法話」カテゴリーアーカイブ

ニグローダ

ニグローダは、金色に輝くシカの王様でした。その頃、都の王様は、シカの肉が食べたいので、国民に仕事を止めさせ、毎日シカ狩りをさせていました。国民は皆困りました。そして仕方なくシカが捕まえやすいように、餌で囲いの中へ誘い入れていました。そのシカを王様は毎日一頭ずつ食べていたのです。

シカたちは、いつ自分の順番がくるかわからないので、恐ろしくて朝から晩まで震えていました。夜も眠れません。ただ金色のシカだけは王様も大切にし、弓矢を向けませんでした。そのうちにシカたちは相談し、順番を決めて、首切り台に上がることにしました。殺される日までは安心だからです。

ある日、お腹に赤ちゃんをもったメスジカの順番になりました。「どうか赤ちゃんを生んでからの順番にしてください」メスジカは仲間たちに頼みましたが、誰も順番を代わってくれません。その時、ニグローダがすすみ出て、首切り台に自分の首をおきました。王様はニグローダの心に大変感心しました。そして、それから後は、すべての動物を殺すことをやめ、人も、動物や鳥たちも、みんな平和に楽しく暮らすようになりました。
(ジャータカのえほん/文:豊原大成)

この物語は、お釈迦さまの前世物語「ジャータカ」にある「シカの王様ニグローダ」のお話です。布施とは、見返りを求めずに分け与えることをいい、その究極が自らを差し出す行為として現してあります。現実離れしたお話に聞こえますが、仏さまの行動をとおして、我が身の在り方が問われます。

(寺報172号)

しかの王さまニグローダ

ニグローダは、金いろにかがやくしかの王さまでした。
そのころ、みやこの王さまは、しかの肉がたべたいので、こくみんにしごとをやめさせ、まいにちしかがりをさせていました。こくみんはみなこまりました。そしてしかたなく、しかがつかまえやすいように、えさでかこいの中へさそいいれていました。そのしかを王さまはまいにち1とうずつたべていたのです。
 
しかたちは、いつじぶんのじゅんばんがくるかわからないので、おそろしくてあさからばんまでふるえていました。よるもねむれません。ただ、金いろのしかだけは、王さまもたいせつにし、弓矢をむけませんでした。そのうちにしかたちはそうだんし、じゅんばんをきめて、首切り台にあがることにしました。ころされる日まではあんしんだからです。
 
ある日、おなかに赤ちゃんをもっためすじかのじゅんばんになりました。
「どうか赤ちゃんを生んでからのじゅんばんにしてください」
めすじかはなかまたちにたのみましたが、だれもじゅんばんをかわってくれません。そのとき、ニグローダがすすみ出て、首切り台にじぶんの首をおきました。王さまはニグローダのこころにたいへんかんしんしました。そして、それからのちは、すべてのどうぶつをころすことをやめ、人も、どうぶつやとりたちも、みんなへいわにたのしくくらすようになりました。
(ジャータカのえほん/文:豊原大成 出版:自照社出版)


仏教では、6つの修業方法(六波羅蜜)のひとつに「布施(ふせ)」があります。布施とは、見返りを求めずに相手の利益になるように分け与えることをいい、その究極が自らを差し出す行為でしょう。ジャータカ物語には同様の物語がたくさんあります。あまりにも現実離れしたお話に、どのように受け取ればよいのか戸惑いますが、仏さまの行いをとおして我が身の在り方を問うご縁にしたいものです。


藤井 友梨香(ふじい ゆりか)
ガラス作家、七宝焼きの特殊技法「ガラス胎有線七宝」で制作。1986年、山口県生まれ神奈川県育ち。女子美術大学ガラスコースを卒業後、彩グラススタジオ、富山ガラス工房に勤務。その後、アメリカやカナダの作家のもとで勉強。2015年、富山市ガラス美術館に作品4点を収蔵。毎年個展、グループ展に多数出品。現在、神奈川県の自宅にて制作をしている。
公式サイト http://yurikafujii.com
Instagram https://www.instagram.com/yurika_fujii/

