ねえちょっと聞いてョ

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ホンコさん、というのがあります。報恩講と書きまして、早い話が、真宗の宗祖、親鸞聖人の法事なんです。これを秋から春までの間、ちょうど農閑期にあたる時期に、門徒の家を一軒一軒まわっておつとめするわけです。
「寺の坊さん、ホンコまわりにこられたら空が荒れて・・・」
とか、
「ホーラ、宇奈月の雪坊さんがこられた」
とか、いらんことをいってはやします。名前が雪山だからといって、雪を持ってくるわけはない。それこそ、因果の道理に反するわけなんだけど、やっぱり、こういうこと、いいたいんですね。ホンコさんだけじゃなくって、新聞社でもそうですね、あのデスクのときは事件がつくとか・・・そんなアホなことはないんだけど、因果の道理もわきまえず、ちょっといってみたくなることらしい。

コンニチハ!
「あー、ようこそ、お待ちしておりました」
またホンコさんになりました。よろしゅうに。
「ハイ、こちらこそ」
で、お仏だんにおあかりつけておつとめがはじまる。
キミョウムリョウ ジュニョライ―
おつとめが終わると、お説経。そのあと、御文章という蓮如上人のお便りを古式ゆかしく拝読してホンコさんはおしまい。あとは茶の間で、お茶とお菓子をいただいて世間話に花を咲かせるんですが、なかにはおもしろいこともありましてね、きのうおまいりしたお宅では、おばあちゃんとお孫さんが迎えて下さった。

コンニチワ!
「あらー、お坊さんこられたわよ。さあ、ミッちゃん、お坊さんにいらっしゃいしましょ。ハイ、おあがり下さいっていいましょ。さあさ、どうぞっていいましょ。ねー、ミッちゃん。ハイ、ののさままいりましょ。ハイおすわりして。ハイ、いいコしてるんですよ。ハイ、ナンマンダブっていいましょ」
キミョウムリョウ ジュニョライー
「ホーラ、ミッちゃん、おつとめはじまった。いいコしてなさいよ。そうそうハイいいコですねー。ホラ、終わった」
エー、今日は年に一度のホンコさんであります。ホンコさんと申しますのは親鸞聖人のご法事を申しておるのでありまして・・・
「ハイ、ミッちゃん、お説教はじまったわねー。お行儀よくしとらんと、お坊さん、お寺へ連れていかっしゃるよ」
(そんなこというてないがな)エー、それで浄土真宗の念仏の一門を開いて下さった聖人のご法事は、毎年毎年こうしてつとめさせていただいておるわけでありまして・・・
「これ、ミッちゃん、ちゃんとしとろ!ちゃんと、お説教聞きましょ。ホラホラ、お焼香はあとで、あとで!」
エー、でありますからして、この私たちは南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせをよろこび・・・
「まあ、ミッちゃん、そんなことしたらダメ!もう!お坊さんに連れてってもらいますッ!」
コレ、おばあちゃん、さっきからみとったら、あんた、ひとつも、私の話聞いてないのとちがうか。ミッちゃんもええけど、あんたちょっと、こっち向いて、ホーキケヨ。
「さ、ミッちゃん。すみましたよ。お坊さんにありがとうっていいなさい!」
あのなー。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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ほっこり法座(10~11月)

仏さまのお話と、お寺のごはんを味わって、ココロとカラダのデトックス。
今回の昼食は、テイクアウトもできるお弁当を用意します。担当は、宇奈月温泉街のカフェ&雑貨店「HoLo家」さんと、善巧寺の諸行事でも料理を提供している「mebunryo-kitchen」。体に優しい味をご堪能下さい。尚、地区当番制の精進料理は、調理場の密集を避けるためしばらくお休みになります。

参加費:1,500円(昼食代込み)
持ちもの:じゅず
服装:自由


10月1日(木)11:00~12:30
ブッダの生涯
講師:雪山俊隆(善巧寺)
ブッダ=お釈迦さまはどんな人生を歩まれたのか。映像を交えて青年期から出家までを辿ります。
食事:HoLo家(テイクアウト可)
参加費:1,500円


