住職コラム」カテゴリーアーカイブ

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インターネット用語の「シェア」という言葉がよく使われるようになりました。みんなで共有するという意味で使われ、言葉や思想や写真や映像など、ひとりで独占せずに与えたり与えられたりする考え方です。これは今さら英語であらわすまでもなく、みなさんが日常的に行っていることで、生活の中での智恵を教えあったり野菜のお裾分けなどもそれにあたるでしょう。

仏教では「布施(ふせ)」や「喜捨(きしゃ)」という言葉があり、見返りを求めずに相手に与えることです。喜んで捨てるとまではとても言えませんが、人に何かを与えて喜んでくれた時はとてもしあわせな気持ちになります。

最近、外から声をかけてもらう機会が増えました。ありがたいことに、これまでの経験を評価してくださる方がいて、いくつかの企画や運営に関わっています。本願寺富山別院では宗教者の釈徹宗先生と各分野のスペシャリストによる対談企画「ゆるふか対談」のお手伝いをしています。宇奈月温泉の文化施設「セレネ」でも音楽イベントを企画することになりました。ほっこり法座も評価してくれる方がいて、その詳細をインタビューしてもらいました。これまで自分がやってきたことを活かしてそのノウハウをシェアしていくことにとてもやりがいを感じています。

どこまでいっても自尊心の塊ではありますが、与えられた場を大切に過ごしていきたいです。善巧寺にもその循環が生まれるようにつとめます。

雪山俊隆(寺報181号より)
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つながり

昨年は怒涛の一年でした。令和三年豪雪と名付けられるほどの大雪から新しい年が始まったことが遠い昔のように感じます。二年目のコロナ禍、お講の食事当番は休止したままとなりましたが、お参りだけは止めてはならぬと月二回の全回執り行うことができました。永代祠堂会や報恩講の年中行事も縮小しながら行い、花まつりマルシェや民藝の展覧会もなんとか開催することができました。いずれも、一回一回の緊張感がとても高く、慣例で行っていた時の何十倍もの労力を感じています。その分、行事の意義を改めて問い直す機縁になりました。

交流の場が激減したことは、主催側からすると、人との距離感が広がってしまう恐れを感じますが、一方で時間的な余裕が生まれました。コロナ以前は、考えることなく慣例で行っていたことを、「これってホントに必要なのか?」という問いがあらゆる場面で生じたのではないでしょうか。人と人の繋がりというのは不思議なもので、会話の中身とは別に、一緒に時を過ごした時間が少しずつ関係性を深めていく場合があります。言葉によるコミュニケーションはひとつの要素にしか過ぎず、じつはそれ以外の要素が大きなウェイトをしめていることを改めて実感しています。

仏教では、「言葉は月をさす指」と言います。指を見て欲しいわけではなく、指がさす方向を見て欲しいということです。言葉の先には何があるのか。本質が問われています。

雪山俊隆(寺報180号より)
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「私たちのちかい」に寄せて

浄土真宗本願寺派では、2018年11月23日、本願寺の秋の法要でのご門主ご親教において「私たちのちかい」というタイトルの言葉が示され、以来、本願寺関連施設や宗門学校などで唱和されています。全国の各教区や各組、各寺院でも唱和が推奨されました。その言葉や唱和推奨というアクションに関して、一部の若手僧侶の間では疑問の声があがり、私もその想いを2年前にFacebookにて記しました。改めてここに再掲します。

一、 仏の子は、すなおにみ教えをききます。
一、 仏の子は、かならず約束をまもります。
一、 仏の子は、いつも本当のことをいいます。
一、 仏の子は、にこにこ仕事をいたします。
一、 仏の子は、やさしい心を忘れません。

この言葉は、お寺の子供会「日曜学校」で推奨されている「ちかいのことば」で、善巧寺では年に数回の子供会で唱和していた。高学年になるとこれを読むのがとても嫌だった記憶がある。いつからか、「ひとつ、仏の子は、いつも本当のことを言いません!」と言い換えて友だちと顔を合わせて笑っていた。みんなで真面目に唱和することへの反抗心か、そう出来ない自分を突き付けられることへの反発だったのか。

先日、本願寺より新しい言葉「私たちのちかい」が発表された。冒頭に添えられた言葉には、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが…」とあるので、阿弥陀如来のお心をいただいている人限定のお言葉と受け取れるが、文末には、「中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただきたい」とあるので、ピンポイントに絞って作成した言葉を、多くの人に触れてもらいたいという願いがあるようだ。これをもって、浄土真宗とはこういう指針を持った教えですよということを伝えたいのかもしれない。ここにその言葉を紹介する。

