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仲良くなるための精進努力

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


何事も上手になるには、精進努力が大切なようでありまして、お経にも「もし人、精進を具せば、王の力自在なるがごとし」とか、「精進を心がければ、万事成就す」などとあります。で、この精進というのは仏法でいう実践道の4番目の徳目で「物事に精魂こめて、ひたすら進むこと」とか「善をなすに勇敢であること」「努め励むこと」「いそしみ」「励み」「励みの道」「勇気」「勇敢にさとりの道を歩むこと」「精励(せいれい)」「善を助けることを特質とする」「悪を断じ、善を修する心の作用」「俗縁を絶って潔斎(けっさい)し、仏門に入って宗教的な生活を送ることをいう」「魚、鳥、獣の肉を食わないことをもいう」「懈怠(けたい)を改めて、身をきよめること」と、とりあえず、良いことずくめで、どれをとっても、あなたの生活の目標になるものばかりのようであります。

ひたすらとか、いそしみとか、はげみというのは、スポーツ上達法にも欠かせないものでありまして、理屈でどれほどわかっていても、体がついてゆかねば何もならない。で、その体に覚えさせるには、それこそ、ひたすら精進努力するしかないわけです。

私達のお寺の境内のゲートボールもしかりで、73歳のNさんときたら、精進努力のかたまりのような人。目が不自由で、片方はほとんど見えなくなっていて、方角、距離感ともにかなりのズレがあるはずなんですが、とにかく、練習に練習を重ねて、そのハンディを克服。スタートしてから2年半、なんとこのNさんが、月例大会の最多優勝記録保持者なのであります。で、いまでは地区の老人会のゲートボールのキャプテンもやってらっしゃって、ついこの間は、県の大会にも出場したんだそうです。

ところが、これがたいへん。試合に出てみたら、みんなうまいことうまいこと。Nさんチームはコテンパンに負けちゃった。
「いやあ、上には上があるもんですなあ。とにかく、よそのチームの連中ときたら、朝の5時からコーチつきで徹底的に練習をやっていて、作戦やら、サインやらと、そりゃもうビックリギョウテンすることばかりでした。それにしても、負けたくやしさでいうんじゃないが、ゲームというよりケンカのようなものすごさでしたよ」とか。

とにかく、強いチームといわれるところは相手の気持ちも何もあればこそ、ここぞというときになると、敵の球を1つ残らずコートの外へスパーク打撃でけ散らすそうで、これでもか、これでもかという感じでやってくるんだそうです。
「ほんとに、私たち、こりゃあ地獄だなあと思いましたよ」とNさん。

勝負というのは本来、そういうものかもしれません。勝てばよし、負ければ弱しで、そのくやしさの中から、また立ち直って精進努力、ナニクソ、ナニクソ、コンドコソということになって実力アップにつながってゆくのかもしれません。しかし、それはもう、体力増進とか、心のふれ合いとか、そんなものとはかけ離れた、スポーツの名を借りた我と我のぶつかり合いの戦争で、それこそ修羅か地獄としかいいようがないものじゃないでしょうか。多いですね、近頃こんなの。

そういえば私たち、精進努力は「善をなすに勇敢なること」という心を忘れてしまっているみたい。勝つことにじゃなくて、仲良くなることに精進努力しなくちゃいけませんなあ。


「お茶の間説法」(37話分)
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ルールを破り、曲げるもの

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


 ゴルフだって、テニスだって、野球だってゲートボールだって、そう、人生だって、達人になろうと思ったら、しっかりとルールを守ることであります。お経にも「ルールを守ることが第一の善である」と説いてある。そして、ルールを守れば「他人から愛され敬われ、心さわやかになり、悪い夢をみることなく安眠できる。だから病気もしないし、長生きできる。もしまた命終わっても、極楽に生まれることができる」とも説いてあります。

いいなあ、そんな気分になれるのなら、私もせいぜいルールを守ってがんばろう!こういうふうに素直に思って、今日からあなたも実行なさいませよ。そしたら、スポーツだけじゃなく、あなたの人生、心豊かに生き切ることができるに違いないんだから。

