのに笑っていられるなんてことゼッタイにないんじゃないかしら。

こんなこといったら、うちの近くのおばあちゃんが「そうともいえませんよー」とおっしゃる。「私なんか、戦争で主人失って、5人の子供かかえて、そりゃあもう苦労の連続。何度、死のうかと思ったか知れないけれどそのたびに、いや待て待て、と笑顔をたやさずがんばってきましたよ。幸福なんかどこの国のことか知らないぐらいだったけど、ちゃーんと笑ってましたけどねー」
ホラホラ、おばあちゃん、そりゃ世間から見れば不幸の標本みたいだったかも知れないけれど、あなたが笑顔を絶やさなかったのはやっぱり、それなりに幸福だったからじゃないですか。もし、あなたが笑うことが出来たのなら、それがどんなにドン底であっても幸福のあかしなんですよ。

はき捨てたくなるような人生の中でも、ふと顔がほころぶなら、その瞬間の幸福を味わっておかなくっちゃね。そう「笑いは人の薬」なんて言葉もありますよね。これはどうやら正解みたいで、お医者様も大いに推奨していらっしゃる。笑うとまず血管がやわらかくなって、血圧も下がるんですって。それに、胸の筋肉や心臓の筋肉もやわらげて、内分泌をよくして、若返りの薬にもなるんだって?!ちょっと待った、お医者さまの受け売りしてたら、若返りなんてことばが出てきちゃった。こりゃ、お坊さんのいうことじゃない。だって若返るなんてことは、因果の通りに反することで、ゼッタイにありえないことだものね。年は年なりにとってゆく、生老病死なんですから、生まれて生きて、年とって、病気して、死んでゆく。これを逆さまにして、年がだんだん若くなるなんてことがあったら、世の中ひっくり返っちゃう。

そうそう、そういえば不老長寿の薬なんてのもあるけど、あれもいけない。不老はないでしょ。生から老なんだから、老いないなんていったら誇大広告といわれたって仕方ないよね。

エー、で、話をもとにもどして、とにかく笑うというのは、健康にいいそうでありまして、消化、吸収、排せつもよくなるから、笑いはどんなビタミン剤よりも効きめのたしかな保健薬だ、などといわれています。そんなわけで、落語や漫才は、その笑いの保健薬の注射をしてくれるようなものですから、たまには寄席に足を運んだり、うちのお寺へきたり、永さんがナントカアメの広告でやってるお寺へ出向いたりして、大いに笑ってみるのもいいと思いますね。

しかし、どうなんだろう。これもやっぱり順序通りじゃないみたい。先日の若手落語会で、扇好さんがいってました。
エー、こないだはある老人センターのお呼びで一席うかがったんですが、トンと反応がない。こりゃ、芸が未熟だからかと反省してましたら、そこのお世話方「気にしない気にしない。半分は聞こえてなかったんだ」じゃあ、あとの半分はって聞くと「もう笑う気力もない」-ここでみんなは大笑い、となったんだけど、笑いは保健薬なんてのも、どうやら逆で、健康だから笑っていられる。そのうち笑いも出来なくなる時がくるって・・・ことなんでしょうなー。

「お茶の間説法」(37話分)
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3ヵ月ぶりのほっこり法座

3ヵ月ぶりに定例法座の「ほっこり法座」がつとまりました。
この3カ月の間にネット中継を試みたり、法話CDを参加者へ送ったりと、コロナ禍にも仏様のご縁をつなげるようにつとめてきましたが、やはり実際に本堂へ来ていただいて、声を掛け合い、ご一緒に仏様に手を合わせることは、とても得難いことだということをしみじみと感じました。参加者からも「ステイホーム以来初めてのお寺参り」「やっぱり本堂ですね!」 など、喜びの声を多数いただき嬉しい限りです。また、改めて善巧寺の本堂の大きさが役に立ちました。正直、維持管理のことや冬の寒さを考えると、持て余す大きさなのですが、おひとり机付きで畳2枚分ほどのスペースに30名ほどが余裕をもって配置できました。

ご講師は高岡・善興寺の飛鳥寛静先生。表情が伝わるように透明マスクを付けていただきました。参拝者も全員マスク着用のため、表情が見えずとても話しにくい環境だったと思いますが、今年ご往生された先代住職のこと、コロナによってあきらかになったこと、仏様は何を問うているかを聞かせていただきました。

食事は花まつり等でもお世話になっている宇奈月の雑貨&軽食店「HOLO家」さんに、テイクアウトもできる「精進おこわ弁当」を提供していただきました。ほんのり効いたスパイスが食欲をかきたて、宇奈月で採ってきたという山菜などとても美味しく頂きました。