10月16日(金)11:00~12:30
慈悲のこころ
講師:奥野寛暢(富山市・妙行寺)
「絶対に救われない私」と「絶対に救う仏様」。この矛盾する2つを「慈悲」というキーワードをもってお話しします。
食事:HoLo家(テイクアウト可)
参加費:1,500円


11月1日(日)11:00~14:00
大切な人を亡くした時に
~グリーフケアとは~
講師:五藤広海(岐阜・光蓮寺)
大切な人を亡くした時、心や身体にどんなことが起こり、何ができるのか。ワークを通してやさしく学んでいきます。
食事:mebunryo-kitchen
参加費:1,500円


HoLo家(10/1、10/16担当)
宇奈月温泉街の雑貨&カフェ店。自家製の野菜や地元の新鮮食材にこだわった料理を提供する。善巧寺では花まつりマルシェに出店。


mebunryo-kitchen(11/1担当)
善巧寺の花まつりや展覧会で飲食を担当。体に優しい食を提供する。

だれが「冷え症」にした?

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春めくと、庭でうぐいすが、ホーホケキョ
他所では、ホケキョかもしれないけど、うちでは、ホーキケヨ
と鳴くんです。いや、うぐいすは、うぐいす語で鳴いているんだけど、聞く側が都合のいいふうに聞いちゃうんですね。
法 聞けよ、法 聞けよ

庭のうぐいすまでが、仏法を聞けよ、説法聞けよ、とのおすすめだ。
法とは、真実の理法のことでありまして、おしゃかさまがお悟りになった真理そのものを、私たちは、法とか、仏法とかいっている。で、その法を聞くというのは、つまりは、正しいことを聞いて、目を開けということになるわけなんですが、例えば縁起の理法、「深く因果の道理をわきまえて、ありのままに世の中を見よ」とおしゃかさまはおっしゃる。そこで「ハイッ、左様でございますか」とチカッと目をさまして、次の日から占いもまじないも縁起かつぎもあさらばで、清く、正しく、美しい生き方が出来るのなら、いうことはありません。

ところが、私たち、心の奥底をのぞいてみたら、ケイチツどころか、煩悩のうじ虫がウジャウジャうごめいて、おさまるきざしはまるでない。
「そうそう、その通り!ホーキケヨ ホーキケヨ」
さすが聞きなれたおばあちゃん、合いの手が胴に入っている。しかし、そういう煩悩を一つとしてなくすことの出来ない私だからこそ、智恵の目を開かさずにはおかん、救わずにおかんと、立ち上がり、手をさしのべ、抱きとって下さるお方が、阿弥陀如来というお方でございました。教えの親はおしゃかさま、救いの親はアミダさまなんですよねー。
「ようこそ、ようこそ ナンマンダブ」

月に二度のお講とよばれる法座も、寒い間はお茶の間説法。6,70人のお参り衆が、こたつとストーブを入れた22畳のお茶所に、ひざすり合わせてうなずいて下さる。なかにテカテカの顔した人が7,8人。午前中、すぐ近くにある老人福祉センターの風呂にはいって、お昼はお寺で出る精進料理を食べて、昼からゆっくり説法聞いて、3時になったらセンターで、もう一ぺんお湯につかって福祉バスで帰ろうという人たち。

「センターでなら、体はあったまりますけど、心はあったまりませんがでね」
わーすごい。ほんといいことおっしゃる。なんていうか、本質をついていますよね、福祉っていうものの。そういえば、役所はせっせと老人御殿を建てて、バスで送り迎えしてサービスこれつとめていらっしゃるようだけど、ちょっと二三歩さがってながべてみると、おとしよりのためというより、おとしよりをどこかへ隔離しておこうという「隔離福祉」になってるみたい。

センターへ行けば、お風呂があって、テレビがあって、碁があって、リハビリがあって、カラオケがあって、なんでもあって結構ずくめのようだけど、いまのテカテカのおばあちゃんみたいに、体はヌクヌクでも心はスカスカなんじゃないかしら。でも、もっとすごいのは、そのおばあちゃんたち、家では心どころか、体もあったまらないんじゃないかしら。身心ともに冷え症のおばあちゃんにしたのは、一体、だれだ?