でもねー、そう簡単にはいきませんよね。そうそう、たかがゲートボールと思われるかもしれませんが、あれだって、いろんなルールがあるんです。2度打ちしちゃいけないとか、手でさわっちゃいけないとか、打順を間違えちゃいけないとか・・・。ところが、これがなかなか守れない。人が見ていないと、つい2度打ちしてみたり「まあ、これくらい、いいじゃないの」とルール無視をやってしまう。注意されるとゴメンナサイとは素直にいえない。「なにさ、遊びでしょ」という気になってしまう。遊びでこれくらいのルール違反をしているのなら、人生本番でもっとすごいことやらかす可能性ありということなんだけど、ここんところがわからない。

で、我を張って、自分を正当化して、しまいにはこのルールがいけないんだと、ルールを裁いてしまうしまつです。いや、本当に、最近まで、ゲートボールの全国統一ルールってのがなかったんです。こっちのがいい、そっちのはだめだと、やり合っていて、どうしても決まらなかったんだそうですが、こうなると、ウチの子供と一緒だなと思う。

境内で野球をしているのを見ていると、ありゃ野球をやっているんじゃないね。まずチーム分けのジャンケン。ここで、勝ったらどうする、負けたらどうのとルールづくりからはじまる。ところが、自分の気に入らないようになると「ちょっと待った、もう1回、今度はこういうぐあいに・・・」となって、プレーボールまで30分ぐらいかかる。そしていよいよゲームがはじまると、投げ方、打ち方、走り方、こういう場合はアウト、こうなったらホームランというふうにルールを決める。で、決まったかな、と思ったら、またまた「ちょっと待った。これじゃあつまらないから、今度はこうしよう」なんてはじまって、またジャンケンかなんかやり出して、挙句はケンカで」だれかが泣く。まあ、これの繰り返しなんですよね。野球をやってるんだか、ルールづくりをやってるんだかわからない。

しかし、オトナの世界もどうやらこれの連続みたい。ルールをつくってはこわし、こわしてはつくり、そして違反したものを指差して非難し、自分が破ったらルールが悪いとなじり・・・できるだけ自分の都合のいいようにルールを曲げてゆく・・・。ああ、そうか、こんなことしてるから私達「他人からは嫌われ、さけすまれ、心よどみ、悪い夢ばっかりみて寝つかれず、病気ばかりで長生きできず、命終わってもどこへゆくかわからない」わけだ。そういえばお経には「ルールを破るものは、畜生に異ならず」とあったっけ・・・。


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無心になるむずかしさ

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


スタートラインに立ったら、こだわりを捨てよ-熟年スポーツの花、ゲートボールにかぎらず、人生の達人になるためには、まずこの第一課からはじめなくてはなりません。だれかさんが見ているからとか、ちょっといいカッコしてみせようとか、失敗したらどうしようとか、私達は何かを始めるとき、必ずこうしたことがいろいろ気になるものであります。

