富山別院大法要の関連イベント

富山市総曲輪の真ん中にある富山別院が親鸞聖人750回大遠忌をつとめるにあたり、別院開創130周年、本堂再建50周年を重ねて三法要が行われます。

その関連イベントとして、「ともに唄おう 平和といのち」をテーマに前日6月3日、森山良子さんを迎えて前夜祭のコンサートが開催されます。また、県内の各ブロック13ヶ寺で連動イベントが開催されることになりました。

黒部・魚津地区(黒西組)は、黒部市荻生の称名寺で行われます。出演は、富山県内で活躍するバンド「楽屋姫」、お坊さんの影絵グループ「ともしえ」、富山のお坊さんバンド「ジ・アザーズ」です。唱歌や昭和歌謡などをみんなで歌います。善巧寺からも総代さんや婦人会の方たちと参加予定ですので、興味のある方は声を掛けてください。
kokuseiura

開催に寄せて/実行委員長 細川淳栄
戦後70年を迎えましたが世界は今も戦争状態にある地域が絶えません。戦争の火種は全世界に蔓延し、長く平和を保ってきた日本も巻き込まれる危険性にさらされています。しかし多くの人々は他人事のように、一部の政治家が右往左往するのを眺めています。かつて安保問題やベトナム戦争を機に「非戦・平和」をメッセージとする曲がさかんに歌われ、傍観者だった大衆に熱を与えました。歌はバラバラだった人々の気持ちをつなぎ、大きなエネルギーとなったのでした。今、世界もこの国も再び剣呑な道を歩もうとしています。それはこのたびの法要のテーマである「ともにいのちかがやく世界」を著しく阻害する事態です。お釈迦さまは『殺してはならない、殺させてはならない』と説かれ、浄土真宗の開祖親鸞聖人は「世の中安穏なれ」と訴えられました。そのみ教えをいただく我々が、寺という教えの場を用いて平和へのメッセージを訴えることはむしろ必然だと考えます。あの時代、教えを曲げて戦争に追従していった我々の責任を果たすことでもあります。平和の尊さといのちの尊厳を説くお寺で、ともに聴き歌いながら平和への思いを共有し発信したいと思います。

関連イベント
3/12 水橋組・照蓮寺(富山市水橋)
3/26 婦負西組・妙宗寺(富山市婦中町)
3/27 善入寺(中新川郡立山町・立山組)
4/2 黒西組・称名寺(黒部市荻生)
4/9 黒東組・善称寺(入善町東狐)
4/16 上市組・浄泉寺(中新川郡上市町)
4/23 呉北組・専龍寺(富山市北代)
4/29 善解組・聞名寺(富山市八尾)
5/5 富山南組・妙行寺(富山市秋吉)
5/7 上新川組・万行寺(上新川郡大沢野町)
5/14 婦負東組・妙順寺(婦負郡婦中町)
5/28 富山北組・光慶寺(富山市針原中町)
6/3 本願寺富山別院

バラバラで一緒

子育て中のお寺仲間の間では、毎年12月になるとクリスマス話題で盛り上がります。私が子供の頃は「お寺にクリスマスは必要なし」が当たり前でしたが、最近は世の中の盛り上げ方が激化して、保育園でも1ヵ月前からクリスマスソングの練習が始まり、飾付けをみんなでして、盛大にパーティを行います。そんな中でうちの子は必要なしとはさすがに言えませんが、次に子供にとっては「なんでうちではやらないの?」が大きな問題となります。

「うちはアミダさまがいつも見守ってくれているからサンタさんは来ないんだよ」と言っても、すでにクリスマスの物語に没頭しているので、なかなか受け入れられません。ここでお寺の葛藤が始まります。イベントと割り切る人もいますし、無理やり置き換えて「お坊サンタ」に変身する人もいるぐらいです。こちらからすると、イスラム教徒に豚肉を出して、「みんなが食べてるのになんであなたは食べないの?」と聞くようなものなのですが、日本では、どんなに多様化の時代と言われても、「みんな同じ」という感覚が根付いているので、少数派は黙っています。