うずらとあみ

むかしむかし、おしゃかさまは、うずらとしてお生まれになり、森でたくさんのなかまとくらしていました。
 
そのちかくの村には、うずらとりのおとこがすんでいました。おとこは、うずらのなきごえのまねがとてもじょうずです。おとこがうずらのなきごえを出すと、うずらたちがあつまってきます。おとこは、あみをかけて、いちどにたくさんのうずらをとるのです。おとこはそれを売ってくらしていました。
 
あるとき、おしゃかさまのうずらが、ほかのうずらたちにいいました。
「このままでは、ぼくらはみなごろしになってしまう。こうしたらどうだろう。このつぎ、ぼくたちの上にあみがなげられたら、みんなであみの目に頭をいれて、いっせいにとびあがり、いばらのやぶにあみをすてるんだ」。
 
あくる日、うずらたちの上にあみがなげかけられたとき、うずらたちはあみの目に頭を入れて、いっせいにとびあがり、あみをいばらのやぶにひっかかったやぶにすてました。おとこはいばらのやぶにひっかかったあみをとりはずすのに、じかんがかかるばかりです。
 
そのごも、まいにち、まいにち、おなじことがくりかえされ、うずらは1羽もとれません。おとこは「あなたはまじめにはたらいているのですか」と、おくさんにしかられてしまいました。
 
うずらとりのおとこは、かんがえました。
「いま、うずらたちは、みんななかよしだ。しかし、そのうちに、けんかをはじめるにちがいない。」
おとこがかんがえたとおり、なん日かのちに、一羽のうずらがえさをひろおうとして、ほかのうずらの頭をふんでしまいました。ふんだほうのうずらは「ごめん、ごめん」とあやまりましたが、ふまれたほうのうずらはゆるしません。とうとう、けんかになってしまいました。おしゃかさまのうずらは、「けんかをしていると、しあわせがにげて、くるしみがやってくる。みんなあみにつかまって、死んでしまうかもしれない」としんぱいしました。
 
4、5日のち、おとこはうずらのこえのまねをし、うずらたちがたくさんあつまったところへあみをなげました。あみの下になったうずらたちの中の1羽が、となりのうずらにいいました。「きみがうごいたので、ぼくの頭の毛がぬけた。あみは、きみがもちあげろ。」となりのうずらがいいかえしました。「ぼくは羽の毛がぬけた。きみがあみをもちあげろ。」いいあっているうちに、うずらたちは1羽のこらず、とらえられてしまいました。おしゃかさまのうずらは、あみの下にはいませんでした。
(ジャータカのえほん/文:豊原大成 出版:自照社出版)

お釈迦さまの前世の物語「ジャータカ」に収めらた物語です。このお話を元に色絵磁器作家の梅田かん子さんは作品を制作されました。このお話を選んだ理由はエンディングにあるそうです。通常の物語では勧善懲悪やハッピーエンドのオチをつけて終わりますが、ここでは、プツっと途切れるように物語は終わり、しかも一見お釈迦さまのウズラはとても冷たい印象を与えます。でも、梅田さんはそこにお釈迦さまの深い愛情を汲み取っておられました。

ご自分の子育てと重ね合わせて見た時、親はついつい子供に対して、「〇〇はしちゃだめ!そんなことしたら〇〇するよ!」と、脅し交じりの言葉を言ってしまいます。でも、それはその場しのぎの言葉であって、結局はすべての面倒を見てしまうのが親心。でも、お釈迦さまは、そこを見極められて「諦める」道を選びます。「諦める」とは、物事を「あきらかに見る」ことで、ただ見捨てることではありません。しっかりと忠告した上で、それでも同じ過ちを繰り返してしまう姿を見極めて、その場を離れました。痛みを感じながらも離れる決断力と深い愛情。そこに梅田さんは注目されています。作品は、網にかかった仲間たちと、そこを離れたお釈迦さまの2枚1組になっています。