先日、寺で法座の開かれる前に、境内にゲートボールをやってましたら、お参りにきたおばあちゃんおじいさんたちが、案の定、「ホホ―、やっとられますなあ」と見物をはじめました。
「ながめてばかりじゃだめなのよ。スポーツはすすんでやらなくちゃ。よし、今日はひとつ、このゲートボールで、とにかく一発打ってみなくては、お寺の本堂には入れないということにしませんか」
みんな、ヒマなもんだから、それは面白いということになって、そこで、まず、しゅ木の持ち方、玉の打ち方、第一関門のねらい方なんてものを説明するわけで、
「いいですか、体を楽にして、そう、ゴルフや剣道みたいに、このツエを軽く握って、あの4メートル先の関門めがけて、カツーンと・・・ホラ、こういうふうに・・・ね、通過するでしょ」
とやったら、本当に入っちゃってパチパチパチと拍手がきて、じつにいい気分。で、いよいよ、おばあちゃんたちのプレー開始ということに。
「へぇ、こういうふうにねー、それで、この球を、ポーンと打つの?それ、ポーン」
こういうおばあちゃんの球は、だいたいリラックスしてるから一発で通過することになっています。パチパチパチ。「上手だねー」「選手になれるよ」などと、ギャラリーから声がかかる。で、次の番。
「フーン、これがスティックというものですか、へー、この球をねー、どこがおもしろいのかね、そういえばよくやってますね。え?ああ、あの門をくぐらすの?ええ?あんな遠いところ?わあ、こりゃ無理よ。だってはじめてですもの、ダメです。無理です。通過しません。私、こういうのヘタだから、入りませんよ。ゼッタイにっ!」
こういう人にかぎって、ねらっているんですよね。スタートラインに立ってから、第一関門をにらみ、ボールをにらみ、いろいろ能書きならべる。で、まあ、大体はハズレますね、こういう人。そしてすごくくやしがります。
「ねー、だからいったでしょッ、入らないって、そうなのよ、無理なんだから」
そうなんです。上達法第一課は、こだわりを捨てること。前のおばあちゃんは、その点、ヘーとかホーとかいってこっちのいうこと全部聞いて、無心で打ったんです。だから入った。ところが、あとのおばあちゃん。少々自意識過剰でありまして、とにかく、みんなが見ていることが気になって、うまく見せようとこだわったことが失敗のもとだったわけです。

さて、続いて第二打ということになりました。そしたらなんと、最初上手だったあのおばあちゃん、みんなから「あら、さっき一発で通過したあのひとだわ」「うまいのよねー」なんて、いわれて、結果は・・・ご想像通り、さっきの無心はどこへやら、コチコチになっちゃって、通過どころか、球にしゅ木が当たらないふうでありました。でも、これぞ人間、これこそ、凡夫なんですよね。なぜかみんなそのおばあちゃんといっしょに大笑いでした。


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カッカしそうになったら・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


スポーツの秋なんだそうであります。そこで、この欄もひとつ、茶の間を飛び出して、スポーツが3倍面白く、10倍は上達する方法なんてのを、仏様を仰ぎながら考えてみようと思うんです。

まず、近頃、お年寄りの間でブームになっているゲートボール。こわいですね、先日はとうとう殺人事件まで起きちゃった。でも、これ、当然だと思うんです。スポーツとか、勝負などというものから遠ざかっていた人が、久し振りに勝った負けたとやり合うんですからね。これまではおつき合いでニコニコあいさつしてたのに、ゲートボールとなると、そうはゆきません。

あ、そうそう、ご存じですか?ゲートボールというスポーツ。うちの寺の境内には、ちゃんとコートをこしらえてありまして、いつでもゲームが出来るようになっているんです。ゲートボールなんていわないで「門球競技」なんていっているんですが、要するにこぶし大のプラスチックの重い球を、しゅ木のうなツエでコツンとやる。3つの門があって、そこを通過して、ゴールの的に当てれば上がりという、いたって簡単なゲームなんです。

なかなか面白いので、日曜学校の子供たちやおじいちゃんおばあちゃん、それに私たち壮年層のおじさんグループも加わって、月例大会なんてのをやっているんですが、なんと全国には400万人の愛好者がいるといいますから、大変な人気といえるでしょう。

で、全国の公園や寺の境内で、お年寄りを中心にしてコツンコツンとやってるわけですが、ブームになったとたんちょっと評判わるくなった。なぜかというと、つまり過熱気味だというんです。どこのコートでもケンカが絶えないようなんです。

たかがゲートボールで、と笑う人もいるけれど、実際やってみると、これがかなりカッカとくるものでありまして、ゲームの最中に、気分よく次のゲートへ球を進めていると、相手の球がこれをジャマしにくるんです。カツンと他人の球に当てれば、その球をスパークといって、どこへでもぶっ飛ばすことが出来るというルールになっていて、これが、カッカのもとなんです。カツンと一発やられるとたかがゲートボールとわかっていても、頭を一発ぶんなぐられたような、全人格をふっ飛ばされたような、そんな気分になるんです。殺人事件が起きても不思議はない、そう思えてくるんです。ですから、うちの境内では、そんな危険のないように、ゲームの前後に必ずお説教をつけることにしています。