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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ほんこさまスタート

親鸞聖人のご法事「報恩講(ほうおんこう)」、通称「ほんこさま」がスタートしました。今年はコロナウィルスの心配もありますが、充分に対策をした上で年に一度のご縁を大切におつとめいたします。体調に不安のある方はご遠慮なくお寺までご連絡下さい。

<準備するもの>
・お花一束
・赤のロウソク
・お仏飯3カ所
・お布施
・年会費(11,000円)
・お茶の接待不要
今年はお茶のご接待は結構です。せっかくのおもてなしですが、飲食を共にすると濃厚接触にあたる可能性が上がるそうなので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

※添付の画像は本願寺から発行されているポスターです。ほんこさま使用ではありませんのでご注意下さい。

半分と半分で一つ

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緑色緑光のスリランカ旅行の、もう一人の同業者は、女優の浜美枝さん。好奇心プラス取材力も抜群で、いろんなものを仕入れて来ます。その中の逸品は、小学校一年生の算数の算数の教科書でした。
「ねえ、ほら、見て見て!すごいわねえ。一年生で、もう、分数の計算よ。」
粗末な教科書でしたが、見るとなるほど、一ページ目から分数の計算。
「進んでるわねえ」
といわれて、本当だなあと感心しながら、フト思ったんです。二分の一プラス二分の一は一・・・これはこっちの思い込みかもしれないけれど、この分数の概念というのは、すばらしいものでありまして、さすが仏教国ならではだと思ったんです。

というのは、日本なら、一年生はやっぱり「イチタスイチハ、ニ」ですよね。ところがあちらは、まず、「半分と半分で一つ」なんです。つまり、一つと一つがあつまって二つになった、というのではなくて、半分と半分が寄りそって、一つに成り立っているということ。ねえ、すばらしいじゃないですか。

「うーん、ほんとねー。これだけで、人生観が変わっちゃいそうだわ」
浜さんも、しきりに感心しています。夫婦は、1人の男と、1人の女が出会って2人になる、というのが日本の一般的な考え方。
「要するに、正数の足し算と引き算の世界ってわけねえ。それで、イヤになったら、2引く1は1で、また1人前、1人立ち・・・か。でも、日本になって、夫婦は二人三脚なんてことばあるじゃない」
まあ、それにしたって、片っぽの足がちょいとくっついているぐらいのことでしょうが。それに引きかえ、スリランカは、なんてったって半分と半分で一つですからね。夫というものがいて、妻と呼ばれる。妻がいるから夫と呼ばれる。夫婦はだからやっぱり、半分と半分が寄りそって、やっと一つじゃないですか。

これ、じつは、仏教の根本、縁起の世界なんですよね。あらゆるものは、縁によって起こる。「此あるが故に彼あり、此無ければ彼なし。此生ずれば彼生ず。此滅すれば彼滅す」
すばらしい一体感だと思うなあ。
「そうか・・・そうすると、親子もそうよね。うちは4人いるけど、子供が生じて、親生ずよね。」
親子もそう、家族もみんなそう。町だって、村だって、国だって、世界だって、宇宙だって・・・みんな相寄り相あつまって、共に生きているんですよね。二分の一、三分の一、浜さん一家は六分の一、私の一家は七分の一が七つあつまってやっと一つ。そう考えてゆけば、私たちって「無限大分の一」。数かぎりないあらゆるものと、関わり合い、手をつなぎ合い、寄りそい、助け合って生きているんですよね。
「そうよねえ。やっぱり、生かされているのよねえ」

あらあら、算数のお勉強が、仏さまのお話になっちゃった。
そばで手を合わせて聞いていた同行の門徒のおばちゃん。
「そうそう。おかげさまやっちゃ。けどさあ、おら、小学校一年で、こんなむずかしい算数せんならんのやったら、スリランカじゃ小学校も落第ですちゃあ。アハハハハ」


