しんらんさまにお花を供えましょう ~報恩講~

10月18日~20日、しんらんさまのご法事「報恩講(ほうおんこう)」が行われます。善巧寺の境内にたたずむ親鸞聖人像の前には、お花を供えるコーナーを設けますので、お庭のお花や野花など1輪お持ちいただけないでしょうか。期間中、13:00から受付けています。みんなで1輪ずつ、100輪集まればとてもきれいなお供えになります。どなたも参加自由ですので、外出を控えている方もこの折にどうぞご参加下さい。

門徒さまにおかれましては、コロナ禍を考慮して地域分散型でおつとめします。18日は入善地区、19日は黒部地区、20日は宇奈月地区を中心に大別していますが、宇奈月地区が多いため音沢と愛本新は18日、下立と下立愛本は19日に割り振りしています。指定日を目安にお参り下さい。

>> お申し込みこちら

10月18日(日)13:30~15:00
講師:飛鳥寛静先生(高岡・善興寺)
対象地域:浦山新、上野、東狐、板屋、芦崎、入善、入善朝日、舟見、愛本新、音沢、出、経田、魚津、滑川、富山

10月19日(月)13:30~15:00
講師:雲林重正先生(新潟・浄秀寺)
対象地域:中陣、中新、栃沢、生地、石田、三日市、植木、荻生、田家、窪野、柳沢、下立、下立愛本

10月20日(火)13:30~15:00
講師:西塔公崇先生(富山市・金乗坊)
対象地域:内山、栗虫、浦山、熊野、栃屋、下村、大橋

どうしようもない私でも

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「聞いて、思って、身につける。そら、その通りやけどさあ。なかなか、そう、うまいことゆきませんちゃあ。ねえ、人間やもん。ねえ」
さっきまで、うなずいて聞いていたおばあちゃん。お講の法座の中休み。こたつに足をのばしながら(そう、うちの寺では4月末まではこたつしてるの)仲間のおばあちゃんに「ねえ、人間やもん。凡夫やもん。できんっちゃねえ」と同意を求めている。

「そいが、そいが、凡夫やもんねえ。聞いて、思うまでもいかんわねえ。わたしら、聞く-忘れる、聞く-忘れる やもんねえ」
話し手も話しても、聞く-忘れるで、身につくなんて、とんでもない、という。大阪弁なら、まさに、せーないなー という感じ。
でも、やっぱり、おばあちゃんのいう通りでありまして、ホーキケヨ、のうぐいすの鳴き声を聞いたとたんに、チカッと目覚めて
「そうだ、世の中は無常なんだ。怠りなく努めねば…」
と、仏道修行に一歩踏み出す人ばかりだったら、阿弥陀如来さまなぞ、居なさらんでもよかったかもしれん。ところが、ほんと、おばあちゃんのいう通り、聞く-忘れる で、なんにも身につかん私たちだからこそ、阿弥陀さまというお方、お出ましになったんでしょうなあ。

「仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし、これを聞という」これは親鸞聖人のおことばなんですが、どういうことかと申しますと、仏願は、つまり仏の願い。ここでは、阿弥陀仏というお方の願いであります。で、生起本末といえば、ことのてんまつ、一部始終ということ。ですから、阿弥陀仏というお方が、どういう願いを持ったお方で、どういう働きをしておられるお方かということを、疑いの心を持たずに、素直に聞くというのが、真宗でいう「聞く」ということなんです。上も中も下もない。ただただ、聞かせていただくばかりだという。

で、その願いでありますが、わかりやすくいうと、阿弥陀仏という仏様は、この私-つまり、欠点だらけの、うぬぼれのかたまりの、頭のテッペンから足のツマ先まで、どこさがしたってマルのつけようのない、ペケばっかりの、どうしようもないこの私でありながら、それにも気づかず、ふんぞり返って、オレがオレがと生きている-そんな私を見そなわして、そういうお前だからこそ、救わずにはおかない、目覚めささずにはおかないと立ち上がれられ、もし、その願いがかなわなかったら、自分も仏にはならないとおっしゃって、そして、その願いを全うして仏様になられたのが、阿弥陀仏というお方だというのであります。

仏様というのは、おしゃか様をふくめて、数限りなくいらっしゃるんだけど、その中で、十方の衆生、つまり、どうしようもないこの私を、救わずにはおかぬといってくださるお方が、阿弥陀さまなんだ。それも、聞いて思って身につけて、と、条件つけてではなくて、まったく無条件で、生きとし生けるものみなすべてを悟らしめる、とおっしゃって下さっている。こちらで何をどうするということもない。ただただ手を合わせて、ああ、そうでございましたか、と素直に聞かせていただいて、よろこぶほかはないのであります。
ホッ、なにやらちょっとありがとうなってきたみたい。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
>> https://www.zengyou.net/?p=5702