梅田 かん子(うめだ かんこ)   
色絵磁器作家。1979年、高岡市生まれ。金城短期大学美術科を卒業後、九谷焼作家・松本佐一氏に師事。その後石川県立九谷焼技術研修所を経て、地元・高岡に工房を築く。2009年「めし碗グランプリ磁器部門」最優秀賞をはじめ、「工芸都市高岡クラフト展」や「朝日現代クラフト展」などでも数々の賞を受賞。
https://kankoumeda.jimdo.com

お講

お講(こう)の始まりは、本願寺第8代蓮如上人の時代と言われますので、500年以上の歴史があります。地域社会や信仰生活に根ざした「寄り合い談合」の場であり、地域社会の人々を結びつける大事な役割を果たしてきました。

善巧寺では毎月1日と16日の月2回を基本として、地区当番の割り当てで営まれています。昨今、核家族化によって家や地域での伝承が難しくなり、加えて過疎化や高齢化の問題から立ちいかなくなる地域が出始めました。ここ数年にわたり、当番の方たちの声を聞いてきたところ、「せっかく作っても参拝の人が少ない」という声も多くあり、それに関しては、「ほっこり法座」のリニューアルによって多少解決しましたが、問題の根本はそこではないようです。

これまで長くお講を支えてきてくれた現在90代前後の方々は、嫁いだ頃からお寺に通う人が多かったので、50年以上のキャリアを持った方がほとんどでした。しかし時代は大きく変化して共働きが当たり前になり核家族化も徐々に進み始めた次の代には、年に1度のご縁といえども重荷にしか感じられない方がおられることを知りました。さらに次の代は存在すら知らない方も多くなるでしょう。

今後は、人数の足りない地域では従来のやり方にとらわれず、出来る範囲のやりやすい方法を検討していただき、条件が揃えば合併も提案させていただきます。お寺としては手を合わす場を絶やさないために、どのような方法があるのか一緒に考えていきたいと思います。

(寺報171号)

ほっこり法座Q&A

2月1日に行われた「ほっこり法座」のアンケートで質問をいただきました。それに対して、講師の日下賢裕先生より丁寧なお返事を送ってもらいましたので紹介します。



死は苦悩なのか?人のゴール地点では? 夢に向かって努力することは煩悩・苦悩なのか?(60代男性)

死は人生のゴール、という受け取り方ですが、そのような受け取りを元に人生を歩むこともできるでしょう。しかし、それでは私達の人生やいのちというものは、一体何だったのか?ということにもなってしまいます。死がゴールならば、今すぐゴールしてもいいわけですし、苦悩の人生をわざわざ生きていく必要というものがなくなってしまうのではないでしょうか。 前回の「ゼロから味わう仏教」でもお話しましたが、仏教の目的は「私が仏と成ること」です。ですから、仏教におけるゴールとは、私が仏と成る、というところにあります。そのように私のいのちのゴールを置いてみると、この私の人生、私のいのちは、実は仏と成るためにあった、というように意味が変えられていきます。これはどちらが正しい考え方か、ということではなく、どのような意味をもって、このいのちを歩んでいけるか、という違いがそこに表れてくるのだと思います。 また夢に向かって努力することは煩悩なのか、夢を持って生きることは苦悩なのか、というご質問ですが、今回の「ゼロ仏」でもお話したように、煩悩とは私の心のはたらきそのものを表す言葉です。ですから、私たちの言葉や行為も、その煩悩に突き動かされて生じてくるものです。 夢を持つことというのは、私たちの社会の価値観では、尊いこととしてみなされます。夢に向かって努力することは、とても美しいし素晴らしい。それは私たちの価値観からすれば、間違いのないことです。 しかし、仏教の価値観からすると、少しその見方も変わってきます。その実現しようと望んでいることが、一体なんのためのものなのか。私たちの行為が、煩悩によって突き動かされているのであれば、それはどこまでいっても自己中心性という毒を秘めている可能性を完全に拭い去るということはできません。もちろん、夢の種類にもいろいろあって、社会のため、他者のために、という夢もあることでしょう。それが煩悩によって生まれたものなのかどうか、そこまでは私もわかりませんし、仏教が夢を持つこと、努力すること自体を否定するわけでもありません。 しかし、その夢が破れたときには間違いなく苦悩となることでしょうし、夢が実現したとして、それで満足して何も望まなくなるというわけではありません。夢が破れれば怒りの心「瞋恚(しんに)」が、夢が実現してもむさぼりの心「貪欲(とんよく)」が、と結局は煩悩から離れられない状態が続いてしまいます。人間として、夢を持ち、努力をするということは尊いことですが、しかしそれもまた、煩悩に裏打ちされていることに変わりないと見ていくのが、仏教の見方なのかなと思います。