今回ネット中継は行いませんでしたが、法話の映像を記録しましたのでどうぞご視聴下さい。少し抜粋編集しています。次回のほっこり法座は8月1日の予定です。

幸福だから笑える

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https://www.youtube.com/watch?v=Z7Puf8RT5e8

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


永六輔さんの肝入りで、お寺の本堂で落語の会を催すようになってから、もう、6年になります。毎年、春と秋の2回、江戸の落語家に来ていただいて、お説教の高座をそのまま使い、大ローソクを2本立て、お代は一席ごとに、おさい銭集めのザルを回していただくという趣向で、これがなかなかおもしろく、近頃はご常連もふえて、毎回それなりのにぎわいをみせています。

ところで、この、寺と落語という関係は、永さんにいわせると、前座、高座、という言葉にもある通り、深いものでありまして、寺のお説教で、とても上手におもしろく語った部分が落語へと育ち、節をつけて語った部分が浪曲になっていったといえるところがあって、お寺で落語をやるというのは、いわば本家帰りということになるんじゃないか、というんです。

で、年に1、2度、本家へ帰って、テレビや寄席の細切れ落語ではなくて、じっくり語るというのは、落語家の精神衛生上も悪くないこと、というわけで、柳家小三治、入船亭扇橋といった師匠連が春の会、扇好、朝太といった2つ目の若手が秋の会でご機嫌をうかがってくれることになっているんです。

いつだったか、その落語の打合せで、永さんとご一緒したとき、たまたまそばに、秋山ちえ子さんがいらっしゃって、とても不思議そうにご覧になってる。袈裟をかけた坊さんが、袈裟をかけない坊さん(そう、永さんは浄土真宗お東のお寺の次男坊)と、落語の話かなんかではしゃいでいる。ローソクをどうしようとか、ザルでおもしろ代とか・・・。
「あのォ、ちょっとうかがいますけど、お寺で落語会をなさるの?本堂で?」
秋山さんがこうおっしゃったので、永さんがさっきの話をもう一度なさって、ようやく「へえ、そういうものなんざんしょうかねー」ということになったんです。

いや、じつは、ここんところがちょっと気になることがありまして、秋山さんだけじゃなく、ほとんどの人が、お寺、というとなにかこう、法事、お経、持戒、精進、禅定・・・というイメージをあてはめて、笑いとか、遊びとか、だれもがやっていることはやらないものとか、決め込んでしまってるところ、ありますよね。こういうのは、お経をまじないの道具に使い、坊さんを祈祷師みたいにして雇っていた律令時代の考え方とちっともかわらない。おそろしいなあ、と思うんです。親鸞聖人という方も、このあたりをずいぶんと歎かれたようでありますが、とにかくイメージの貧困というか、宗教的無知というか、ひどいなあと思います。

で、その・・・まあいいや。今日はそんな話じゃなくて、笑いについてでありました。そこで、まあ、ひとつ、お笑いを一席・・・ということになりますと、なんと申しましても、笑う門には福来る、なんて申しまして、笑ってりゃあ、幸福になれる。ハラを立てりゃ地獄へ落ちるってことになるわけですが、このハナシのマクラに出てくる「笑う門には福来る」というのは、本当なんでしょうかね。わたしはどうもこりゃ、順序が逆のような気がするんです。つまり、幸福だから笑えるんであって、笑ったからって幸福になれるわけはないと思うんですが、どんなもんでしょう?


「お茶の間説法」(37話分)
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行動に移してチエがつく

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https://www.youtube.com/watch?v=JJu3CbztcVo

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


名人、達人になる方法のおしまいは「チエの目を開け」ということであります。事に臨んで智慧がなく、正しい判断ができないようでは、いくら力があってもうまくはゆかない。

で、この智慧の目を開くにはどうすれば良いかといえば、聞(もん)、思(し)、修(しゅ)の三段階があるといわれていて、耳で聞き、思索し、それを修得してゆくわけです。これはなかなか味のあるところで、聞いただけでは智慧とはいわず、考えただけでも智慧とはならず、これを身につけて行動に移してこそ、はじめて智慧ある人と呼ばれるんです。

