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所信表明 2020

明けましておめでとうございます。
正月の善巧寺は、1日深夜0時の除夜の鐘にはじまり、午前6時から朝のおつとめ(修正会)、午前8時~午後3時頃まで「年頭参り」を行っています。

「年頭参り」とは、名前のとおり新年を迎えるにあたって初めてのお寺参りをすることです。通常の法要と異なり、決まった時間におつとめがあるわけではなく、それぞれの来やすい時間にお寺へ訪れ、本堂で手を合わせてから座敷へ移動してあいさつを交わす伝統的な行事です。各ご家庭や地域で伝承されてきた行事のため、お寺からは特に案内はしていません。その伝承が途切れつつある昨今、年々人の数は減っており現在は平成初期の半数ほどになりました。これは、年中行事の法要も同様で、世代交代がされないまま高齢化と過疎化が進行したため、必然的に減少傾向にあります。

数十年前からお寺の中では「お参りの数が減った」と口ぐせのように言われており、地域行事の中でも同じような状況にあります。人に来てもらうための努力や熱心なお誘いがない行事が衰退していくのは当たり前のことですが、現状維持のままで参加者に恵まれていた時代が長過ぎたゆえの嘆きの声です。一般の企業でも、自社の精魂込めた商品を必死に売るために「営業」や「広報」にかなりのウェイトを割いているように、お寺も同様に一般的な「当たり前」のことをしっかりとやらねばなりません。思えば、新規で起こしてきた行事は、いずれも必死に広報してきました。その際、原動力は内部の熱です。「ひとりでも多くの人に来て欲しい!聞いて欲しい!」という熱が行事を作ります。その視点から見た場合、現在のお寺はその熱が足りないと言わざるえません。義務的に協力してくださる方々は間違いなく善巧寺の支えになっていますが、そこに喜びがなければ広がりは生まれないでしょう。

一昨年から伝統行事の「お講」をリニューアルして再スタートした「ほっこり法座」は、法話を聞くことに重点を置いて、門徒や地域の有無を問わず、出来る限り広くに声を上げるように切り替えました。こちらも長く広報されていなかった定例行事です。まだ軌道に乗ったとは言い切れませんが、一歩手前までは来ていると実感しています。それに対して、年中行事の法要は、これまで門徒さんだけを頼りに踏ん張ってきましたが、今年からその方向性を変えていこうと思っています。

家庭や地域の伝承が途絶えた今、有縁の人びとを対象に、どなたも入りやすい環境を整えて声を上げていきます。その中にはもちろん、門徒さんも地域の方も真ん中にいます。今年は宗祖・親鸞聖人のご法事「報恩講(ほうおんこう)」の改革を目指します。浄土真宗寺院の根幹にあたる行事です。

いろいろと遠回りしましたが、その経験を糧に本丸に入っていきます。つきましては、ご縁のある方々にはぜひ、善巧寺の転換期にご注目いただきたく、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

善巧寺住職 雪山俊隆

◇ ◇ ◇

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ほっこり法座(10~12月)

仏さまのお話と、お寺のごはんを味わって、ココロとカラダのデトックス。ほっこり法座シーズン5のお知らせです。今回も魅力的な先生が揃いました!民藝、消しゴムはんこ、仏教絵本など、様々な切り口から仏教・浄土真宗の教えに触れてください。どなたも心よりお待ちしております。

参加費:1,000円(12/1のみ2,000円)
持ちもの:じゅず(貸出しも可能)
服装:自由

お申し込みはこちらからどうぞ。12/1の消しゴムはんこWSは定員に達し次第締め切ります。参加希望の方はお早めにお申し込み下さい。

10月1日(火)11:00~12:30
通夜って?葬儀って?
講師:雲林重正先生(新潟・淨秀寺)
参加費:1,000円
意外と知らない宗教儀礼の話。自作の儀礼リーフレットに沿って、その意義をお話します。

10月16日(水)11:00~12:30
疑問や悩みの共有
講師:雪山俊隆(善巧寺)
参加費:1,000円
過去のアンケートで様々な疑問や悩みを聞かせてもらいました。それを元にお話します。

11月1日(金)11:00~12:30
願いの中に生きる私
講師:四下順文先生(富山市・妙傳寺)
参加費:1,000円
初めてのほっこり法座のご縁です。皆さまにお会いできる日を楽しみにしております。

11月16日(土)11:00~12:30
民藝と他力思想
講師:太田浩史先生(南砺・大福寺)
参加費:1,000円
日本民藝協会常任理事でもある太田住職より民藝をとおして、他力思想のお話です。