あなたのお寺

自分が生まれた年(昭和48年)の報恩講芳名帳を見てみると、382名の名前が記されていました。現在のおよそ4~5倍の人数です。そこに記されている方々は、おそらく子供の頃に親に連れられて来た人や、嫁いでから姑に促されてお寺へ来ていた人たちが多いと思います。昔は村の拘束力が強く、お寺参りもそのひとつだったと思われますが、数10年通い続けるうちに「私のお寺」という気持ちを育んでおられたことでしょう。

参拝者のピークはさらにさかのぼり、本堂がひと回り大きなサイズで再建された明治初期頃と予想されます。本堂を現在の大きさにしたのは、それだけの人数を見込んでいたはずです。そういう意味では、参拝者の減少は今に始まったことではなく、百年単位で言われ続けてきたのかもしれません。

住職を継職して20年ほど経ちますが、その間、参拝者の減少はずっと言われ続けてきました。その言葉は「住職がんばれ!」のエールだと受け取っていますが、ひとりではとても抱えきれる重さではないので、どうぞ手をお貸しください。他人のお寺ではなく、あなたのお寺です。

お講をリニューアルしたのは参拝者が2~3人なったことが一つの要因でした。ほぼゼロからのスタートになったので、人が少なければこちらの誘いと魅力が足りないことに尽きます。おかげさまでとても清々しい気持ちでやりがいを感じています。どうやったら振り向いてもらえるのか。今後も試行錯誤を続けていきます。

雪山俊隆

ほんこさま

10月は報恩講、通称「ほんこさま」の時節です。浄土真宗の開祖、親鸞聖人のご法事をつとめる大切なご縁です。お寺の報恩講ではお仲間の寺院が参り合う風習が残っており、若栗の真照寺、発願寺、荻生の称名寺、生地の順昌寺、そして浦山善巧寺、法輪寺、照行寺の計七ヶ寺でおつとめします。ご門徒一軒一軒でつとまる「ほんこさま」は、9月の音沢地区から始まり、翌年3月の浦山地区まで続きます。多くの寺院では10~12月の間に集中してほんこさまをつとめていますが、善巧寺の場合は、急な葬儀や法事にも午後から対応出来るように、ほんこさまは午前中で終わるようにしています。そのため、日数は長くなっているのです。

年に一度の尊いご縁ですので、赤いろうそくを推奨しています。また、首にかける式章もぜひご着用ください。お仏壇やお寺にお参りするということは、阿弥陀如来が「いつでもどこでも今ここにまします」ということを受け取る時間です。いつでもどこでも働いてくださる仏さまですが、残念ながら日々の生活におわれる私たちはそれを忘れて過ごしています。
「私はしばしば仏を忘れるが、仏は私を忘れない。」
先立たれた人たちが仏さまとなり、合うはずのなかった私の手を合わさせてくれる力となって、今ここに働いていると受け取りましょう。ひとりだけどひとりじゃない世界があります。その心を聞かせていただくのがご法話です。報恩講へぜひお参り下さい。

雪山俊隆(寺報169号)