みなさん、これからたのしいゲートボールを始めますが、その前に、とっておきの上達法を伝授しておきましょう。まずなんといっても、上達法の第1は「ハラを立てないこと」であります。あのスパークとやらでカツンとやられると、頭に血がのぶるに違いない。しかし、そこでハラを立ててはいけません。ぐっとガマンしなくては上手になれません。これはどんなスポーツにも通じる鉄則です。しかし、そんなことをいってもわれら凡夫、ガマンができるわけがない。そしたらどうするか、そうです、仏様を仰いでわが心をみつめてみる。なんと、なんと、たかがゲートボールのカツン一発で…。自分の気に入らないことにはすぐにハラを立てるのが人間だといわれるが、本当にそうだな-と、相手のスパークをご縁に味わっていただきたい。それではプレボール!


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心の底の黒い化物

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


心の体操というものは、あるべき姿を求めて、外へ外へと向かってゆくものではないようで、やればやるほど、内へ内へとはいっていって、オノレの身のほどが知れてくるもののようであります。自らを省みようという、反省のすすめにはじまって、その反省は身勝手な反省ではなくて、真実を仰いで身のほどを知るという、ごまかしのきかない、悪の自覚、いや悪の他力覚という、仏様の働きによって気付かされたとしかいいようのないところまで、ずいぶん深みにはいり込んでしまったようであります。

で、深みにはまり込んだついでに、といってはおかしいが、とにかく、そのどん底までのぞき込んでおこうと思うんです。で、これまで使ってきた反省ということばを、仏教ではどういうかと申しますと「慚愧」(ざんき=仏教用語ではざんぎ)といいます。
「いあやあ、お恥ずかしい。ザンキに堪えませんなあ」
なんていうことがあるけど、この慚愧というのが、じつは人間の反省のどん詰まりにあるものなのであります。

そこでまず「慚(ざん)」ですが、字からいうと、心を斬る、つまりわが心を切りきざむということでありまして、内にむかって恥じるとか良心の痛みを感じるとかいった心をいいます。そして「愧(ぎ)」はどうかといいますと、心を鬼にするわけでありまして、外にむかって恥じる心とか、悪を廃する心とかいわれています。つまり、慚と愧は、内と外にむかって恥じる心であり、善を求め、悪を廃する心であります。この心はじつにすばらしい反省の心でありまして、お経にはこう説かれています。
「世の2つの白法あり。慚と愧、これなり。これよく、世間を護る」
つまり、世の中を護り、良くするのは、1人1人の慚愧の心なのだというわけです。ですから、あるべき姿からいえば、世界中の人が、この慚愧の心を起こせば、世の中は本当に平和になるに違いないのであります。

ところが、悲しいから、世の中ちっとも平和になっていない。世の中どころか、近頃は家庭内の平和もままならない。これはいったい、どうしてなのか-と考えてみるまでもなく、仏様は私達に、こうおっしゃっているのであります。
「世の2つの黒法あり。無慚。無愧これなり。これよく、世間を破壊す」
つまり、この世の中をメチャクチャに破壊する、まっ黒の化け物は、政治でも社会でも教育でもない。じつは人間1人残らずが欠かさずに持ち合わせている「煩悩」というものであって、その煩悩の中でも、根源に巣くっている「無慚無愧」の心なのだとおっしゃる。心に良心もなく、善を求める心もなく、悪をおそれず、ただただ己れの煩悩のおもむくままに、善を否定し、悪を肯定してうごめいている、この私のおそろしい心こそが、世間を破壊している元凶だと、おっしゃっているわけであります。