12月1日(日)11:00~14:00
消しゴムはんこで年賀状
講師:麻田弘潤先生(新潟・極楽寺
参加費:2,000円
消しゴムはんこのお坊さんによるワークショップ。時節に合わせて年賀状用のハンコ作りです。

12月16日(月)11:00~12:30
ひかりになった、王子さま
講師:浅野執持先生(愛媛・万福寺
参加費:1,000円
仏教絵本「絵ものがたり正信偈」の著者と一緒に音読をしながら、正信偈の世界に浸る法話です。昼食はお釈迦さまの誕生地ネパール・ルンビニ出身者によるネパール精進カレーと和風カレーの2種です。

<時間割>
10:30 受付
11:00 おつとめ
11:10 法話
12:00 お寺ごはん
12:40 ティータイム(自由参加)
※12/1の消しゴムはんこワークショップのみ午後2時まで行います。

<講師の関連書籍>
消しゴム仏はんこ。でごあいさつ
津久井 智子 麻田 弘潤
誠文堂新光社

迷っているのは自分自身

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「モシモシ、おたく、水子、やってくださいます?」
―?!(ナンノコッチャ)
「近頃、体の調子がおかしくて困ってましたら、知り合いが、みてもらえっていうんです。それでみてもらったら、私には何か迷った霊がついているとかで、それをなんとかしないかぎり、不幸がつづくといわれましたの。それで、もし、おたくのお寺でお経読んで下さるんでしたら、わたし、これからうかがおうかと・・・」
―あなた、いま、どちらから?
「東京なんですけど」
―アホかいな。宇奈月の温泉につかりにくるのならまだしも、わけのわからんことで私のお経を聞きにきても、なんにもなりませんよ。それより、体の調子が悪いのなら、お医者さんへゆきなさい。病気になったら医者へ行け、とおしゃか様もいっておられます。
「でも、みてくれた人が・・・」
―ほれ、またはじまった。みてくれた人がっていったって、その人一体どんな人なの?あなたのことをあなた以上に知っている人なの?なに?なんでもよく当たる人?バカおっしゃい。クイズの王さまでもあるまいし。いまの日本中の女性のほとんどが、その水子の霊とかいうと、思い当たることになっているんでしょ。あなたそんなもの信用してどうしようというの?
「ですから、このなにかモヤモヤしたものをスッキリさせたくて・・・」
―バカタレ!(面と向かってならいいにくいが、電話だと、つい、こういいたくなっちゃう)あんたのモヤモヤをスッキリさすために、水子の霊をしずめるなんて、因果の道理に合わんじゃないですか。私は浄土真宗の坊主だから、ハッキリいいますがね、あなたの気持ちもわかるような気はするが、いま世間でいう水子供養なんてものは、ほとんどがインチキだよ。何万円かでコケシみたいなの売りつけて、あんなもので浮かばれたとかなんとかいうのかね。冗談じゃないよ。自分の責任を上手にすりかえて、水子に押しつけ、おまけに、その供養を坊主にたのむとはいったいどういうこと?あなた何もしてないじゃないの。ただ自分のモヤモヤをスッキリさせたいため、迷っている子供を・・・なんていってる。子供は迷っていません。ええ、ゼッタイあなたが思っているような迷い方してませんよ。いいですか。迷っているのは、奥さん、あなた自身なんですよ。他人のせいにしちゃいけないよ」
「・・・やっぱり・・・そうなんですね」
―?
「じつは、私もそうじゃないかと思ってたんですが、やっぱりそうだったんですね」
―なんだ、わかってるんじゃないの。
「ええ、でも、そういうふうにいってくれる人はいなかったんです。だれに聞いても、たたりだとかついてるとか、ひどいことにはお医者さんでも、おはらいしてもらえなんていう人いるんです。それで、もう、わたし、わからなくなって・・・」
―あなたも悪いが、まわりも悪いなあ。
「ハイ、子供の命の分までなんとか精一杯がんばります」

そう、迷っているのは、霊とかなんとかいういいかげんなもんじゃなく、じつは、わたしたち自身だってこと、気づかなくっちゃあね。


「お茶の間説法」(37話分)
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ゴメンだネ・・・祈とうにおはらい