以前、東本願寺に「バラバラで一緒」というスローガンがありました。「一緒」と思っていた人に「違い」があると、裏切られたような気持ちになりますが、あらかじめ人はそれぞれに違うということが前提にあると、違うことが当たり前で、少しの共通点に喜ぶことが出来ます。世代間のギャップも同じことではないでしょうか。そのことを今一度見つめていきたいです。

(寺報158号)

お寺の新年

※1年前の写真です。

除夜会(じょやえ) 12月31日 23:30
1年の納めとなるおつとめ。

除夜の鐘 1月1日 0:00
新年と同時に除夜の鐘を撞きます。
1560751_10202230134527641_815838487_n
善巧寺の梵鐘(ぼんしょう)は、昭和23年に新調されたもので、彫刻家の佐々木大樹作の彫り物が描かれています。平成2年建立の鐘楼堂(しょうろうどう)は、インドにある祇園精舎の鐘と同型です。祇園精舎の鐘楼堂も日本人の寄付金によって建てられたそうです。
新年は心新たに除夜の鐘からお迎えください。お待ちしております。

修正会(しゅしょうえ)1月1日 6:00
新年初めてのおつとめです。

年頭参り 1月1日 8:00~16:00
ご縁のある方々がそれぞれのペースでお寺へお参りに来られます。善巧寺ではおでんを用意してお待ち受けをしています。
1488230_10202230138727746_1077213365_n 995568_10202230139447764_79623099_n

仏教プレゼン大会 / 本願寺

近年、仏教界において様々な試みがされています。
その活動を広く共有していこうと、本願寺において「仏教プレゼン大会」が行われました。
若者を対象に活動している6人のプレゼンターが登壇し、現代におけるお寺や仏教の可能性をさまざまな切り口から伝えてくれました。とても刺激を受けましたので、ここに紹介させていただきます。

・お寺の「おそなえもの」を、仏さまからの「おさがり」として頂戴し、全国のひとり親家庭を支援する団体との協力の下、経済的に困難な状況にあるご家庭へ「おすそわけ」する活動「おてらおやつクラブ」
・銀座のギャラリーにOLが集まり、お坊さんを囲んで語り合う「僧職男子に癒されナイト☆」
・若手僧侶が路上や街中で人々のグチ(愚痴)を聞き、集めてサイトで公開していく活動「グチコレ」
・伝道の在り方を問い直し、影絵を用いて布教を行う「ともしえ」
・寺社好き男女の縁結び企画「寺社コン」や、お寺の宿泊施設「宿坊」を推奨する活動
・これからのお寺や僧侶の在り方を同志と共に学ぶ僧侶セミナー「未来の住職塾」

いずれも共通しているのは、ひとりの僧侶だけでアクションを起こすのではなく、お寺以外の業種や諸団体、仲間と手を取り合い、互いに高め合うようなスタイルで活動されています。こういう在り方は今に始まったことではなく、そもそもお寺はご門徒さんや地域の人々が協力し合って支えられてきた歴史があり、現在もそれを引き継いでいます。ただ、現代においては、いち寺院やいち地域のネットワークでは支えきれないことが多くあるので、手の取り合い方が昔よりも広い範囲になってきている印象です。

僧約

僧約(そうやく)とは、善巧寺11世僧鎔(そうよう)が開いた学塾「空華蘆(くうげろ)」の学則です。現在は、空華学派の流れを汲む宗門校「行信教校」の入舎式に拝読されています。
※ここでは超訳になっていますので、詳細を知りたい方は末尾の原文をお読み下さい。


【意訳】僧約
一、朝夕のおつとめは場に応じたやり方でつとめ、決してなまけず怠らないこと。おつとめは念仏者のまっさきになすべき務めである。先人や諸先輩方の声にしたがい、自分勝手に読んではならない。手を洗い、口をすすぎ、身なりと作法を整えて心静かに座り、読み方は高過ぎず低過ぎず、自分の耳に入りやすい声で読む。急いで声を出して思い上がらず、慎み深く読むこと。