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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「もらう」っていいことばです

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「いいことばねー」
さし絵の晃子さんが、スケッチの手を休めて、ポツンという。
そう、私もいま、そのことばを反すうしていたところ。
ガイドのアーナンダさん。名前もすごい。おしゃか様の一番弟子と同じなんです。ほら、お経の中によく「仏号阿難(ぶつごうあなん)」と出てくるでしょう。もうそれだけで、とっても親しみを感じているところへもってきて、日本語がペラペラ。いや、ペラペラというより、もっとこう、しっかりとした感じ。

聞けばこのアーナンダさん、スリランカ1番のコロンボ大学の経済学部を卒業して、日本に留学したんですと。大阪の千里に下宿して、大阪大学で2年間勉強して、その間、近所の子に英語教えて、しっかりお小遣いをためて、北海道から九州まで、くまなく旅して、そうして、国へ帰って、いま、オーストラリア大使館に勤めている。マスターした日本語を忘れないように、年に2度は休みをとって、日本の観光客のガイドをしているんだという。
「ボク、仏教徒デス。町デ働イテ、週末ハイナカヘ帰ッテ、百姓シマス。ソシテ、母タチト一緒ニ仏サマニオマイリシマス」
もう、とってもうれしくなっちゃって、ようこそようこそ、という感じ。で、じつは、いいことばっていうのは、そのアーナンダさんのことばなんです。
「皆サン、スリランカハ、ミドリ、多イデスネ。ホラ、ムコウニ見エルノハ、ヤシノ林デス。ズートズート、ゼンブ、ヤシノ林デス。ワタシタチスリランカデハ、アノヤシノ木カラ、ヤシノ実ヲモラッテ、ソノ実カラ飲ミ水ヲモラッタリ、花カラ出ル汁ヲモラッテオ酒ヲツクリマス」
「コンドハ、ゴムの木ノ林ガ見エテキマシタ。ミナサンゴ存知デショウ。ゴムノ木ニキズヲツケテ、ソコカラ出ル、ノリノヨウナモノヲモラッテ、ゴムヲツクリマス」☆◇♡・・・?!このマークは、黒柳徹子さんが、日本にパンダがやってくるというニュースを聞いたときに使われた感嘆の符なのでありますが、まさにこれがピッタリの感動でありました。ねえ、おわかりでしょう。さし絵の晃子さんも、じつは、このこと思い出していたの。

そう、ヤシの木から、ヤシの実をもらうんだって。ゴムの木からのりをもらってゴムにするんだって。わたしたちはこんないい方はしないよね。なんでも取ったり、獲ったりするだけで、もらうなんて思ってもいない。コメをとる。サカナをとる。客をとる。票をとる。月給をとる・・・。ね、そうでしょ。でも、ほんとは、なにもかも、もらいものばかりなんだよね。まいったなあ。スリランカまで行って、日本語を教えてもらっちゃった。
「若ハン、そんなことウチでいうたら、なにやら他人の家から盗ってくるみたいやぜ」
アハハとお経の会のおなちゃんたちが笑った。笑ったけど、やっぱり、そうだなーとうなずいた。
「そういえば、水は天からもらい水だったわねー」
「そうそう、自分の名は親からもらって、母ちゃんという名は子供からもらって、なにもかも、もらって生かされているんでしたわねー」
あなたもこのことばをもらって、人生味わい直してみませんか。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