問いの共有

お寺の中心は、「仏さまの教え」です。その教えを守るために本堂があり、僧侶がいます。もし、教えが途絶える時が来たら、それはお寺の終焉でしょう。最後まであがけるだけあがいて悔いのないように生きたいです。そのあがきのひとつとして、5月から定例行事のお講を「ほっこり法座」という名でリニューアルしました。親交のある30~40代のお坊さんを招いて仏さまのお話を聞きます。参加者には毎回アンケートを配布して、食後にはその日の講師も同席でコーヒータイムを設けています。文字でも言葉でも、思ったことを出してもらう場を大事にしたいと思っています。

お寺に来ると法話やおつとめはもちろん、それ以外にも五感をとおして様々な情報を受け取っています。受け取りっぱなしでは時に消化不良(ストレス)になってしまう場合がありますので、その気持ちを外に出すことは大切です。耳を傾けるといろんな疑問が聞こえてきて、「煩悩はどこまで許されるの?」「人間は死なないと仏になれないの?」「子や孫にどうやったら伝えられる?」など、とても興味深いです。

蓮如上人は、「物をいえいえ、物をいわぬ者は、おそろしき」とおっしゃっていますが、その意味が少しわかってきたような気がします。答え探し以上に、問いを共有することにこそ大きな意味があるのではないでしょうか。
「希望は絶望を分かち合うこと」
小児科医の熊谷晋一郎先生の言葉にも通じます。毎月の定例だからこその距離感を大切にしていきます。

(寺報168号)

ほっこり法座Q&A

5月16日に行われた「ほっこり法座」のアンケートの中でいくつかご質問をいただきました。日下賢裕先生より丁寧なお返事を送ってもらいましたので、許可をいただき一部ここに共有します。



お寺の行事で朝事(あさじ)とありますが、これも仏教語ですか?

朝のお勤め(お参り)をお朝事と呼びますね。仏教語、というわけではありませんが、私たちもそのように呼ばせていただいております。正式には、晨朝勤行(じんじょう ごんぎょう)といいます。かつては一日を6つに分けて、一日六回のお勤めを行っていました。今で言う朝の時間が晨朝と呼ばれたので、晨朝勤行と呼ばれています。



ナモアミダブツと称える時、なぜ「ツ」はハッキリ言わないんですか?

「ツ」は唾が出やすい言葉で、仏さまの前では失礼にあたるということから、ハッキリ発音しないと聞いたことがあります。古来より、お経の正式な読み方には、口からではなく鼻から息を抜いて発音する「鼻音(びおん)」と呼ばれる唱法があります。



善人と悪人とは同時にあるものでしょうか?

一般論で言いますと、私達には善と悪の両面があるのだと思います。
仏教的に考えますと、善人とは悪を為さない人と言えますから、同時には存在しません。また仏教で言う悪というのも、犯罪を犯すようなことではなく、例えば嘘をついたり、綺語(お世辞を言う)、悪口(汚い言葉を使う)なども悪い行いとなります。行動に移さなくても、人を傷つけようと心に思うことも、悪い行いです。ですから、仏教で言う悪を為さない、ということは実はとてもむずかしいことです。

とは言え、悪を為す人であっても、善い行いもできるはずなのですが、清らかな水に一滴でも毒が混じればそれは毒水となってしまうのと同じように、私たちの行いは、毒が混じった雑毒の善、と呼ばれたりもします。完全なる善を為す、というのは、実はとてもむずかしいことと言えるかもしれません。

また「歎異抄」で言うところの善人・悪人は少し意味合いが異なっておりまして、善人とは、自分の行いを振り返らず自分を善人だと思い、自分の力で仏となれると思っている人、悪人は、自分の行いを振り返って、自分の悪を見つめ、自分では仏となるなど到底できない、阿弥陀仏の力によるしかないとする人、という理解です。ですので、こちらも善人から悪人に、ということはあっても、同時に、ということはないかと思います。



真実に目覚めることができるでしょうか?