私達はともすると、外にむかってあれこれと批判し、あれが悪い、これが悪いと指さすけれど、じつは、世の中が悪いんじゃなくてこの私の、そして全人類が心の奥底に持ち合わせている無慚無愧の心の寄り集まりが、刻々とこの世の中をこわしつづけているのだということに気づかねばならない-仏様はいつでもどこでも、いまここででも、そう私に呼びかけておられるのであります。


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身勝手な反省ではなくて・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


それみたか、と人を指さしたその指をギュッとまげて、己にむけてみる-心の体操第1は指まげ体操で、自分自身を省みて、身のほどを知るという、反省のすすめみたいなものでした。で、この反省ということになりますと、だれもが心がけていることのようでありまして、それなら、いわれなくてもちゃんとやってます、とおっしゃる方も多いかと思います。そういえば、人のふり見てわがふり直せとか、脚下照顧(きゃっかしょうこ)とか、日々是反省とか、いろいろいわれています。でも、ここで1つ確認しておかねばならないことは、反省といったって、自分勝手な反省ほどいいかげんなものはない、ということであります。

たとえば、何か失敗する、そしたら必ずああ悪かった、大変なことをした、申しわけない、という気になる。まあ、ここまではいい。ところが、その次はどうかというと、でも仕方なかったのよ、あの場合・・・とか、そりゃあ悪いと思っているけど、でもさあ・・・と居直って、自分の行為を仕方なかったんだと正当化してしまう。これはじつは身勝手な反省でありまして、こわいことには、その反省がすむと、反省していない人をみつけて、また指をさし、あの人ちっとも反省の色がない、ひどいわねー。それに比べて私なんか反省しきり。見上げたもんよねー、なんて悪いことしたことが、身勝手な反省のおかげで、自慢のタネにまでなってしまうこともありうるわけです。

そこで、やっぱり、自分で勝手な反省をするのではなく、仏様を仰いで自らを省みなくては本当の反省にはならないと思うんです。とくに阿弥陀如来という仏様は、この私の、自分を良しとする心を徹底的に打ちくだいてしまわれるお方で、ある学者は、この仏様の働きを「自力の無限否定」という言葉で表現しておられます。この私が無限に否定されてゆく・・・なんて聞くと、どうも気が滅入っちゃって、なるべくなら、この私を認めて、よしよしと頭をなでて下さるような、そんな方のところへ近づきたくなりがちですが、それこそが私たちの反省の心を持たない、自己中心、うぬぼれの生きざまということになろうかと思います。

ともあれ、心の体操第1として指をまげてみようと申しあげたのは、人を指さすのが大好きな私たち、他人の悪口ならウソでも面白いが、自分の悪口なら本当でもハラが立つというこの私を、自分勝手にではなくて、仏様を仰ぎながら省みてゆこうということだったのであります。

人は自分の悪に気がつくほどの善人ではない、といわれます。そんな私が、少しでも自分を指さして、本当の自分の心の奥底をみつめることができたなら、おそらくそれは自分の力ではない、それこそが仏様の働きなんだと受けとってゆく。こうした心の動きが宗教的情操というものでありましょう。ですから、この悪の自覚ということを、ことさら言葉をかえて「悪の他力覚」だいう学者もおられます。つまり、悪を自覚したなんて思っているのは、うぬぼれで、自分の悪に気づくはずのないこの私が、気づいたのは自分の力ではなく、悪と気づかせていただいたのだ、仏力、他力による目覚めだというわけです。

仏様を仰ぎながらわが身をかえりみるという心の体操は、単なる身勝手なごまかしの反省ではないんだということ、少しおわかりいただけましたでしょうか。


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指差す相手はまず自分

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


心の体操の第1は、指曲げ体操です。さあ、みなさん、人差し指を1本出して下さい。そして、目をとじて、その指をあなたの心に浮かぶどなたかに向けてみて下さい。旦那様にでもけっこう。子供さんにでもよし。お隣の奥さんや、総理大臣に向けてでもかまいません。はい、そうして、考えてみましょう。あなたがいま、指差している相手に対して、あなたはいつも、どのような態度をとっているのか-。

これは私の想像ですが、ひょっとしたら、ほとんどの方が、相手に対して「あるべき姿」というものを押しつけているんじゃないですか。旦那様には旦那様としてのあるべき姿、子は子としてのあるべき姿、政治家は政治家として、教育者は教育者として、警察官は警察官として・・・というふうに、何かこう漠然とした理想像というか、かくあらねばならないというタテマエのようなものをこしらえてそれに向かって精進努力してゆかねばならない。それこそが人としてのあるべき姿であるというような、そんな思いを持っていらっしゃるんじゃないですか?