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慕う心がかたちになって

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人が死んだら、まわりの者は、どうします?
「そら、わかっとるこっちゃ。悲しんで、葬式出しますっちゃ。わたしら、なにほど出してきたもん。そーや、あのときは・・・」
茶の間のお経の会のおばちゃんの目が、チカッと輝いた。(ヤバイ。このばあちゃんが失った人たちの話をはじめたら、エンドレステープで二晩かかる)
いやそうでしたね。ではもう一つ。その人が、じつに偉大な、リッパな人だったら、どうします「ン?」
いや、なくなったじいさんの話じゃなくて、すべての人が慕うような、そんな人が・・・。
「あーそーか。それでもやっぱり、デッカイ葬式出して、弔電やら弔辞やら・・・」
でそのあとは、
「あとは、まあ、デッカイ墓建てて、デッカイ法事するぐらいじゃなかろうか」
そうだよね。で、銅像つくったり言行録出したりして・・・。そうそう、それなんです。じつは、スリランカへ行ってみて、よくわかったのは、おしゃか様がなくなられて、そのあとに残されたものが、どんな風にしておしゃか様をお慕いしたか-そのことを目の当たりに見ることができたんです。
「そういえば、むこうのお寺には仏さんの足あとやら、仏舎利塔やら、いろいろあったちゃねー」と、同行したおばちゃん。

はじめはね、おしゃか様の教えを、大切にそのまま、口伝えで覚え、守っていたの。だけど、おしゃか様がなくなられたとたん、お弟子さんの中で「ああ、よかった。これで勝手にふるまえる」といったヤツがいた。じつはこれが逆の縁になって、口伝の教えを字にすることはもったいないが、あんなヤツもいることだから「自分達が聞いた教えを、キチンとまとめておきましょう」とみんなが集まってお経をつくったの。

「如是我聞」(にょぜがもん)というこは、そのとき集まった人たちが「我はかくのごとく聞けり」とやったことなんです。で、さすがと思うのは、ただ自分1人で聞いたんじゃなくて、それは、いつ、どこで聞いたもので、まわりには弟子のだれそれとだれそれと・・・と、何十何百の人の名をあげて、だから間違いない、とあるんです。
「私らがお経を読んだり聞いたりできるのも、その、ああ、よかった、といった悪いお弟子のおかげなんだねー」
お経会の級長さん、なかなかいいことをいう。
あちらでは、そのお経を木の葉に刻んで残したそうですが、つい一ヵ月前には、黄金の板に刻んだお経が発掘されて、大さわぎ。博物館の特別室には、たくさんの仏教徒が列をつくって、手を合わせていました。

ところで、仏を慕う心は、お経だけでなく何かこう、礼拝の対象をこしらえよう、ということになってくる。それが、おばあちゃんのいうデッカイ墓-仏塔-おしゃか様の足あと-仏足石となり、だんだんと、立体化して、仏像へとすすんでくるんです。お寺とか、仏壇というのは、そういう二千数百年の仏様を慕う心の歴史の中でできてきたものなんですよね。

そう、慕う心といえば同行のおばちゃん。仏様もさることながら、死んだご主人の形見の手帳を肌身離さず、毎晩、「とうちゃん、今日はここへおまいりしました」と書き込んでいたみたい。
「こらぁ、若ハン、バラしたらだめー」


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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お茶の接待は遠慮させていただきます。

お参り先では、通常お茶の接待を受けます。特別なこととして普段は入れないお茶を入れてくださる方、麦茶やウーロン茶のほうが飲みやすいだろうと出してくださる方、コーヒーや紅茶を出してくださる方、昆布茶や栄養ドリンクを出してくださる方など、いろんなお茶の接待を受けています。

今年はコロナの影響を受けて、お茶の接待を遠慮させていただくことにしました。内情を話すと、飲食を共にすると濃厚接触者になる可能性が上がるそうです。つまり、自分たちを含む誰かが感染した場合、漏れなくPCR検査が必要になってきます。できればそれを避けたいので、お茶をお断りすることにしました。考えてみると、これはコロナ対策というより、相手になるべくご負担のかからないようにという社会的な対策なのかもしれません。

お茶の接待は、来客を迎えるひとつの形式です。出される側としては、1日に何杯も頂くことがあるので、ノドを潤すという意味では必ずしもなくてはならないものではありません。ただし、出す側としては、おもてなしの場所をひとつ失うことになります。