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「ごめん下さい!」
朝の6時に玄関に元気のいい青年が立っている。パリッと背広にアタッシュケース。(セールスマンかな?うちの門徒さんにこんなカッコいいのいなしなあ・・・)
―どなた?
「ハイ、私、今、東京から汽車で着いたばかりの、こういう者でありまして・・・」
名刺を見れば、東京証券取引所とある。(ははあ、株屋さんで、何か売りつけようというんだな)と、逃げ腰になりかかったら、いち早くそれを察知して、
「いえ、商売の話じゃないんです。先日、ちょっと調べてみましたら、ウチの3代前の本家がこの寺の門徒だということがわかりまして、一度、親代々の法事でもしていただかねばと思いまして、突然伺ったようなわけなんです。で、私、すぐまた汽車で東京へ引き返さなくてはなりませんので、とりあえず、お経の一巻でもと・・・」
―それはまたずいぶんとお急ぎなんですね。じゃまあ、お上がりなさいませ。と、部屋へ通してお茶をすすめて、お話をうかがってみると、これがビックリ。
「ええ、私、仕事の方はうまくいっているんですけど、親戚の者が最近、相ついで3人も交通事故起こしまして、どうもすっきりしませんので、ちょっとある人にみてもらいましたら、なんか迷った霊がおるとかで、お寺で法事をした方がいいと聞きまして、さあ、それからあちこち調べて、やっと、ここのお寺が檀家寺だということがわかりましたんで飛んで来たわけなんです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
―あのォ、申しわけないけど、ウチの寺は、そんな法事はしないんです。
「エエッ?!法事をしない寺なんですか」
―いえ、法事はしますが、ここは浄土真宗のお寺で、深く因果の道理をわきまえて、現世祈とうやまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらないことをモットーにしてますから、あなたのいうような法事はしないってことです。
「そんなこといわずにお経一巻・・・」
―浄土真宗では、お経を祈とうやおはらいの道具にはいたしません。
「弱ったなあ、ちょっとやって下さりゃいいんだけどなあ」
このちょいとってところがムカッときたんですが、相手の方は東京から夜汽車でやってきて、もっとムカッときているだろうから、とりあえず心落ち着けて、お経のかわりにお話ししたんです。
―あなた、みてもらったっていうけど、だれにみてもらったの?どんな考えを持った人で、その人はあなたのことを本当によく知っている人なの?
「さあ・・・」
―さあってずいぶんいいかげんだね。だれだかわからん人物に、それこそちょいとおどかされたぐらいで、よく富山の山寺まで来ましたね。親戚に事故がつづいたって、それには原因があるはずです。警察行って聞いてごらんなさい。そしてついでに、ひょっとしたらことわたしももうすぐ事故を起こすでしょうかって聞いてごらん。アホかっていわれますよ。あなた、自分の欲で、なんかこうサッとやってもらったら、いいことくるように思ったんじゃないの?現代の標本みたいなカッコしてるけど、頭は原始人だね。いやご無礼!


「お茶の間説法」(37話分)
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心にJISマークを

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


借金の証文に押す印鑑の証明がいるというので、先日役場の窓口へ行きました。
「ずいぶん年期の入った印鑑ですねー。まわりがひどく欠けていますよ」
窓口の女子職員の方、笑いながらこうおっしゃる。そういえば、水晶のハンコでいたみがひどく、周囲の丸がほとんどなくなっている。
「ほんとだ。こりゃボツボツ新しいのにしなくちゃいかんなあ」
「そうですよ。いまどき、こんな印鑑持ってる人、少ないですよ」
「へー、そんなもんですか」
「ええ、そりゃもう立派なものばかり。ホラ、あの・・・開運っていうんですか、みんな縁起かついで、一年に二度も三度もっていう人もいるんですよ」
「なんと!」
「おたくお坊さんだから、聞いてみるんですけど、やっぱり印鑑ひとつで運が開けるなんてことあるでしょうか?」
「あなたは、どう思います?」
「さあ、そんなこと、ないと思いますし、ひょっとしたら、あるのかなあ、なんて・・・」
「で、あなた、印鑑をかえられたの?」
「いいえ、まだ・・・」
「それなら、かえないほうがいいでしょ。いや、いいも悪いもないけど、少なくとも印鑑を新しくして幸運がくるのは、その印鑑屋さんだけじゃないかなあ」
「ハハハ、そういえばそうですね。わたし新しくするのやめとこ。もうかっちゃった。ハイ、証明書できました」
というわけなんです。いや、ほんとにすごいんですって。まったくバカバカしいことだけれど、わが町へ、印鑑のセールスマンが来たとたん、役場の窓口までがいそがしくなるくらいに、実印の変更が相次いだというんです。

ゾッとしませんか。冗談じゃないよっていいたい。いや、これは、私が浄土真宗のお坊さんで「深く因果の通りをわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」という教えを身につけているからいえるわけで、ちっともゾッとせず冗談どころか、本当に信じきっちゃってる人もたくさんあるんだから、あんまり、そういう人を傷つけたくないんですが、やっぱりちょっとおかしいなあと思ったほうがいいんじゃないかと思う。

だってそうでしょ。ハンコはあくまでハンコであって、あなたではない。そしてハンコの字は、ハンコ屋さんが彫るのであって、その人がいくら先生と呼ばれようが、字は字であって、あなたの運命とかを変えたりするものじゃないはずです。それが、因果の道理というものでしょ。じゃないですか?