もちろん、これは大事なことで、むかしのえらいお坊さん、そう、モミジで有名な、あの京都・栂尾の華厳宗高山寺の明恵上人という方も「人は あるべきようは という七文字を心得よ」と、いつもおっしゃっていたようです。あるべきようは、というひらがなの七文字は、いま申しあげている、あるべき姿と同じでありまして、1つの理想、大きな目標、あるいは、真のあり方といったものに向かって、懸命に精進する、それこそが人としてのあるべき姿だ、と教えて下さっているようであります。

で、私たちは、この教えがとても好きでありまして、口を開けば、あるべき姿、あるべき姿を求めねば・・・とやっております。そして、もし、そのあるべき姿にはずれるようなことが起こりでもしたら、とたんに「親としてあるまじき行為」とか「教師でありながらなぜ?」とか「政治家として恥ずかしくないのか!」と、指を差し、制裁を加える。

ところが、問題なのは、その指はいつも相手に向かっていて、自分の方へ向けられたことはまるでない、ということであります。他人を指差すのは大好きなくせに、その指を曲げて、自分自身を指差して(そういう私はどうなのか)と考えてみることをしない。いいのかなあそれで・・・と思うわけです。いや、だいたいこんなことをいうってこと自体が、もう、あなたを指差していることになって、たいへん申し訳ないとも思うんですがね。

とにかく、今日の心の体操第1は、そんなわけで、他人に向けた人差し指を、ギューッと曲げて、自分自身に向けてみるという体操です。あるべき姿を全うしていらっしゃる方なら、これくらいは簡単なことでありますが、われら凡人にはなかなか出来ることではありません。

しかし、そこで思い出していただきたい。阿弥陀如来という仏様は、うつでも、どこでも、この私に、身のほどを知れよと働いてくださっているお方でありました。ですから、人を指差したときにでも、その仏様のことを思い出してみると、いままで曲がらなかった指がギュッと曲がって、本当の自分を見つめるようになってくる。念仏というのは、じつはこんな働きをもっているものなんです。


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欠点だらけの人間だから・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「さわやかな朝、ラジオ体操のあとは、心の体操の時間です。毎週日曜日、お子さんと一緒に、お寺におまいりになりませんか?おいしい朝がゆも用意しております」
こんなうたい文句で、今年の夏休み、早朝日曜学校をはじめてみました。子供達にまじって、おばあちゃんやら、お父さん、お母さんも・・・50人ほどの集まりです。そこで私は、こんな話をするんです。

お早うございます。さわやかな朝ですね。ラジオ体操をしただけだと、口やノド、それにおなかもなかなか目をさましてくれませんが、そのあとこうして大きな声で、仏様の前でおつとめをすると、もう、すっきり、さわやか、身体の方はエンジン全開という感じです。でも、もう一つ大切なことは、人は身体だけが健康であってもしあわせとはいえません。心がさわやかにならないと、今日一日が楽しくありません。そこで、身体の体操のあとは、心の体操です。さあ、みなさん、ご一緒に、はじめることにいたしましょう。

あ、そうそう、第一体操にはいる前に、まずは準備体操を、少しやっておきましょう。皆さんは、今朝、このお寺へ来る時に、心の体操ってどんなんだろうと考えたりしませんでしたか?そうです。心の体操なんだからわずかな時間でも、しっかり修行にはげんで強い心、明るい心、豊かな心の持ち主になろう、と思った方もあるかもしれませんね。ところが、ここのお寺は、浄土真宗の恩寺です。座禅をしたり、精神修養の行をしたりという、あるべき姿を求めてがんばるところじゃなくて、他力本願の教えを聞いて、身のほどを知らさせていただくところなんです。