>>「お茶の間説法」 プレイリスト
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ほんこさま

親鸞聖人のご法事「ほんこさま」のお参りが9月からスタートしました。かれこれ20年以上お参りさせていただいていますが、毎年新たな発見があります。

先日お参りしたお宅では、年季の入った太い柱や梁が特徴的で、聞くと明治5年に建てられたそうです。善巧寺の現在の本堂は明治14年に建立しているので、それより10年近く古いことに驚きました。150年という歴史は、一代を25年に換算すると6代にわたります。何度も修復を重ねながら、どれほど大切にしてこられたことでしょうか。「家」を代々守るという価値観が薄れた昨今、その貴重さが際立って見えました。

お寺で行う報恩講は、10月18日から20日まで3日間つとめます。今年は、出来るだけ密集を避けるために、地域分散型で行います。例年と違い戸惑われる方もおられると思いますが、どうぞご自分の地域の指定日を目安にお参りくださるようお願い申し上げます。また、境内にたたずむ親鸞聖人像にお花をお供えするコーナーを設けますので、庭のお花や野花など、お参りの際に一輪お持ちいただけないでしょうか。一輪が百人分集まれば、とてもキレイなお供えになります。外出を控えておられる方も、ぜひお花のお供えにご参加してくださるとありがたいです。親鸞聖人は759回忌を迎えます。長い歴史の中でさまざまな変遷を経て今に至る聖人のご法事。どうぞ手を合わすご縁を大事にお過ごし下さい。

雪山俊隆

あえてよかった/雪山隆弘

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9月17日で先代・雪山隆弘の往生から30年が経ちました。
1990年(平成2年)に50才で往生した隆弘は、晩年の闘病中も積極的に法話や講演を引き受けていました。今回公開する法話は、三重県の専修寺(浄土真宗高田派本山)で行われた法話です。

人間の死亡率は100%
・健康第一だけが人生じゃない
・テレビの言うことは99.9%ウソ
・あえてよかったね
・生きとる間は生きとるぞ
・また会える世界

など、善巧寺の定番となる話が盛りだくさんで、どこまでも明るく「私の生死いずべき道」を語った隆弘の集大成、決定版とも言える内容です。ビデオからのデジタル化のため、画質はよくないですが、どうぞご覧ください。

聞いて、思って、身につける

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聞く、というのにも、いろんな聞き方があるもので、お経には、上中下の三つあると説いてあります。
まずは、下。
おい、俊隆!宿題しろよ、と私。
「ウン、わかった!」とむすこ。
で、次の瞬間、むすこはランドセルを放り出し、表へ飛び出している。コラッ!ちっとも聞いていないじゃないか。こういうのは、ただただ、耳で音声を受けとめた、というだけだから、下の聞といいます。

次の中。これは、聞いて、思う。つまり、話を聞いて、心に当てて、うなずくってこと。
「うん、うん」
とお講参りのおばあちゃん。ちょっと、まだ早い。ほれ、前にも、お講の法座で話したことありましたよね。うちのむすこと、母親の対話。

そう、5,6年前のこと、うちの家族7人が、朝ごはんを食べていた。そしたら、長男が、
「ねえ、うちで、一番最初に生まれたのはだれ?」
と聞く。当ててごらん、といったら、エート、とみんあの顔を見まわしながら、
「ウン、一番はおじいちゃま、で、二番はおばあちゃま、三番はお父ちゃん、四番はお母ちゃん、五番はお姉ちゃん、そいで、六番目がぼくで、七番がのりくん」
とやりだして、何度も何度もくり返す。それからしばらくして、こんどは、不思議そうにもう一度、みんなの顔を見ながら、ポツンといったの。
「みーんな、生まれたねー」
グッと胸がつまって、どういったらいいか戸惑っていたら、女房がフッと
「そうねー。あえて、よかったわね」
といったの。なんかこう、ブワーッとうれしくなったわけ。」で、やっぱり、私たち、本当にめったにないご縁で、夫婦になったり、親子になったり、嫁と姑になったんだから、女房のまねしてさ、一ぺん、みんな、手をにぎり合って、「あえてよかったねー」っていい合っておこうよ-とまあ、そんな話を、いろんなところでしたわけだ。婦人会でも、老人会でも、みんな「うんうん」って、うなずいて下さってね、私もうれしいなあって思ったことがある。