いつだったか、将棋の大山名人の名人談義を聞いたことがありますが、将棋で1番むずかしいのは、自分の負けを自分に納得させるときだそうで、なるほどなあと思った。ね、ホラ、いまわたしは、名人の話を聞いて、なるほどと思ったといったでしょ。聞いて思ったんですよね。ところが、3番目の「修」つまり体で覚えるというところが抜けているから、大山さんの智慧が身についたわけではない。それどころか、相変らず、負けを負けと知らず、負けるはずがない、そんなはずはないと、浅ましくもハラを立てたり、グチをこぼしたりの毎日です。

まあ、それはさておき、その大山さんの名人談義-ある時、名人戦の対局で、ある旅館へ出向いた。そして、いよいよ勝負がはじまり、それこそ、全神経を集中させ、智慧をしぼっての対局となった。

序盤戦。局面の展開を見ないまま休憩となった。名人たちが席を立つと、そこへ1人の男がはいってきた。ジッと部屋の中のある1点を凝視して、すぐに引き下がった。そして、この男がつぶやいた。
「部屋にはいって右側の人が勝ちだな」
勝負は始まったばかりで勝ち負けは本人にもわからないときなのに、こういってのけた。で、勝負はズバリ、右側にすわっていた大山名人が勝った。

対局のあと、この話を知って、大山さんはびっくり。部屋をちょいと見ただけで、どうしてわかったのだろうと旅館の人に聞いてみた。そしたら、なんと、この人はフトン屋さんで、将棋は素人。たまたま、対局用の座ぶとんを新調して、それに名人がすわられるというのを知って、どうしても現場を見てみたいといいだし、休憩中にこっそり・・・ということになったのだという。

でも、なぜ名人の勝ちとわかったのか、といいますと、このフトン屋さん、盤面で判断したわけでなく、自分のつくった座ぶとんでわかったのだといいます。左側の座ぶとんは前の方に重みのかかったあとがあり、これはあせりの証拠と見てとり、一方の右側をみれば、後に重みがかかったあとがある。これは落ち着いている証拠だから、右側の勝ち、といったのだそうです。将棋の名人はふとんの名人に1本とられたと大いに感嘆した、ということであります。

智慧の目-それは、多くの「聞」と、深い「思」と、きびしい「修行」の中から生まれる迅速適切な判断、的確妥当な処置や行動をなすことができる能力であります。われら凡人に1番欠けている目ではありますが、なんとか少しでも身につけたいと願わずにはおれません。

あぁ、また、やっちゃった。修行抜きの願いなんて、何の役にも立たないのにねー。やっぱり、程遠いか、名人、達人は。


「お茶の間説法」(37話分)
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集中力「三昧」の境地

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https://www.youtube.com/watch?v=P8sNavidk0Q

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


よろず上達法の1番は、こだわりを捨てること。2番はルールを守ること。3番はハラを立てないこと。4番は精進努力すること。で、5番目は、心を落ちつけ、集中力を身につけることであります。

仏教ではこれを「禅定(ぜんじょう)」とか「三昧(さんまい)」とか「ヨーガ」とか「心一境性(しんいっきょうしょう)」とか申します。だいたい同じような意味で、迷いを断ち、感情を静めて、心を一つの目的物にそそいで散乱させないという、精神集中の修練のことです。

まあ、これのまねごとでもできたら、達人になるに違いないわけで、この前のテニスの全米オープンですが、あれで優勝した、なんとかっていう美人プロ、ビクトリースピーチでいってましたね。「とにかく精一杯の精神集中を心がけた」って。そうだろうなあ、と思います。あれだけたくさんの人が見ている中で、長いゲームを展開するわけですから、気も散るし、心が乱れることもよくあるでしょう。勝つか負けるかは、集中力で決まるといってもいいんでしょうね。

ところで、仏教では、この集中力を身につけ、三昧の境に入るまでのプロセスを具体的に示していて、まず、調身、調息、調心、つまり身体と呼吸と精神を調整することからはじめよ、といいます。あなた、いかがですか?身体のコントロール、ちゃんとできていますか?ジャズダンスだエアロビクスだと精出して、呼吸と身体はまずまずですか?さあ、それではお経にある心の安定統一法をのぞいてみましょうか。

まず第一課・・・「諸欲を離れ、諸不善法を離れよ」(ダメだこりゃあ。欲を捨てるなんてできっこないよ)
第二課・・・「浅い分別や、チマチマした分別をやめて、心を浄く保ち、統一せよ」(そうしたいのはヤマヤマだけど・・・)
第三課・・・「喜びを捨離せよ」(エエッ?喜びもすてるの?)
第四課・・・「楽と苦を断じつくし、不苦不楽の境に入れ」(おそれ入りました)