真実に目覚める。言葉で言ってしまいますととても簡単なようですが、なかなか難しいことです。知識として知ることはできるかもしれませんが、それを「我が事」として行いにまで反映されるということが、特に私たちには難しいのです。例えば、怒ることは煩悩による誤った行為である、という教えを聞いても、実際に怒らないようにできるわけではありません。目覚めるということは、頭で理解することではなくて、行いにまでしっかりと結び付けて、100%徹底できる、ということです。

その難しさに気づかれたのが、法然聖人であったり親鸞聖人でした。そんな私が、目覚めていけるのか?ということに悩まれて、そう徹底できない自分のために、すでに目覚められた阿弥陀仏という仏さまが、私を目覚めたいのちとして迎えとりますよ、とはたらいてくださっている。その阿弥陀仏という仏さまのはたらきに出会われて、私たちのところに今ありますのが、浄土真宗という教えになります。ですから、自分の力では目覚めることができなくても、目覚めたいのちとならせていただける教えというのが、浄土真宗ということになります。

いのちを考える/梯實圓

このテキストは、昭和62年に行われた「行信教校OB会並びに黒西組内研修会」での梯實圓和上の記念講演を抜粋したもので、善巧寺の寺報46号(昭和63年)に掲載されました。

いのちというものを考えてゆきますときに、まず、私は「生命」と漢字で書く場合と「いのち」とかなで書く場合と、ちょっと区別をしておきたいと思うのです。と申しますのは、この「生命」というものの一番小さな単位として考えられるのは、細胞でございましょう。もちろんさらに小さく分子、原子、素粒子・・・ということになるかもしれませんが、いわゆる生命現象としてみますと細胞ということになるでしょう。単細胞動物から多細胞で組織をつくり、それが機関というものをつくりあげ、それが系を、またそれの統合されたものとして「個体」というものが成立するわけです。ゾウリ虫からイヌ、ネコ、人間にいたるまで、こうした細胞のあつまりが分裂し、そして死骸を残して終わってゆきます。

これもまあ生命現象といえばいえるのですが、どうも私たちが、「いのち」という場合は、もう少し違った感じじゃないかと思うんです。例えばね、私がふと、目の前に、木から落ちて死んでいるセミの死骸を見ても、あまり心が動きません。「あ、セミが死んでいるな」というぐらいです。けれども、それが自分の子供だったらどうか-「あ、子供が死にかかっている・・・」なんて気安いものじゃないでしょう。その時に、いのちが失われるという同じことでも、セミと自分の子供とは全然違うでしょう。まあ、そんなところを私は「生命」と「いのち」と区別しているんです。まあ、このように「いのち」というものは、平常はなんとも意識しませんが、失われかけたときものすごい実在感をもって、私たちにせまってくるんですね。

さて、そこで「いのち」というものを考えますときに、まず、なんといっても「かけがえがない」ということが挙げられるのではないですか。かけがえのなさというのが、いのちを特徴づける一つの性格でございましょう。そして、いのちというものは、常に「具体的」なものである、といえましょう。さらに、いのちというのは、「一回きり」であります。そうでしょう。この私という人間がもう一度、この世の中へ出て来ようと思ったら、宇宙の150億年の歴史をもう一度くり返さないと出て来ない、いや、それでも無理でしょう。そうしますと、私というものの存在は二度と再び出現しないという、一回きりのものだということ、わかるでしょう。だから、その一回きりであるからこそ、失われてゆくことに対する無限の哀惜というものがわいてくるわけなんです。そう、いのちを惜しむということは、一回きりで、かけがえのないということに対する、正確な対応の状況であろうと思うのでございます。

そこでまず、このいのちは「かけがえのないもの」であるということを考えてみたいのですが、むずかしいこと抜きにして、いのちの特徴として、代わりがきかないということなんです。私のいのちは、私以外に生きてくれる人はいません。ちょっと、今日は忙しいので、私の代わりに死んでくれ、なんてことはできないんです。私の死は、私以外に死にようがない、この一つだけでも私たち、はっきりしておいたほうがいいと思うんです。私以外に生きようのない私のいのちならば、私なりに納得のゆく生き方をしなかったら、いのちに対する責任が果たせないと違うか?このいのち私以外に死にようがないならば私の死は私らしく死んでゆこうという・・・そういう覚悟があってしかるべきじゃないかなと思います。かけがけのないいのち・・・言葉で言えばわかるんですが、普段、私たちは、かけがえのあるものばかり見ているのと違いますか?代わりのきくものばかりに目がいってしまっているんじゃないですか?