まあ、こういうのが、中も聞。つまり、聞いて、心に当たるものがあって、うなずいて下さったわけでしょ。でも、これは、中も聞であって、上じゃない。というのは、うなずいて下さったから、よし、それでは今日これから帰ったら、まず、あなたと嫁さんで手をにぎり合って「あえてよかったわね」とやって下さいませ、とたのんだら、
「そら、若ハン、ダメダメ!」
だと。

そう、上の聞は、聞いて、思って、身につけるってことなんです。ウン、それで、この話にはおまけがついていて、明日の土曜日の八木治郎ショーでアシスタントをやめなさる浜美枝さん。あの方、うちの婦人会のメンバーでもあるんだけど、この話をいつだったか聞いて下さったようで、今日発売のあの人の本の題名が、ズバリ「あえてよかった」なんですと。先日、電話をかけてきて、「番組はやめますけど、いろんな人にあえてよかったって思うし、それに、人生すべて出会いですものね。その出会いを、やっぱり、あえてよかったとよろこばなくっちゃね。あのことば、いただきます」ですと。話し手より身についているみたい。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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ねえちょっと聞いてョ

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ホンコさん、というのがあります。報恩講と書きまして、早い話が、真宗の宗祖、親鸞聖人の法事なんです。これを秋から春までの間、ちょうど農閑期にあたる時期に、門徒の家を一軒一軒まわっておつとめするわけです。
「寺の坊さん、ホンコまわりにこられたら空が荒れて・・・」
とか、
「ホーラ、宇奈月の雪坊さんがこられた」
とか、いらんことをいってはやします。名前が雪山だからといって、雪を持ってくるわけはない。それこそ、因果の道理に反するわけなんだけど、やっぱり、こういうこと、いいたいんですね。ホンコさんだけじゃなくって、新聞社でもそうですね、あのデスクのときは事件がつくとか・・・そんなアホなことはないんだけど、因果の道理もわきまえず、ちょっといってみたくなることらしい。

コンニチハ!
「あー、ようこそ、お待ちしておりました」
またホンコさんになりました。よろしゅうに。
「ハイ、こちらこそ」
で、お仏だんにおあかりつけておつとめがはじまる。
キミョウムリョウ ジュニョライ―
おつとめが終わると、お説経。そのあと、御文章という蓮如上人のお便りを古式ゆかしく拝読してホンコさんはおしまい。あとは茶の間で、お茶とお菓子をいただいて世間話に花を咲かせるんですが、なかにはおもしろいこともありましてね、きのうおまいりしたお宅では、おばあちゃんとお孫さんが迎えて下さった。

コンニチワ!
「あらー、お坊さんこられたわよ。さあ、ミッちゃん、お坊さんにいらっしゃいしましょ。ハイ、おあがり下さいっていいましょ。さあさ、どうぞっていいましょ。ねー、ミッちゃん。ハイ、ののさままいりましょ。ハイおすわりして。ハイ、いいコしてるんですよ。ハイ、ナンマンダブっていいましょ」
キミョウムリョウ ジュニョライー
「ホーラ、ミッちゃん、おつとめはじまった。いいコしてなさいよ。そうそうハイいいコですねー。ホラ、終わった」
エー、今日は年に一度のホンコさんであります。ホンコさんと申しますのは親鸞聖人のご法事を申しておるのでありまして・・・
「ハイ、ミッちゃん、お説教はじまったわねー。お行儀よくしとらんと、お坊さん、お寺へ連れていかっしゃるよ」
(そんなこというてないがな)エー、それで浄土真宗の念仏の一門を開いて下さった聖人のご法事は、毎年毎年こうしてつとめさせていただいておるわけでありまして・・・
「これ、ミッちゃん、ちゃんとしとろ!ちゃんと、お説教聞きましょ。ホラホラ、お焼香はあとで、あとで!」
エー、でありますからして、この私たちは南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせをよろこび・・・
「まあ、ミッちゃん、そんなことしたらダメ!もう!お坊さんに連れてってもらいますッ!」
コレ、おばあちゃん、さっきからみとったら、あんた、ひとつも、私の話聞いてないのとちがうか。ミッちゃんもええけど、あんたちょっと、こっち向いて、ホーキケヨ。
「さ、ミッちゃん。すみましたよ。お坊さんにありがとうっていいなさい!」
あのなー。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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ほっこり法座(10~11月)