他力本願-知っていますか?よくプロ野球の実況なんかで間違って、タナボタ式に勝ったりしたときに使われていますが、そんなんじゃないんですよ。他力本願というのはね、この私を間違いなく仏にするというのが阿弥陀如来という仏様の本当の願いだ、ということなんです。

でもどうして、その仏様は、私がたのんでもいないのに、この私を仏にするなんておっしゃっているのかしら。ずいぶんお節介、私は私の思った通りにするんだから、放っといてちょうだい、と、いいたくもなります。そこで、勇気を出して、仏様に聞いてみましょう。仏様、あなたはどうして、この私を無条件で仏にするなんておっしゃるんですか?

すると、仏様はこうおっしゃいます。
「それはね、お前がうぬぼれのかたまりで、良いことをしてもすぐにテングになってしまうような、どうしようもない、欠点だらけの人間だからなんだよ」
ずいぶんきびしいおことばですが、これが阿弥陀如来という仏様なんです。つまり、この仏様は、いつでも、どこでも、この私に、身のほどを知れよ、とおっしゃっているんです。

さて、準備体操が少し長くなったようですが、仏教というとすぐに、あるべき姿を求めて精神修養に精進努力いたしましょうというものだと思われる方が多いので、そればかりではなくて、仏様を仰いで、身のほどを知りつつ、感謝の日々を送るという道もあるのだということを、少しわかっていただきたかったのです。それでは、準備体操はこのへんで-。


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ひたすら守る安全

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


女人に5力-5番目に女性が力を入れるものはなにかと申しますと、それは「安全」だといわれています。家庭と子供と生活という3つの大事なものをかかえている女性が、そのどれに対してもまず、願うのは安全でありましょう。家庭の安全、子供の安全、生活の安全・・・。

いつだったか、女性の登山家のインタビューをラジオで聞いたことがあるんですが、聞き手が、コースやら、抱負やらいろいろ質問して、最後に「それでは事故のないように、気をつけて」というと「ええ、大丈夫です。女性は安全第一で、危険なことはやりません。もう少しで頂上とわかっていても、危ないなと思ったらやめますから」と、あっさり答えていらっしゃったけど、これなんですよね、女の人は。安全を確認してからでないと、コトを起こさない。その点、男性は名利がからんでいるから、ついつい、「花も嵐もふみ越えて、ゆくが男の生きる道ィ」なんて突っ走っちゃう。で、いろんな事故の発生件数をながめてみると、男と女には格段の差がある。これはどうやら、男と女の求めるものの違い、力の入れどころの違いというものが関係しているんじゃないかと、つくづく思うわけであります。

ですから、話をもとにもどして、家庭の安全、ということを考えてみても、男が「ぶっそうだからカギをかけろ」というのと、女が戸締まりをするのとは、どこか違うものでありまして、男の意識の底には(カギをかけないでドロボウにでも入られたら、オレの財産を盗まれる。それに、家族の者を危険にさらすことにもなって、主人としての名誉にかかわる)なんて、またまた名利が顔を出す。

そこへゆくと、女性の方は、あっさりとしたもので、戸締まりは単に用心のため。お金でもとられたら、明日から食べてゆけないじゃないの-という安全感覚からきているようであります。

子供の安全-これはもう、お母さんなら命がけでありまして、自分の身をけずってでも子供を守る。夏休みの間などは、朝から晩まで「危ないわよ」「気をつけて」「いけません」「おやめなさい」の連呼であります。教育ママといわれるお母さん方も結局、こどもが大きくなってから安心して生きてゆけるようにということを願って、塾だ、試験だ、勉強だと叫んでいらっしゃるんでしょ。そしてお父さんはといえば、子供を育てるのも名利でありまして、エライ子、立派な子になればいい。それがだめなら、ワンパクでもいい、たくましい子に育ってほしい…なんて、カッコばかり付けちゃってるんじゃないかしら。