運が開けるとか、幸福がやってくるとかいって売り込んでくるのも、ハンコだけじゃなくて、いろいろありますね。表札とか、掛け軸とか、なんとか、かんとか、そういうものをお買いになるときは、ぜひ、因果の道理に照合してみて下さい。それでうなずけるものならかまわないけど、アーラ不思議なんて道理に合わないものがあったら、なるべく近寄らないほうがおトクかと思います。キャッチフレーズ風にいうなら、因果の道理は、あなたの心のJISマーク、ということになりますか。年末は特に心の戸締まりをお忘れなく。


「お茶の間説法」(37話分)
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みんな賢くなりすぎて

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


ツーといえばカー、QといえばA。近頃、世の中、親切な人が多くなって、電話一本、ハガキ1枚で、どんなことにでも答えてくれる時代のようであります。人生相談、もめごと相談、心配ごと相談、人権相談、教育相談、育児相談、お料理相談、冠婚葬祭なんでも相談といった具合で、まあ、本当に便利な世の中ですね。

私もそのあおりをうけて、ひょいと遠くから、電話で質問されたり、手紙をいただいたり、なかには、うちの寺へこられたり・・・なんてことがよくあるんです。で、結果はうまくいくかといえば、これがまるで話にならない。Qとくれば、A、となればいいんだろうけど、私のはそうはいかない。Qと問われた問題を、さらにややこしくして、Qのまま返してしまうということが多いんです。Q&Aじゃなくて、Q&Q、になっちゃうんです。

こないだも、こんなことがありました。
電話の奥さん「モシモシ、あの、雪山さんですか?私、サンケイ新聞で拝見しているものなんですけど、ちょっとおうかがいしたくって・・・」
―どんなことでしょう?
「それが、じつは、娘の結婚のことなんですけど・・・私は賛成だし、相手も乗り気だし、うまくまとまればと思いまして、ついこの間あるところで見てもらったんです。そしたらなんと、この縁談はダメだ、不幸になるに決まっている、なんておっしゃいまして、私、どうしていいかわからなくなりまして・・・」
―それで?
「ええ、ですから、そんな占い師のいうことなんか信じなくていいかどうかと・・・」
―あなたはどうしたいんです?
「ですから信じたくないんですけど・・・」
―じゃあ、それでいいじゃありませんか。
「でも、占い師のいうことですし・・・」
―それならもう一度その占い師のところへ行って「あなたのいったこと信じたくありません」といってらっしゃいよ。私はあなたの顔も見てないし、娘さんのことも知らない。相手の男性がどんなハンサムかも知らない。電話一本で聞かれたって何もわからない。もちろん占いなんてものは、バカみたいなもんだけど、それを私があなたにいったら、あなたは、先の占い師を捨てる道具に私を使うでしょう。どっちにしてもバカバカしい。そんなことより、ご主人と娘さんと、みんなでよく相談なさったらいかがですか?

とまあ、こんな具合になっちゃって、相手の奥さんの聞きたいこともわかるんだけど、ごめんなさいって電話切ったんです。ずいぶん不親切な男だと思われたかも知れないけど世の中には親切な人がたくさんいるんだからやさしい答えがほしい方は、そちらへどうぞといっておきましょう。

ところで、このとき、ふと思ったんですけど、近頃の相談ブーム、こりゃあいったいどういうことかと考えるに、どうやら、日本中だれもかれも、かしこくなりすぎちゃったんじゃないか、と思うんです。つまり、そこら中からおだてられて、私達みんなうぬぼれのかたまりになっちゃって、ちょっとわからないことや、困ったこと、まわりの人にちょっと頭下げて聞けばいいのに、わからないということ知られるのがはずかしくって、こっそり電話やハガキで見ず知らずの人に聞いて、あとくされなくして、すましているんじゃないかしら。ねえ、そうじゃなあい?