一、日夜ひたむきに学び、力んで論じてはならない。経典の心をたずね深く考えよ。怠けて何もせずに食事だけを貪りながら、学友の秩序を乱したり外に傲慢な態度を取ることは許されることではない。

一、真摯に学ぶ者は除き、学びの場でふざけたり無駄話はしてはならない。言うまでもなく、汚い言葉や席を立って人の邪魔をするようなことはあってはならない。先輩とも後輩とも、素直に尊重仕合う関係をもつこと。

一、初歩的なことを学びたい者がいれば、丁寧に接して正しく伝えること。嘘を言ったり面倒くさがらない。

一、定められた日には本堂へ参ること。並び順は、典座を1番として逆順に並ぶ。首座を最後尾とする。ここにおいては譲ることを美(よし)とする。身なりと作法を整えて一同に心静かに座る。回りを見たり、足を崩したり、ふざけて笑ったりして、参拝者に悪い影響を与えないこと。さぼった者は罰として十銭を入れる。

一、十カ所の村へ何度も托鉢へ行ってはいけない。また、2、3人で行ってもならない。執事の者は人を選んでこれを出し、むさぼり争ってはいけない。法の如く行ぜよ。その他の用事で出向いた場合も、話し合って戒めを守ること。酷い有様を方々で行い、空華の門を汚さないように。

一、食事に対してあれこれ言うことはあってはならない。賜った恩を想い、施しであると受け取る。食事中は話さず、もしこれを破った者は罰として三銭入れよ。また、頂き物があった場合は、平等に分配すること。ただし、病状の者は除く。

一、毎日定められた銭を出しこれを日用費とする。客層も例外ではない。

一、典座は前日にお花やお香を準備して掃除を行う。

一、他人に混乱を招かないように、雑事も仏法のごとくに重んじること。

ここに略して10章の要約を記した。重禁などのことは別に収めている。気を引き締めておくこと。幸いに我々は仏法の恩恵をいただいている。そのご恩を想わずにはおれない。日夜、熱心に励み、仏さまの恩に報い、信者からの頂き物に感謝する。今ここに僧約を制ずる。同盟の者はこれをつとめよ。これをつとめよ。

1758年3月15日
釋僧鎔


【書下し】僧約
一、晨ポ礼誦念佛宜きに隨て廢倦すべからず。
附 夫れ讀經は佛者の先務なり。天龍八部座を擁して聽く、冥顯群衆聲を尋て到る、何ぞ其れ放縱に看讀せんや。手を盥ひ口を漱ぎ威儀を整粛し、跏趺して座せ、音聲は高からず下からず、直ちに己が耳に入るを限りとす。豈復勃卒として聲を起して、人を慢ぜんや。愼しまずんばあるべからず。

一、日夜孜孜として學び力むること論毋し。要ず文義を逐て善く之を思念せよ。殊に遊手し竊食して社盟に濫吹すること許さず。

一、唯討尋を除きて、社中堅く戯謔雜話を禁ず。何に況や醜言動色を以て自他の道意を損ずべけんや。須く當に柔順和合して視ること弟兄の若くすべし。

一、社中初學の習讀を欲する者有らば、其人を選ばず、要ず須く愛護教誘すべし。謾て厭倦の心を生ずる莫れ。

一、定日本堂に覲へよ。次列の法は典座を首と爲し、環ぐりて始めに復す。首座を其の尾と爲す。蓋し斯道は善く讓を以て美と爲すなり。一面に來座して須く威儀粛整なるべし。豈四顧縱横匍匐戯笑してそしりを傍覲の人に招くべけんや。又身、唱導に當たりて逃遁して應ぜざる者は罸として十錢を入れよ。