仏さまのお話と、お寺のごはんを味わって、ココロとカラダのデトックス。
今回の昼食は、テイクアウトもできるお弁当を用意します。担当は、宇奈月温泉街のカフェ&雑貨店「HoLo家」さんと、善巧寺の諸行事でも料理を提供している「mebunryo-kitchen」。体に優しい味をご堪能下さい。尚、地区当番制の精進料理は、調理場の密集を避けるためしばらくお休みになります。

参加費:1,500円(昼食代込み)
持ちもの:じゅず
服装:自由


10月1日(木)11:00~12:30
ブッダの生涯
講師:雪山俊隆(善巧寺)
ブッダ=お釈迦さまはどんな人生を歩まれたのか。映像を交えて青年期から出家までを辿ります。
食事:HoLo家(テイクアウト可)
参加費:1,500円


10月16日(金)11:00~12:30
慈悲のこころ
講師:奥野寛暢(富山市・妙行寺)
「絶対に救われない私」と「絶対に救う仏様」。この矛盾する2つを「慈悲」というキーワードをもってお話しします。
食事:HoLo家(テイクアウト可)
参加費:1,500円


11月1日(日)11:00~14:00
大切な人を亡くした時に
~グリーフケアとは~
講師:五藤広海(岐阜・光蓮寺)
大切な人を亡くした時、心や身体にどんなことが起こり、何ができるのか。ワークを通してやさしく学んでいきます。
食事:mebunryo-kitchen
参加費:1,500円


HoLo家(10/1、10/16担当)
宇奈月温泉街の雑貨&カフェ店。自家製の野菜や地元の新鮮食材にこだわった料理を提供する。善巧寺では花まつりマルシェに出店。


mebunryo-kitchen(11/1担当)
善巧寺の花まつりや展覧会で飲食を担当。体に優しい食を提供する。

だれが「冷え症」にした?

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春めくと、庭でうぐいすが、ホーホケキョ
他所では、ホケキョかもしれないけど、うちでは、ホーキケヨ
と鳴くんです。いや、うぐいすは、うぐいす語で鳴いているんだけど、聞く側が都合のいいふうに聞いちゃうんですね。
法 聞けよ、法 聞けよ

庭のうぐいすまでが、仏法を聞けよ、説法聞けよ、とのおすすめだ。
法とは、真実の理法のことでありまして、おしゃかさまがお悟りになった真理そのものを、私たちは、法とか、仏法とかいっている。で、その法を聞くというのは、つまりは、正しいことを聞いて、目を開けということになるわけなんですが、例えば縁起の理法、「深く因果の道理をわきまえて、ありのままに世の中を見よ」とおしゃかさまはおっしゃる。そこで「ハイッ、左様でございますか」とチカッと目をさまして、次の日から占いもまじないも縁起かつぎもあさらばで、清く、正しく、美しい生き方が出来るのなら、いうことはありません。

ところが、私たち、心の奥底をのぞいてみたら、ケイチツどころか、煩悩のうじ虫がウジャウジャうごめいて、おさまるきざしはまるでない。
「そうそう、その通り!ホーキケヨ ホーキケヨ」
さすが聞きなれたおばあちゃん、合いの手が胴に入っている。しかし、そういう煩悩を一つとしてなくすことの出来ない私だからこそ、智恵の目を開かさずにはおかん、救わずにおかんと、立ち上がり、手をさしのべ、抱きとって下さるお方が、阿弥陀如来というお方でございました。教えの親はおしゃかさま、救いの親はアミダさまなんですよねー。
「ようこそ、ようこそ ナンマンダブ」

月に二度のお講とよばれる法座も、寒い間はお茶の間説法。6,70人のお参り衆が、こたつとストーブを入れた22畳のお茶所に、ひざすり合わせてうなずいて下さる。なかにテカテカの顔した人が7,8人。午前中、すぐ近くにある老人福祉センターの風呂にはいって、お昼はお寺で出る精進料理を食べて、昼からゆっくり説法聞いて、3時になったらセンターで、もう一ぺんお湯につかって福祉バスで帰ろうという人たち。

「センターでなら、体はあったまりますけど、心はあったまりませんがでね」
わーすごい。ほんといいことおっしゃる。なんていうか、本質をついていますよね、福祉っていうものの。そういえば、役所はせっせと老人御殿を建てて、バスで送り迎えしてサービスこれつとめていらっしゃるようだけど、ちょっと二三歩さがってながべてみると、おとしよりのためというより、おとしよりをどこかへ隔離しておこうという「隔離福祉」になってるみたい。

センターへ行けば、お風呂があって、テレビがあって、碁があって、リハビリがあって、カラオケがあって、なんでもあって結構ずくめのようだけど、いまのテカテカのおばあちゃんみたいに、体はヌクヌクでも心はスカスカなんじゃないかしら。でも、もっとすごいのは、そのおばあちゃんたち、家では心どころか、体もあったまらないんじゃないかしら。身心ともに冷え症のおばあちゃんにしたのは、一体、だれだ?