「お茶の間説法」(37話分)
>> http://www.zengyou.net/?p=5702

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「コロナに負けるな」という言葉への違和感

「コロナに負けるな」という言葉に違和感がある。言わんとするところはわかっているつもりで、「厳しい状況だけどみんなで力を合わせてがんばろう!」とか、学校なら、「手洗い検温を忘れずに気を付けよう!」とか、とにかく「気落ちせずにみんなでがんばっていこう!」ということを、まるっとまとめて「コロナに負けるな!」と言っているんだろうけど、そもそも、勝ち負けに単純化して現している点が腑に落ちない。

負けるな、って何だろう?
コロナにかかったら負けなのか?
コロナ感染者の人がその垂れ幕を見たらどう思うんだろう・・・。

前回の一口法話にも、健康第一という言葉が不健康な人を傷付けている場合がある、という話が出て来たけど、まさにそれと同じことだと思う。

ある女流作家で、体の弱い方が、こんなことをおっしゃていたのを聞いたことがあります。
「わたしは、心臓が弱く、いつ発作が起きるかわからないというとても不健康な人間です。
そのわたしが、本当に腹立たしく思うのは、世間の人の会話の中の、健康に関するものです。なんといっても健康第一とか、体が悪くないのが一番の宝とか、元気であることが財産ですとか、そんな会話を聞くたびに、どうして世の中の人は、健康のことばかりいうんだろう、と思うんです。だって、不健康なものにも、人生はあるんですよ。不健康なものの人生にもよろこびはあるんですよ」
http://www.zengyou.net/?p=6021

健康でありたいという願いも、コロナにかかりたくない願いも、それに萎縮したり気落ちしたりしたくない願いも、よくわかるけど、それをスローガンとして「負けるな!」というのは、間違った言葉使いじゃないかしら。多数派率いて奮起するがごとくにスローガンにしてしまうのはいかがなものだろう。少し歩み寄った言い方をすれば、日本中が動揺した4月前後にそういう言葉が出てきたのは仕方ないにしても、ウィズコロナという言葉もある中で、そろそろ表現を変えてもいいんじゃないかと思う。水を差すのは心苦しいんだけど、ひいては、いのちの尊厳にも関わってくる問題だと思うので、物申さずにはおれなくて・・・。

拡大解釈になるけど、詰まるところ、根底には老病死の取扱いに問題があるような気がしている。老いることも、病になることも、死んでいくことにも意味を見出していく仏教とは真逆の考え方で、現代がそこにがっちりフタをして遠ざけてしまったにしても、さらに拍車をかけているような印象でゾッとする。老病死に価値がないなら、使い捨ての道具と同じで、そこには命の尊さなんて微塵もない。

少数派の声だということは自覚してる。でも、そういう多数派の声が少数派を苦しめている現実も知っていただきたく、あえて書き残しておきます。これには、教育現場である学校にも垂れ幕があったのを目にして、子供たちが大人が作った言葉を借りてチョイスしているのは想像に難しくなく、それがあまりにもショックで。そんなスローガンを見ながら子供に育ってほしくない・・・。勝ち負けの世界ではあるけど、それがすべてだとしたらみんな負けに向かってまっしぐらの人生やろ。感受性豊かな子は気付くよ。

このスローガンを掲げてがんばっている人たちには水を差してしまうことになったけど、意図せずとも傷つけてしまう人たちがいることをどうぞご理解下さい。私も言葉を単純化して、知らずに誰かを傷つけていることを持戒しつつ。

笑ったあとに本当の顔が

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


大口あいて笑ってると、笑ってる本人のお人柄が知れちゃって、逆さまに笑われてしまうこともありうるわけですけど、何ていうんでしょ、フフっとか、ホホとか、ニコッとか、そういった、ほほえみ程度の笑いというのは、大切にしたいですよね。

いつだったかなあ、もう20年以上前だったと思うんですけど、劇作家の内村直也さんの講演を聞いたことがありまして、そのときに、最も魅力ある笑い方というのを披露していらっしゃった。それは、どんなのかといいますと、フと笑って、もう一度、フッと笑う。こういうのがなんとも素晴らしいなんておっしゃっていました。

フ・・・フッ あなたもお試しになってはいかがですか?
そう、お試しといえばもう一つ。写真を撮ってもらう時、あなたはどんな顔なさいます?だいたいは、チーズ!ですよね。ところが、近頃はこのチーズではうまくゆかないことが多いんです。なぜって、ほら、VTRなんてのあるでしょ、ずぅっと撮られっ放しということもあるわけです。そんなときにチーズ!というと、まあ、チーのときはいいけれど、ズッのときは、あんまりいい顔になりませんよね。で、最近は、チーズじゃなくて、ウィスキー!というんですって。これならいいですよね。キーと長々とほほえんでいられますものね。