一、十室の邑に數乞鉢すべからず。又二三人を過ぐべからず。執事の者、人を分ちて之を出し、貪求爭競す須らず。且つ市中に於ては要ず法の如く行ぜよ。其の餘の事有て他に趣くも、亦須く戒護開談すべし。奈何ぞ狂態縱横にして恥を祖門に取る所以を思わずや。

一、飲食の精麁衆に隨ひ、是を論ずること毋かれ。唯恩賜を念ず、是を受食の法とす。に曰ずや、碗鉢聲を作す時は餓鬼咽中に火を起す。況や乃ち食中の語笑をや。若し誤りて之を犯さば罰として三錢を入れよ。又或は施者有て飲食若しくは醤菜を致せば平等に分布せよ。唯病用を除く。

一、社中毎日兩錢を出し、日用の資と爲す。客僧と雖も除くべからず。

一、典座は前日に宜く香花及び洒掃等を掌(つかさど)るべし。

一、切に傘葢靴屐等他人に混乱することを忌む。其の餘の雜事法の如く執行せよ。

右十章、略して其の要を出す。其の重禁に至ては、別草に具さにす。謹で諸兄弟に白さく。吾曹幼き自り恩賜之中に長ず。幸に法潤を蒙る。何ぞ坐食して佛恩の由來を思はざるべけんや。但望むらくは日夜孜々として相ひ與に礪み應に行を立て徳を成じ、上は佛祖の恩に酬ひ、下は信施の報を償ふべきなり。寧ぞ恣心蕩逸にして佛陀の冥見を念はざらんや。一日二日茲を念ひ、茲に在りて、終に立てて制と爲す。同盟の士これを勗めよ、これを勗めよ。

維時寶暦第八歳次戊寅三月十五日
釋僧鎔謹識

【原文】僧約・制法

> 空華の里
> 明教院釈僧鎔を訪ねて
> 実のないイチョウの木の話
> 空華学轍の思想/桐谷順忍
> 僧約
> 専精会
>> 黒部市HPより

秋の法要

秋は2つの法要が行われます。
ひとつは、親鸞聖人のご法事「報恩講(ほうおんこう)」です。一般的にはお盆参りやお彼岸参りのほうが認知されていますが、浄土真宗では、なによりも報恩講を大事にしています。その証として、お寺でつとめる報恩講に留まらず、門徒さんのご自宅一軒一軒でも親鸞聖人のご法事をつとめようと、在家報恩講がつとまります。

善巧寺報恩講
10月19日(月)10:00~、13:30~
10月20日(火)10:00~、13:30~
講師…川崎順正先生

もうひとつの法要は、善巧寺の11代住職僧鎔(そうよう)のご法事「空華忌(くうげき)」です。僧鎔は、善巧寺の歴史において特に活躍した住職であり、浄土真宗の教団においても教えを深められた人物として重要な役割を果たしました。今年は、僧鎔とご縁の深い宗門校「行信教校(ぎょうしんきょうこう」から、学生方が参拝される予定です。また、初日は「正信偈を学ぶ」と題し、行信教校より天岸浄圓先生をお招きし、その教えを深く学んでいく講座が行われます。どなたも参加自由です。

空華忌
11月4日(水)13:30~ 行信講座「正信偈に学ぶ」
11月5日(木)10:00~、13:00~
講師…天岸浄圓先生

※初日の行信講座は、会費2,000円(僧侶5,000円)です。

おはずかしい

10数年前、お寺参りをされていたおばあちゃんたちがよく口にしていた「おはずかしい」「もったいない」という言葉を改めて思い返しています。

「はずかしい」という心は、正しいものに出会った時に起こる心で、自分を信じ自分を正しいと思っていては、その心は起きません。また、ただ「はずかしい」というのではなく、「お」が付いていることが味わい深いです。それは、自分で起こした心ではなく、仏さまの正しい姿に出会ったからこそ起きた心で、丁寧語が付けられています。なにげない言葉として受け取っていましたが、他力的な思想が込められた尊い言葉でした。涅槃経にも「はずかしいという心がない者は人とはいわず、畜生という」とあります。