「私たちのちかい」
一、自分の殻に閉じこもることなく、穏やかな顔と優しい言葉を大切ににます、微笑み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず、しなやかな心と振る舞いを心がけます、心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく、人と喜びや悲しみを分かち合います、慈悲に満ち満ちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき、日々に精一杯つとめます、人びとの救いに尽くす仏さまのように

中学生から大学生までに触れて欲しいというだけに、子供バージョンよりもかなり難易度があがっている印象だ。冒頭の「自分の殻に閉じこもることなく」という言葉で、自分の殻に閉じこもる私を突き付けられ、続けて、すぐに眉間にしわが入り、人をののしる私の姿があらわになる。一つ目の誓いからかなりハードルが高く、子供バージョンよりも、より具体的にそう出来ない自分を意図的に知らせている印象を受けた。子供の頃を思い出し、さっそく、言い換えの遊びをやってみた。

「本当のわたし」
一、 自分の殻に閉じこもり、眉間にしわを寄せて、人をののしり、そんなどうにもならない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 むさぼり、いかり、おろかさに流され、しなやかな心と振る舞いを持てない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 自分だけを大事にしてしまい、人と喜びや悲しみを分かち合えない私を、慈悲に満ちた仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 生かされているとは思えず、日々に苦しむ私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。

不思議なことに、反対に読んでみると阿弥陀如来の大きな慈悲の心が浮き彫りになり、浄土真宗の特長のひとつを端的にあらわしているように感じた。なるほど、これはもしかすると、こう読むべきものとして作成されたのかもしれないと思うほど。ただ、原文は、子供バーションとは比較出来ないほどに自分を突き付けられて「ダメな自分」という見方を与えてしまう可能性がある。元気な人向けの言葉で、苦しむ私を置き去りにされた気分になる。しかも、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たち」が主語になるので、様々な人が集まる場で唱和するには無理があると言わざる得ない。

奇しくも、本願寺では「若者の生きづらさ」に焦点をあてた研修会を開いたり、「寄り添う」という言葉を多用して、困っている人たちへ手を差し伸べていくことを推奨している。今まさに闇の真っただ中にいて、自分の殻に閉じこもらざる得ない人たちへは、この言葉はとても厳しい。やもすると、上司から部下への強すぎる指導のように受け取ってしまうかもしれない。あるいは、数多くある「ちかいのことば」と同様に、風景が流れていくのように言葉も流れていくのだろうか。

学校にも、会社にも、市町村にも、世の中には形骸化された理想や指針があふれている。おそらく、多数がひとつの方向を向いていた時代には有効なものだったのかもしれないが、声をあげられず置き去りになった人たちへ少しでも目を向けようとしているのが「いま」だと思う。本願寺も同様に、把握出来ないほどの「ちかいのことば」があるが、多様化という言葉が定着して、苦しんでいる人たちへの眼差しが重要視されつつある現代で、これらの言葉は「生きた言葉」になり得るのだろうか。時代に合わせる意図があるのならば、今だからこそ、「道徳」の先にある「どうにもならない私」に向けた救いの言葉を届けてほしいと切に願う。

雪山俊隆

<私たちのちかい関連サイト>
・浄土真宗本願寺派公式サイト
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_000322.html
・お西さん(本願寺公式サイト)
https://www.hongwanji.kyoto/know/chikai.html

健康第二

私事ですが、40半ばを過ぎてから体の代謝が非常に悪くなり、気付けばお腹まわりにはたっぷりと脂肪をかかえ、ピーク時には76キロに達しました。靴下を履く時お腹につかえて倒れそうになるほどの状態です。もちろん正座にも影響します。これではいかんと、子供の夏休みに合わせて一念発起しダイエット生活が始まりました。食後のウォーキングで村の人とすれ違うのは今でも少し気恥しいのですが、2ヵ月を経ておよそ12キロ減量しました。今のところ病気ではありませんのでご心配なく。短期の減量はリバウンドの危険性も高く多くの方に忠告を受けましたが、長期計画できるほどの自信がないため、短期決戦に挑んだ次第です。

さて、一応の成果を出せたので、改めて健康は第二であることを申し上げます。というのも、これは闘病中の父がよく言っていたことで、「健康第一」という言葉には気を付けろと。たしかに病院でそれを言ったらどうなるでしょう。また、我々は老病死を避けられない身。健康であることはとてもありがたいことではありますが、不健康な者にも人生はあります。いずれ私も不健康になります。

みなさんは人生において何が第一でしょうか?私は仏法第一です。根源的な私の救いはそこにしかありません。阿弥陀さまは常に我を照らしたもうなり。老いる時も、病を患う時も、死にゆく時も、一時も離れず私を包み込んでくれます。健康の有無を問わず光を当ててくれる阿弥陀さまに帰依します。

雪山俊隆(寺報179号)