ところで、うちのお寺の日曜学校には、ことばの教室、雪ん子劇団がありまして、ここでは、ことばの体操とか、顔の体操なんてのをやっているんです。で、いつだったか、子供たちに「さあ、みんな、ニッコリ、いい顔で笑ってみよう!」というとそれこそ、みんな思い思いの笑顔を見せてくれたんです。でも、正直いって、あまりいい笑顔がないんです。口に手を当てたり、はにかんでいるだけだったりで。こんなこといったら、しかられるけど、お母さんのコピーなんですよね。子供の笑顔や表情のほとんどは育てるお母さん、たまにお父さん、そして先生の表情そっくりなんです。

で、みんな笑顔がよくないということは、どういうことなんでしょ。いいにくいけど、お母さん、うちであんまり笑ってないんですよね。「早く起きなさい!」からはじまって「いいかげんに寝なさい!」まで、ニコッとか、フフッとか、ホホなんてことめったにないんですよね。そう、お母さんが笑ってるときというのは、近所の奥さんとのおあいそ笑いとか、お客様相手のお上手笑いとか、テレ笑いとか、そんなときしかないんですよね。

ですから、うちの劇団では表情豊かに-と、大いに顔の体操をとり入れて、目も口も鼻もガバッとあけたり、ギュッと閉じたり、唇をとんんがらせたり、ほおをふくらませたり、なんてのをやるんです。そして、写真を撮るときは、ちょっとまぶしそうな顔をして、声をそろえて、ウィスキー!とやるんです。いやほんとに、びっくりするほど、いい顔になりますよ。是非お試し下さいませ。

そして最後にもう一つ。人間の本当の顔は笑っているときの顔ではなくて、笑い終わった時の顔だということも覚えておいて下さい。その人が一番よくあらわれるのは、フフっ、ホホと笑った、その直後の顔なんですって。これはもう飾りようがないんでしょうねー。

「お茶の間説法」(37話分)
>> http://www.zengyou.net/?p=5702

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何を笑ったかで器量がわかる

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


笑いとは突如として起こる相手に対する優越感のあらわれである-というマルセル・パニョル氏のことばは、グサリと私の心を突き刺します。私が何気なく、大口あいて笑ったことが、相手をどれほど傷つけるか、ということを、私はあまり気にしていなかったようであります。

例えば、前回も申しあげたように、私達は自分の健康をよろこんで、ついニッコリ笑うことがあります。ところが、これが、健康な者同士なら問題はないだろうが、病人の前ではやはり考えなくてはならないことでしょう。そういえば、ある女流作家で、体の弱い方が、こんなことをおっしゃていたのを聞いたことがあります。
「わたしは、心臓が弱く、いつ発作が起きるかわからないというとても不健康な人間です。そのわたしが、本当に腹立たしく思うのは、世間の人の会話の中の、健康に関するものです。なんといっても健康第一とか、体が悪くないのが一番の宝とか、元気であることが財産ですとか、そんな会話を聞くたびに、どうして世の中の人は、健康のことばかりいうんだろう、と思うんです。だって、不健康なものにも、人生はあるんですよ。不健康なものの人生にもよろこびはあるんですよ」

ハッとさせられました。本当にその通りだと思いました。それなのに、そんなこと気にもかけず、これまで、どれほど、笑いで人を傷つけてきたことでしょう。考えただけでもゾッとします。で、そんなことが気になり出してから、うちの子供を見ておりますと、長男が理由もなくワンワン泣いているときがある。ケンカもしていないのにどうしてだろう、と聞いてみると、「お姉ちゃんがぼくを見て笑うから」だという。バカバカしいと思ったんですが、じつは、これなんですよね。突っ張ってる相手から笑われただけで、もう泣きの原因は十分に成立するわけなんです。

さて、マルセル氏の説の結論でありますが、彼曰く「何を笑うかによって、その人の人柄がわかる」-。
「仮に、人間的な価値の段階が一から百まであるとして、私が61という価値を自分に与えたとする。すると、27乃至34の価値の人間が不幸な目にあっても私は哄笑する気になれないであろう」-と、彼はいうんです。なぜなら「私は彼らにたいして自分の優越性を証明する必要を感じないし、そんなことはずっと前からわかっていたし、その点に関しては、私はつゆいささかも疑ったことはないからだ」とおっしゃる。そして、反対に12乃至14の連中は、31の人間が失敗したりへましたりすると大喜びするだろうし、42の人間が大失態を演じると、この上もない快感を味わう。だが、61の者にとっては、そんなことは面白くもおかしくもない、というのであります。