さて、最後は生活の安全。これはもう、着る物、食べ物、住むところ、とすべてが主婦の心配のタネでありまして、家族のものが安心して暮らせるようにと、日夜心血を注いでがんばって下さってるわけであります。もしも、主婦にこの安全を願う心がなかったら、それこそ家庭は一夜にしてといってはオーバーかもしれないが、とにかく、ダメになってしまうだろうと思うんですが、いかがでしょう。

さて、女人に5力-美しさと家庭と子供と生活と、それらを守り抜く安全確保の力と、女性とは、かくも素晴らしい5つの力を持っておいでなのであります。それは力であsると同時に宝であります。どうか、この5つの宝物を、おなくしにならないよう、くれぐれもお気をつけて下さいますように-。


「お茶の間説法」(37話分)
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食べてくれる よろこんでくれる

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


女人に5力-4番目は「生活」であります。
お経には「田業力」などとありまして、インドでは、田んぼの仕事は女がやることになっているらしい。これは一度確かめなくてはと、昨年インドへ行ったとき、見てきましたが、なるほど、あの広大なインドの田畑で、懸命に働いていたのは、ほとんどが女性で、男はヒゲをはやしていばっているだけみたいでした。

で、これはインドだけかというとそうではなくて、富山の私の寺の縁側からながめてみても、やはり田んぼは女の仕事だなあと思えてきます。こんなことをいったら、農家の主人がおこるかもしれないけれど、男が田んぼに出るときは、必ず機械とご一緒で、田植機のハンドル握って胸を張り、トラクターの運転席でタバコふかしていらっしゃる。田植えをしているのは、サナエちゃんとか、小太郎さんとかいう農機具なんですね。

一方、女性はといえば、機械のそばで、トウチャンをしきりに持ち上げて、自分はコツコツ黙々下働き。終わると、男は「あー疲れた、さあビールだ!」となるけれど、カアチャンの方はそれから帰って食事の支度が待っている。コシヒカリは越中女でもっているといっていいんじゃないかと思います。

さて、女人の第4力を田んぼからもっとひろげて、生活全般と考えてみましょう。生活とは、辞書によれば、生存して活動することとか、生きながらえることとか、くらしてゆくこと、世の中で生きてゆくてだて、などとなっていますが、こういうことを自分1人だけでなく、家族全員のことまで引き受けて、それを苦もなく、うまーくやりこなせるのは、もうなたって、主婦以外にはないのであります。

これは本当にすばらしい能力でありましてたとえば食生活-これは最近ふと気がついたことなんですが、近くの奥さんたちの会話の中に、よく「食べてくれる」とか「よろこんでくれる」ということばが出てくるんです。
「ウチはね、ニンジンやピーマンは細かくきざんで、いためごはんやスープの中に混ぜちゃうの。そしたらよく食べてくれるのよ」
「そうね、やっぱり工夫よね。主人だってけっこう偏食なんだけど、ちょっと目先を変えるとよろこんで食べてくれるわね」
これは食生活だけではなく。着るものにしたってそうでして、
「なんとかで洗ったわ、フワフワで真っ白!こどもたちがとてもよろこんで着てくれるんです」
なんて、コマーシャルもあるぐらいで、常に子供のことを思い、家族の生活について考えていらっしゃる-それが主婦ってものなんですね。

一家の主、名利の男からすれば「食べてくれる」は「食わせる」であり「よろこんでくれる」は「よろこばせる」となって、どうも上から下への押しつけがましさが目立ちます。これはもうどうしようもないことでありまして、男は名利ただ一つなのだ、とでも理解いただいて、とにかく家庭と子供と生活というものを「おさんどん」などと見下げずに、これこそ、男に羽は持ち合わせのない、女の力の入れどころ、わたしの独壇場なのだと再確認、再発見していただきたいと思うのであります。


「お茶の間説法」(37話分)
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