私、今日は講師としてここへまいりました。で、みなさんは講師の梯、というふうに見て下さる。しかし、この講師という方は、いくらでも代わりがあるんです。私が今ここで倒れても、あとはちゃんと誰かが代わって講義をしてくださるでしょう。けれども、この私、梯實圓には代わりはないんです。えらいややこしいこというようですけどね、これ一ぺん考えてみましょうや。

わかりやすくいいますとね。そうそう、私、前に、中曽根康弘さんにお会いしたことがあるんです。内閣総理大臣だったころ。いや、お会いしたといってもね、べつに訪ねていったわけでもないし、むこうが訪ねてきたわけでもない。駅でばったり出会ったんです。東京駅でした。築地本願寺から帰る時に、新幹線に乗ろうと思って駅へ入って行ったんです。そしたら駅員の方が、「ちょっと待って下さい」というんです。何かなと見たら、7人ほどそこへ止められている乗客がいる。そこへね、一分もたたぬうちに、ザッと一団の人がやって来た。見たら、真ん中に中曽根さん、で、向こうは知らんかも知れんが、こっちはよう知っとる。「ああ、中曽根さんか・・・」というわけで、見てましたら、まわりにボディーガードがついてましてね。背広の前をあけてね、あれピストル持ってるんでしょうな。横向きながら前へ歩いてゆくんです。それがタッタッターと、早いですな歩くのは。総理大臣にはなるもんやないね、ブラブラ歩けません。ゆっくり歩いてたらねらわれてあぶないんでしょうな。

それはさておき、その時、待たされているついでにふと思ったんですが、中曽根さん、内閣総理大臣・・・これはまあ行政府の長官ですからね。日本でも最重要なポストですわな。で、みんな、総理大臣というと、かけがえのないお方だと言っています。けど、よく考えてみると、総理大臣のかけがえなんか、なんぼでもおるのと違いますか。あんなの議事堂へ行ったら代わりたいのがクサるほどいますよ。だけどね、中曽根康弘という方の代わりはないわな。

私たちはね、社会的な地位とかね、そういうものだけで人間を見ているんじゃないですか。それであの人は尊い人やとか、つまらん人だとか、社会的な役割だけで、人を見て、それでなおかつ、人間を見た、いのちを見たと思っているんじゃないだろうか?自分にとって都合がいいかどうかで、かけがえのない人の「いのち」までも見てしまう。おそろしいことだけれど、こういうのが多いんじゃないですか。若い者が年寄を見て「役に立たんものはあっちへ行け」というような利用価値だけでものをいう。そして、お年寄りでもそうですね。

「私のように役に立たん人間になったら、もうどうしようもありません。生きてることがみんなの迷惑。早よう死んだほうがまし」

なんてこと、まあ、富山にはおられないでしょうが、あれ、あんまりいわんようにしましょう。役に立たんといって、自分で自分を見捨ててどうするの。これは、自分の「いのち」に対する、最大の冒とくですよ。これだけはやめましょう。何の役に立たなくても、そこに生きているということで、無限の意味と価値をもっている。それが「いのち」というものなんだと味わえる、そういった「目」をひらいてゆかねばならないと思うんです。そういった目をひらいて下さるのが、仏さまなんですよ。どうかみなさん、仏さまのおっしゃることをよく聞いて、人のいのち、自分のいのを、ただ利用価値で見るのではなく、かけがえのないすばらしいものなんだということに気付いていただきたいと思うのです。

善巧寺寺報46号掲載(昭和63年)
行信教校OB会並びに黒西組内研修会