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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ほんこさまスタート

親鸞聖人のご法事「報恩講(ほうおんこう)」、通称「ほんこさま」がスタートしました。今年はコロナウィルスの心配もありますが、充分に対策をした上で年に一度のご縁を大切におつとめいたします。体調に不安のある方はご遠慮なくお寺までご連絡下さい。

<準備するもの>
・お花一束
・赤のロウソク
・お仏飯3カ所
・お布施
・年会費(11,000円)
・お茶の接待不要
今年はお茶のご接待は結構です。せっかくのおもてなしですが、飲食を共にすると濃厚接触にあたる可能性が上がるそうなので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

※添付の画像は本願寺から発行されているポスターです。ほんこさま使用ではありませんのでご注意下さい。

半分と半分で一つ

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緑色緑光のスリランカ旅行の、もう一人の同業者は、女優の浜美枝さん。好奇心プラス取材力も抜群で、いろんなものを仕入れて来ます。その中の逸品は、小学校一年生の算数の算数の教科書でした。
「ねえ、ほら、見て見て!すごいわねえ。一年生で、もう、分数の計算よ。」
粗末な教科書でしたが、見るとなるほど、一ページ目から分数の計算。
「進んでるわねえ」
といわれて、本当だなあと感心しながら、フト思ったんです。二分の一プラス二分の一は一・・・これはこっちの思い込みかもしれないけれど、この分数の概念というのは、すばらしいものでありまして、さすが仏教国ならではだと思ったんです。

というのは、日本なら、一年生はやっぱり「イチタスイチハ、ニ」ですよね。ところがあちらは、まず、「半分と半分で一つ」なんです。つまり、一つと一つがあつまって二つになった、というのではなくて、半分と半分が寄りそって、一つに成り立っているということ。ねえ、すばらしいじゃないですか。

「うーん、ほんとねー。これだけで、人生観が変わっちゃいそうだわ」
浜さんも、しきりに感心しています。夫婦は、1人の男と、1人の女が出会って2人になる、というのが日本の一般的な考え方。
「要するに、正数の足し算と引き算の世界ってわけねえ。それで、イヤになったら、2引く1は1で、また1人前、1人立ち・・・か。でも、日本になって、夫婦は二人三脚なんてことばあるじゃない」
まあ、それにしたって、片っぽの足がちょいとくっついているぐらいのことでしょうが。それに引きかえ、スリランカは、なんてったって半分と半分で一つですからね。夫というものがいて、妻と呼ばれる。妻がいるから夫と呼ばれる。夫婦はだからやっぱり、半分と半分が寄りそって、やっと一つじゃないですか。

これ、じつは、仏教の根本、縁起の世界なんですよね。あらゆるものは、縁によって起こる。「此あるが故に彼あり、此無ければ彼なし。此生ずれば彼生ず。此滅すれば彼滅す」
すばらしい一体感だと思うなあ。
「そうか・・・そうすると、親子もそうよね。うちは4人いるけど、子供が生じて、親生ずよね。」
親子もそう、家族もみんなそう。町だって、村だって、国だって、世界だって、宇宙だって・・・みんな相寄り相あつまって、共に生きているんですよね。二分の一、三分の一、浜さん一家は六分の一、私の一家は七分の一が七つあつまってやっと一つ。そう考えてゆけば、私たちって「無限大分の一」。数かぎりないあらゆるものと、関わり合い、手をつなぎ合い、寄りそい、助け合って生きているんですよね。
「そうよねえ。やっぱり、生かされているのよねえ」

あらあら、算数のお勉強が、仏さまのお話になっちゃった。
そばで手を合わせて聞いていた同行の門徒のおばちゃん。
「そうそう。おかげさまやっちゃ。けどさあ、おら、小学校一年で、こんなむずかしい算数せんならんのやったら、スリランカじゃ小学校も落第ですちゃあ。アハハハハ」


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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