禅定などというのは実践法なのでありますが、字で読んだだけで、目の前が真っ暗になってしまうのが、われら凡人であります。そしてお経にも、普通の人間の日常の心の静まりなんてものは、本物の精神統一にはほど遠いとあります。

いつだったか、わたしも研修会で禅定修行のまねごとをさせていただいたことがありましたが、なんともいやしい根性のまま終わってしまったことであります。しかしまあ、この禅定の功徳などというものをみると、第一に健康に役立つとあり、そして、さらに、神通力もそなわり、安眠できて、気持ちよく目覚め、悪い夢を見ないし、人からは愛される・・・などとあります。なかなかけっこうな功徳でありまして、少しでも努力して、さっきのプロテニスの女王とまではゆかないまでも、健康のため、安眠のため、気持ちよく目覚めるために、禅定・三昧の境のにおいでもかがせてもらいたいとも思うわけですが・・・。いやあ、三昧といえば、こちらは、読書三昧、仕事三昧、なんていうかっこいいものに精神集中できるわけがなく、昼寝三昧、テレビ三昧、遊び三昧、なまけ三昧の毎日であります。上達しないよなー、これじゃあ、なーんにも。


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仲良くなるための精進努力

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https://www.youtube.com/watch?v=uTVtxx3GDl8&t=94s

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


何事も上手になるには、精進努力が大切なようでありまして、お経にも「もし人、精進を具せば、王の力自在なるがごとし」とか、「精進を心がければ、万事成就す」などとあります。で、この精進というのは仏法でいう実践道の4番目の徳目で「物事に精魂こめて、ひたすら進むこと」とか「善をなすに勇敢であること」「努め励むこと」「いそしみ」「励み」「励みの道」「勇気」「勇敢にさとりの道を歩むこと」「精励(せいれい)」「善を助けることを特質とする」「悪を断じ、善を修する心の作用」「俗縁を絶って潔斎(けっさい)し、仏門に入って宗教的な生活を送ることをいう」「魚、鳥、獣の肉を食わないことをもいう」「懈怠(けたい)を改めて、身をきよめること」と、とりあえず、良いことずくめで、どれをとっても、あなたの生活の目標になるものばかりのようであります。

ひたすらとか、いそしみとか、はげみというのは、スポーツ上達法にも欠かせないものでありまして、理屈でどれほどわかっていても、体がついてゆかねば何もならない。で、その体に覚えさせるには、それこそ、ひたすら精進努力するしかないわけです。

私達のお寺の境内のゲートボールもしかりで、73歳のNさんときたら、精進努力のかたまりのような人。目が不自由で、片方はほとんど見えなくなっていて、方角、距離感ともにかなりのズレがあるはずなんですが、とにかく、練習に練習を重ねて、そのハンディを克服。スタートしてから2年半、なんとこのNさんが、月例大会の最多優勝記録保持者なのであります。で、いまでは地区の老人会のゲートボールのキャプテンもやってらっしゃって、ついこの間は、県の大会にも出場したんだそうです。

ところが、これがたいへん。試合に出てみたら、みんなうまいことうまいこと。Nさんチームはコテンパンに負けちゃった。
「いやあ、上には上があるもんですなあ。とにかく、よそのチームの連中ときたら、朝の5時からコーチつきで徹底的に練習をやっていて、作戦やら、サインやらと、そりゃもうビックリギョウテンすることばかりでした。それにしても、負けたくやしさでいうんじゃないが、ゲームというよりケンカのようなものすごさでしたよ」とか。

とにかく、強いチームといわれるところは相手の気持ちも何もあればこそ、ここぞというときになると、敵の球を1つ残らずコートの外へスパーク打撃でけ散らすそうで、これでもか、これでもかという感じでやってくるんだそうです。
「ほんとに、私たち、こりゃあ地獄だなあと思いましたよ」とNさん。

勝負というのは本来、そういうものかもしれません。勝てばよし、負ければ弱しで、そのくやしさの中から、また立ち直って精進努力、ナニクソ、ナニクソ、コンドコソということになって実力アップにつながってゆくのかもしれません。しかし、それはもう、体力増進とか、心のふれ合いとか、そんなものとはかけ離れた、スポーツの名を借りた我と我のぶつかり合いの戦争で、それこそ修羅か地獄としかいいようがないものじゃないでしょうか。多いですね、近頃こんなの。

そういえば私たち、精進努力は「善をなすに勇敢なること」という心を忘れてしまっているみたい。勝つことにじゃなくて、仲良くなることに精進努力しなくちゃいけませんなあ。


「お茶の間説法」(37話分)
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