ひと昔前は、ご近所の方をはじめ、親戚、同僚、上司、先生、僧侶など、さまざまな人を迎え入れる場面があり、家の当主にとっては、どのように迎え入れるかが最重要課題でした。それが、立派な客間や床の間、仏間にも通じていきます。床の間においては、日本的なギャラリーとも言える場所で、掛け軸や陶器などを四季折々に変えて、当主が学芸員ばりにそのいわれを来客に説明したものです。思うに、数代前の人たちが作り上げた家の文化が発展したのは、来客あってのことだったのでしょう。冠婚葬祭すべてを家で行い、100人単位の人を迎え入れることもありました。もはや、立派なイベントです。それだけの人たちをわが家に迎え入れ、おもてなしをする。気合いが入らないわけがありません。その相乗効果によって、今では理解不能なほど大きな仏間や客間が発展したことだと思います。

昨今は核家族化がスタンダードになり、家に人を迎え入れるということが極端に減りました。友達を呼ぶことはあっても、目上の人や会社の上司を招き入れることはほとんどないのではないでしょうか。それは家の在り方にあらわれています。

時代は常に変化していきますが、それによって失われていくものを忘れたくありません。お茶を出すという一つの行為にも、おもてなしの気持ちをあらわした先人たちの心があります。形式にこだわる必要はありませんが、果たして我々は、その心意気をどのように表現していくのでしょうか。お寺もたくさんの人を迎え入れる場所です。コロナ禍において、今年はお茶を出すのも出されるのも遠慮させていただきますが、ではどうやって、おもてなしの心を表現していくのか。形式によって考えなくてよかったことを改めて考えていきたいと思います。

仏教が生きている国

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「この世において、もろもろの怨みは、怨み返すことによって、決して静まらない。しかるに、それらは、怨み返さないことによって静まる。これは永遠の真理である」

おしゃか様がおっしゃったことばなんですが、このことばをそっくり、わが国に対する賠償放棄の演説に引用したのが、スリランカのいまの首相、ジャヤワルディネ氏だったそうです。仏教の智恵と慈悲に基づく平和論を、そのまま、政治の世界に持ち出す、さすが仏教の生きている国だと思います。

「どこやらの不沈空母とは大違いですなあ」
と、総代さん。うん、そういえば、その不沈のおっさん、最近、どこやらの会合で演説なさって「私は、あるお方の占いを、全面的に信頼している」などと。ちょっとひどいと思いませんか。ある新聞にはそれをおもしろおかしく書いてあったけど、歴代首相はみんな、そのケがあったようで、トランプ占いやら、おはらいやら、おつげやら・・・。日本の行く末が、占いやおつげやらで左右されるようなこと、あるはずないと思うけど、あぶないなあ、そういうこと起こる可能性大ですなあ。因果の道理をわきまえて、ありのままにものを見ることができる人、とても少ないような感じだもの。もう、そうなったら、総代さんのいう通り、スリランカかインドに移住するしかないですなあ。

「若ハン、そう悲観することないっちゃ。ほれ、ごらんなさいよ。生活はなんといっても日本やちゃ」
門徒のおばちゃん、バスの中から外の町並みを指さして、上機嫌。
「ほれ、ありゃ、はだしで歩いとるっちゃ。家も、ほれ、あんなに小さいし。食べるもんもカレーばっかりやろ。テレビもなさそうだし、まあ、これで、顔つきじゃあ二千年は負けたけど、生活では、三十年は進んどるんじゃなかろうか」
と、のたまう。ほんに、ご当地は、生活程度は日本よりは低そうで、観光バスとみると、インドほどではないが、子供達が集まってきて、ライター、ボールペン、口紅とせがむ。中にはタバコをくわえて、ちょっと火を貸してくれなどとやってきて、ライターをみつけると、みやげものと替えてくれというのもいる。聞けば、この100円ライターというのは、なかなかあちらの技術で作るのがむずかしいそうで、およそ3倍の値段がついているようす。

みやげもの売りも、なにやらみんな貧しそうだが、ふと思い返すと、私もこの子の年ごろ、大阪のヤミ市で、進駐軍がやってくるとだれから教えてもらったのか「プリーズギブミーチョコレートサー」とやった覚えがある。なるほど、あれから考えてれば30余年・・・おばちゃんが「30年は進んでいる」というのも間違いではないみたい。