真ん中

善巧寺のイメージ図を書いてみました。ご覧のように、中心にはお寺の要になる法要が位置し、それに並んでご門徒方の葬儀や法事、年に1度のほんこさま、そして、月2回のお講・ほっこり法座があります。また、善巧寺の枠をはみ出している活動が多くありますが、地域や有縁の方たちともご縁を結びお寺を支えていく大事な活動です。他に課外活動としては、黒西組や黒部市仏教団など、お寺さん方との繋がりや、住職個人としては、黒部市教育委員会や宇奈月セレネ美術館の運営委員として地域との繋がり、本願寺や真宗教団連合の活動など仏教組織との繋がりがあります。

みなさまはどこにご縁がありますか?葬儀と法事以外に用はないという方もおられるかもしれません。花まつりなどの楽しい行事に興味を持つ方もいれば、仏教講座だけ受けたいという方もおられます。近年は天井画をご縁に参拝者も増えました。それぞれの入口で善巧寺とご縁が生まれていますが、関心の有無にかかわらず、どなたにも忘れてもらいたくないのは中心は仏さまです。真ん中に永代祠堂会や報恩講の法要があります。

「おつとめ」とは「つとめて」行うものなのでラクではありませんが、何よりも大事な行いです。ここが崩れると、お寺全体が不安定になり存在意義を失ってしまいます。みなさまの祖父母、父母、夫や妻、我が子の命日をご縁に「永代祠堂会」がつとまります。ど真ん中の法要へ、どうぞつとめてお参りくださいますよう、お願い申し上げます。

雪山俊隆

頼る力

小学校の卒業式で祝辞を述べました。これから人間関係を築いていくこどもたちに伝えたいことを考え、小児科医の熊谷晋一郎さんの言葉を紹介しました。一部紹介させてもらいます。

自立して生きるというのは、誰にも頼らず、ただひとりで生きていくことのように思われがちですが、本当はそうではなくて、たくさんの依存先をもつことだと熊谷さんは言います。

私たちは、あまりにもたくさんのものに依存しているから、何にも依存していないと錯覚してしまいますが、じつは、あらゆるものに支えられて生きています。熊谷さんが親なしで生活できるように独り暮らしをはじめたのも、親からの自立ではなくて、親以外にも依存先を増やしていくことだったのです。

みなさんはこれからもいろんな経験をしていきます。まわりが見えなくなるぐらい何かに熱中したり、誰かを大好きになったり、それはとてもステキなことですが、依存先がひとつに偏ると、とても危ない時があるので気を付けて下さい。苦しくなった時は、誰かに助けを求めてください。苦しいということを、誰かに伝えてください。人に頼れるようになってください。ここに仲間がいます。ここにいる大人も、みんなの応援団です。きっとわかってくれる人がいます。そして、自分に少しの余裕がある時は、困っている人に手を差し伸べられる心をもちましょう。そんな人を私は尊敬します。

「自立とは、依存先を増やすこと。希望とは、絶望を分かち合うこと」

雪山俊隆(寺報177号)

居場所

善巧寺の本堂は明治14年に建立されました。当時はコレラが蔓延していて、明治12年には富山県だけで1万人以上の死者が出たという記録があります。その年の過去帖を見ると、8月だけで100人以上のお名前が記されていました。コレラは江戸末期から数10年にわたって続き、明治19年にも再び県内で1万人以上の方が亡くなっています。

そんな過酷な状況の中で、現在の本堂は建立されました。しかも、それまでの本堂では手狭ということで、ひと回り大きなサイズになりました。まわりで人がバタバタと亡くなっていく最中、200~300人の収容が想定されていたことに驚きを隠せません。現在とは社会状況が大きく違うので比較にはなりませんが、今回のコロナウィルス騒動でも、改めてお寺の存在意義が問われ、見つめ直す機会になりました。

7年前の大法要では「みんなのお寺 わたしのお寺」というスローガンを掲げました。ひと昔前の方たちは、嫁いですぐに「お寺へ参りなさい」と有無を言わさず足を運ぶことになり、そこでコミュニティに入り、仏さまの教えに触れ、50年以上通い続けた方たちがおられます。長い年月を経て、いつしか第二の家としてお寺が居場所となりました。昨今、「居場所」という言葉をよく耳にしますが、即席で叶うものではなく、じっくりと腰を据えて苦楽を共にした中で生まれるものでしょう。価値観の変化に適応しつつも、大事なところを踏み外さずに歩んでいきたいです。