だから、笑いというものは、笑い手の尺度に応じたものであることは疑いの余地のないことであって、これを吟味すれば、笑い手の人柄や器量といったものを正確に算出することはいとも簡単なことである、とマルセル氏はのたまうのであります。

さてさて、奥様、どうしましょう。あなたの笑い声は、相手を傷つけると同時に、あなたが何を笑ったかで、あなた自身のお人柄があさましくもバッチリ知れてしまうわけでありまして、ますます、大口あいて笑うわけにはゆかなくなってまいりましたねー。

「お茶の間説法」(37話分)
>> http://www.zengyou.net/?p=5702

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大口あけて、不用意には・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


笑いは健康によろしい、というけれど、ふと、思うに、私達、一体、どうして笑うんだろう?何がおかしくて笑うんだろ?何がうれしくて笑うんだろ?どんなことを笑いのタネにしているんだろう?

じつは笑いについては、お経にはあまり説かれていないんです。おしゃかさまがにこやかに笑われたときは、お弟子の方々が上手な質問をされたときでありまして、ようこそ、ようこそ、弟子達よ、ようこそ良い質問をしてくれた。じつは、そのことに関して、私はいま、話をしたいと思っていたところなのだ-といってほほえまれたぐらいでありまして、それ以外、笑いについては、何を、どう笑うかは説かれていないようなんです。

そこで、他の方に聞いてみなくてはならないわけで、遠くフランスのマルセル・パニョル氏の「笑いについて」という本に聞いてみますと、なんと!笑いとは-
「そう、笑いとは、相手に対する突如として発見された優越感のあらわれである」
ですと。おわかりですか?私達が何をタネに笑うかといえば、相手に対する優越感-「ばっかだなあ」とか「それみたか!」とか「ざまあみろ」とか「わかってないなあ」とかいった気分が、フッとわいたとき、ハハハ、アハハとこみ上げてくるものなんですと。

そういえば「笑いは勝利の歌である」などということばもあるくらいで、とりあえず、相手が失敗したり、自分が相手を超えたと思ったときにこみ上げてくるものなんですね。

で、問題なのは、その「相手」であります。相手というのは、ただの相手ではない、いわゆるライバルなんです。(あいつには負けたくない)(あの野郎にはゼッタイ先を越されたくない)と思っている相手であります。そういえば、こんな相手、たくさんいますよね。(ウチの若いものには負けたくない)(お隣さんには負けたくない)そう思うでしょ。そういう相手が、どういうわけか、ひょいと失敗したりしたら、これはもうおかしくって、うれしくって仕方ないものなんだ。だってそうでしょ。自分の子供が、バナナの皮を踏んでころんだら「ああ、かわいそう」と、思いこそすれ、アハハと笑う親はいないでしょ。ところが、同じバナナの皮でも、突っ張てる相手が、すべってころべば、これはもうおかしくって仕方ない。アハハ、と笑って、ハラの中では(ザマアミヤガレ)ということになっちゃう。笑いってものは、そんなものなんですね。だから、あんまり、大口あいて笑えないんですよね。

例えば、病院のロビーで。「アハハ、なんたって人間、健康第一、おかげで毎日ピンピンしてます」と、笑ってごらん。下手すると、ブンなぐられますよ。ね、だから、もう一度考え直していただきたいの。私がアハハと笑う時その笑いのむこうには、笑われて泣いている人がいるということに気付いていただきたいの。

人間だれしも、二度や三度は他人に笑われたことってあるでしょ。そしてそのときのハラの中は(チクショー、今に見ておれ、いつか、見返して笑ったるから)という気持ちだったでしょう。それなんですよ、この世の中に多くの差別や、争いを生んでいるのは。

おしゃかさまのほほえみは大いにけっこうだけれど、あなたの、私の、不用意な笑いはどれほど相手を傷つけているかということをどうぞ、どうぞ、お忘れなく。

「お茶の間説法」(37話分)
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>>「お茶の間説法」 プレイリスト
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幸せだから、健康だから

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


こだわるようだけど、笑う門には福来るってのは、順序が逆で、福が来たから笑えるんだと思いますね。幸福でもないのに笑っていられるなんてことゼッタイにないんじゃないかしら。