仏さまに照らされて、我が身を知らされた時、親鸞聖人は「とても地獄は一定すみかぞかし」と、私は地獄の他に行き場がないとおっしゃっています。そのような私こそを救いの目当てとされた阿弥陀如来の光りに出会った時、こぼれ出るように口にされたのが「もったいない」という言葉でしょう。

ただ、この言葉には注意が必要で、自虐的にひたすら自分を卑下していると、身が持たなくなります。「救い」と懺悔」はふたつでひとつです。自分自身で反省を繰り返していると堕ちるばかりで抜け道はありませんが、そんな私こそ、仏さまはいつもおそばにましますと、救いの目当てとされていることを胸に留めて、仏さまの名「南無阿弥陀仏」:を申しましょう。

(寺報157号)

思春期・若者を知るための公開シンポジウム

本願寺で開催された「思春期・若者を知るための公開シンポジウム」に参加してきました。この企画は、昨年本願寺に新設された「子ども・若者ご縁づくり推進室」が取り組む活動のひとつです。たまたまのご縁で委員会のメンバーにお誘いを受け、組織の難しさを肌で感じながらも、遠慮なく意見を言わせてもらっています。

「大人は子どもや若者に対して何が出来るのか?」という以前に、ほっておくとすぐに偉くなってしまう自分自身の在り方が問われる内容でした。それを端的にあらわしている文章を紹介させてもらいます。

私たちはそれぞれ周りの人と違った性格や性質を持っています。しかし、知らず知らずのうちに、『大多数』『標準』だと思える方に自分を合わせ、所属させて、自分は『普通なんだ』と自らの居場所を作っているようです。そのようにして、周りと違うこと、周りに無理に合わせることに悩み、痛みを誰にも認められず生きづらさを感じている若者がたくさんいます。思春期の悩み、苦しみの一因が、『普通はこうである』という多数派の決めつけにあるなら、浄土真宗のみ教えに生きる私たちが、全ての人の幸せを願う本来のあり方とは裏腹に、苦しめる側に立っていたのではないかという反省が、この浄土真宗本願寺派としての取り組みの背景のひとつです。

旧体制の組織としてはとても切り込んだ内容になっているので、継続には様々な困難が予想されますが、期待せずにはおれません。善巧寺へ還元出来るように力を尽くします。

雪山俊隆(寺報156号)

「掛け替えのないいのち」とは、代用がきかないということです。社会のあらゆる場面において、ほとんどは代用がきくのかもしれません。総理大臣と言えど、会社の社長と言えど、代わりは次に控えています。もちろん、その人にしか出来ないことはありますが、やはり会社や組織の中では、代わりのきくいのちを生きています。でも、我が子や愛する者のいのちは変わりがききません。阿弥陀さまの眼差しは、私ひとりを代用のきかない「いのち」として見てくださいます。あなたがあなたにしか生きられないように、私は私にしか生きられないいのちを生きています。

35年を節目に幕を閉じた「雪ん子劇団」も代わりがきかない大きな存在でした。残念ながら、同じことをやろうとしても私にはその力がありません。申し訳ないというのも何か違うと思いながら、申し訳ない想いでいっぱいです。今は先代への想い以上に、大活躍する父の陰で淡々とお寺を支え続けた祖父母に感情移入します。私の立場は、祖父に近い位置にいることを今更ながら知りました。でも、同じことは出来なくても、その意志は受け継いでいるので、それが具体的な形に出来るように、粘り強く勤めていきます。

阿弥陀さまは、私のことを「そのままでいい」と言ってくれます。有り難いです。その暖かさを支えに、「このままではいかん」と踏ん張る力を持って、先に進みたいと思います。少し重くなってしまいました。四月はお釈迦さまの誕生を祝いましょう。

雪山俊隆(寺報155号)