でもどうして私達、こうも勝った負けた、進んでる遅れてるなんて、順番つけたがるんでしょうなあ。バスが大きな寺の前にとまった。
「ミナサン、オテラノナカ、ボウシトッテクダサイ、クツヌイデクダサイ、ホトケサマノイラッシャルトコロデスカラ」
ガイドさんがきれいな日本語でいう。寺にはいると、大きな菩提樹の涼しい木陰で、おばちゃんも、総代さんも、この私も、母親も、そして現地のたくさんの参詣者も、みんなハダシで、手を合わせておまいりしている。一つになれるのは、仏様の前ぐらいなんだなあー。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

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「不殺」二千年の島へ

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「行きませんか?」
どこへ?
「スリランカ」
ええ?!
「いいとこだそうよ。南国の島、緑の島・・・」
それをいうなら仏教の島、そう、一度はお参りしてみたいと思っていたので、その気になって、急なことだったので会合やら講演やらをおことわりして、門徒まわりのお参りも日のべしてもらって、バタバタと用意をはじめたら、
「若ハン、大阪のお母さんと遠いとこへ行くんやってね。私も南の島へいっぺん行ってみたいと思っとったん。一緒に連れてってくらっしゃいよ」
と、門徒のおばあちゃん。
「そんならおらも・・・」
と、寺の総代さん。この人は以前、インドへ一緒に行った人。トントンと話はまとまって、じつはきのうまで1週間余り行ってきました。
で、今日は、本場のセイロンティでも飲みながら、みやげ話を聞いてもらおうと思って・・・。茶の間には、お経の会のメンバーが集まっている。

地図でみると、インドの右下に、なみだのしずくのような島がありまして、これがスリランカ。以前はセイロンといっていた国で、ここはインドからお釈迦様が直接仏教を伝えた国といわれ、その教えが二千年余り、脈々と息づいているといわれます。

雪国を長ぐつで出て、大阪でくつをはきかえて、お坊さんや信徒の方など18人のグループにまじっての仏跡参拝旅行となったわけですが、むこうへついたらとにかく、摂氏30度、湿度70%こりゃもうなんともいえないうれしさで、門徒のおばあちゃんは、「わぁーわぁー」と胸をはだけてあられもない。

母親は、いやじつはこの欄のさし絵を描いてくれているんですが、スケッチブックを出して、写生に余念がない。総代さんは、乳牛を10数頭飼って、田んぼの何町か持っている酪農家で、1年に3度も米のとれる姿を見せつけられて、真剣に永住を考えはじめる。「牛は肥えているし、この緑のすばらしさはなんともいえませんなあ。インドと違って米だって果物だって、何だって、ちょっと工夫すれば、まだまだ収穫はのぞめますなあ」

で、私はどうかといえば、行く前に読んだ早島鏡正博士の一文に、とにかくスリランカの人たちは、底抜けに明るく、生きものすべてが光り輝いている。これは、2千年余りかかって培った、仏教精神の具現である、といったことばが気になって、とにかく、生きものすべてに目を見はってみたんです。そしたら、ほんと、輝いているんだなあ。お経には、浄土の池には蓮があって、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光と説かれてあるけど、それに緑色緑光を加えてみたい気分。花々、動物、そして人・・・。

早島先生は、この明るさは、仏教精神、とくに不殺生の戒律を守りつづけたたまものであろうとおっしゃるが、なるほどなあ、とうなずける。生きものを殺さない。もののいのちを大切にする。体にとまった蚊も殺さない。タテマエや説教や理屈じゃなく、それが生活にとけ込んで、2千年余り、代々受け継がれてきて、はじめて生まれたのが、この顔。光顔巍々(こうげんぎぎ)とはこのことなんでしょうね。
「若ハン、負けたねー。2千年かかるっちゃ」と、門徒のおばちゃんは無邪気であります。


昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。

「お茶の間説法」(37話分)
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