こんなこといったら、うちの近くのおばあちゃんが「そうともいえませんよー」とおっしゃる。「私なんか、戦争で主人失って、5人の子供かかえて、そりゃあもう苦労の連続。何度、死のうかと思ったか知れないけれどそのたびに、いや待て待て、と笑顔をたやさずがんばってきましたよ。幸福なんかどこの国のことか知らないぐらいだったけど、ちゃーんと笑ってましたけどねー」
ホラホラ、おばあちゃん、そりゃ世間から見れば不幸の標本みたいだったかも知れないけれど、あなたが笑顔を絶やさなかったのはやっぱり、それなりに幸福だったからじゃないですか。もし、あなたが笑うことが出来たのなら、それがどんなにドン底であっても幸福のあかしなんですよ。

はき捨てたくなるような人生の中でも、ふと顔がほころぶなら、その瞬間の幸福を味わっておかなくっちゃね。そう「笑いは人の薬」なんて言葉もありますよね。これはどうやら正解みたいで、お医者様も大いに推奨していらっしゃる。笑うとまず血管がやわらかくなって、血圧も下がるんですって。それに、胸の筋肉や心臓の筋肉もやわらげて、内分泌をよくして、若返りの薬にもなるんだって?!ちょっと待った、お医者さまの受け売りしてたら、若返りなんてことばが出てきちゃった。こりゃ、お坊さんのいうことじゃない。だって若返るなんてことは、因果の通りに反することで、ゼッタイにありえないことだものね。年は年なりにとってゆく、生老病死なんですから、生まれて生きて、年とって、病気して、死んでゆく。これを逆さまにして、年がだんだん若くなるなんてことがあったら、世の中ひっくり返っちゃう。

そうそう、そういえば不老長寿の薬なんてのもあるけど、あれもいけない。不老はないでしょ。生から老なんだから、老いないなんていったら誇大広告といわれたって仕方ないよね。

エー、で、話をもとにもどして、とにかく笑うというのは、健康にいいそうでありまして、消化、吸収、排せつもよくなるから、笑いはどんなビタミン剤よりも効きめのたしかな保健薬だ、などといわれています。そんなわけで、落語や漫才は、その笑いの保健薬の注射をしてくれるようなものですから、たまには寄席に足を運んだり、うちのお寺へきたり、永さんがナントカアメの広告でやってるお寺へ出向いたりして、大いに笑ってみるのもいいと思いますね。

しかし、どうなんだろう。これもやっぱり順序通りじゃないみたい。先日の若手落語会で、扇好さんがいってました。
エー、こないだはある老人センターのお呼びで一席うかがったんですが、トンと反応がない。こりゃ、芸が未熟だからかと反省してましたら、そこのお世話方「気にしない気にしない。半分は聞こえてなかったんだ」じゃあ、あとの半分はって聞くと「もう笑う気力もない」-ここでみんなは大笑い、となったんだけど、笑いは保健薬なんてのも、どうやら逆で、健康だから笑っていられる。そのうち笑いも出来なくなる時がくるって・・・ことなんでしょうなー。

「お茶の間説法」(37話分)
>> http://www.zengyou.net/?p=5702

>>「お茶の間説法」 プレイリスト
>>「続・お茶の間説法」 プレイリスト

3ヵ月ぶりのほっこり法座

3ヵ月ぶりに定例法座の「ほっこり法座」がつとまりました。
この3カ月の間にネット中継を試みたり、法話CDを参加者へ送ったりと、コロナ禍にも仏様のご縁をつなげるようにつとめてきましたが、やはり実際に本堂へ来ていただいて、声を掛け合い、ご一緒に仏様に手を合わせることは、とても得難いことだということをしみじみと感じました。参加者からも「ステイホーム以来初めてのお寺参り」「やっぱり本堂ですね!」 など、喜びの声を多数いただき嬉しい限りです。また、改めて善巧寺の本堂の大きさが役に立ちました。正直、維持管理のことや冬の寒さを考えると、持て余す大きさなのですが、おひとり机付きで畳2枚分ほどのスペースに30名ほどが余裕をもって配置できました。

ご講師は高岡・善興寺の飛鳥寛静先生。表情が伝わるように透明マスクを付けていただきました。参拝者も全員マスク着用のため、表情が見えずとても話しにくい環境だったと思いますが、今年ご往生された先代住職のこと、コロナによってあきらかになったこと、仏様は何を問うているかを聞かせていただきました。

食事は花まつり等でもお世話になっている宇奈月の雑貨&軽食店「HOLO家」さんに、テイクアウトもできる「精進おこわ弁当」を提供していただきました。ほんのり効いたスパイスが食欲をかきたて、宇奈月で採ってきたという山菜などとても美味しく頂きました。

今回ネット中継は行いませんでしたが、法話の映像を記録しましたのでどうぞご視聴下さい。少し抜粋編集しています。次回のほっこり法座は8月1日の予定です。