雪山俊隆

ほんこさま

親鸞聖人のご法事「ほんこさま」のお参りが9月からスタートしました。かれこれ20年以上お参りさせていただいていますが、毎年新たな発見があります。

先日お参りしたお宅では、年季の入った太い柱や梁が特徴的で、聞くと明治5年に建てられたそうです。善巧寺の現在の本堂は明治14年に建立しているので、それより10年近く古いことに驚きました。150年という歴史は、一代を25年に換算すると6代にわたります。何度も修復を重ねながら、どれほど大切にしてこられたことでしょうか。「家」を代々守るという価値観が薄れた昨今、その貴重さが際立って見えました。

お寺で行う報恩講は、10月18日から20日まで3日間つとめます。今年は、出来るだけ密集を避けるために、地域分散型で行います。例年と違い戸惑われる方もおられると思いますが、どうぞご自分の地域の指定日を目安にお参りくださるようお願い申し上げます。また、境内にたたずむ親鸞聖人像にお花をお供えするコーナーを設けますので、庭のお花や野花など、お参りの際に一輪お持ちいただけないでしょうか。一輪が百人分集まれば、とてもキレイなお供えになります。外出を控えておられる方も、ぜひお花のお供えにご参加してくださるとありがたいです。親鸞聖人は759回忌を迎えます。長い歴史の中でさまざまな変遷を経て今に至る聖人のご法事。どうぞ手を合わすご縁を大事にお過ごし下さい。

雪山俊隆

「コロナに負けるな」という言葉への違和感

「コロナに負けるな」という言葉に違和感がある。言わんとするところはわかっているつもりで、「厳しい状況だけどみんなで力を合わせてがんばろう!」とか、学校なら、「手洗い検温を忘れずに気を付けよう!」とか、とにかく「気落ちせずにみんなでがんばっていこう!」ということを、まるっとまとめて「コロナに負けるな!」と言っているんだろうけど、そもそも、勝ち負けに単純化して現している点が腑に落ちない。

負けるな、って何だろう?
コロナにかかったら負けなのか?
コロナ感染者の人がその垂れ幕を見たらどう思うんだろう・・・。

前回の一口法話にも、健康第一という言葉が不健康な人を傷付けている場合がある、という話が出て来たけど、まさにそれと同じことだと思う。

ある女流作家で、体の弱い方が、こんなことをおっしゃていたのを聞いたことがあります。
「わたしは、心臓が弱く、いつ発作が起きるかわからないというとても不健康な人間です。そのわたしが、本当に腹立たしく思うのは、世間の人の会話の中の、健康に関するものです。なんといっても健康第一とか、体が悪くないのが一番の宝とか、元気であることが財産ですとか、そんな会話を聞くたびに、どうして世の中の人は、健康のことばかりいうんだろう、と思うんです。だって、不健康なものにも、人生はあるんですよ。不健康なものの人生にもよろこびはあるんですよ」

https://www.zengyou.net/?p=6021

健康でありたいという願いも、コロナにかかりたくない願いも、それに萎縮したり気落ちしたりしたくない願いも、よくわかるけど、それをスローガンとして「負けるな!」というのは、間違った言葉使いじゃないかしら。多数派率いて奮起するがごとくにスローガンにしてしまうのはいかがなものだろう。少し歩み寄った言い方をすれば、日本中が動揺した4月前後にそういう言葉が出てきたのは仕方ないにしても、ウィズコロナという言葉もある中で、そろそろ表現を変えてもいいんじゃないかと思う。水を差すのは心苦しいんだけど、ひいては、いのちの尊厳にも関わってくる問題だと思うので、物申さずにはおれなくて・・・。

拡大解釈になるけど、詰まるところ、根底には老病死の取扱いに問題があるような気がしている。老いることも、病になることも、死んでいくことにも意味を見出していく仏教とは真逆の考え方で、現代がそこにがっちりフタをして遠ざけてしまったにしても、さらに拍車をかけているような印象でゾッとする。老病死に価値がないなら、使い捨ての道具と同じで、そこには命の尊さなんて微塵もない。

少数派の声だということは自覚してる。でも、そういう多数派の声が少数派を苦しめている現実も知っていただきたく、あえて書き残しておきます。これには、教育現場である学校にも垂れ幕があったのを目にして、子供たちが大人が作った言葉を借りてチョイスしているのは想像に難しくなく、それがあまりにもショックで。そんなスローガンを見ながら子供に育ってほしくない・・・。勝ち負けの世界ではあるけど、それがすべてだとしたらみんな負けに向かってまっしぐらの人生やろ。感受性豊かな子は気付くよ。

このスローガンを掲げてがんばっている人たちには水を差してしまうことになったけど、意図せずとも傷つけてしまう人たちがいることをどうぞご理解下さい。私も言葉を単純化して、知らずに誰かを傷つけていることを持戒しつつ。

ウィルスの次にやってくるもの

善巧寺では、3月16日からほっこり法座(お講)を休止し、花まつりや清掃奉仕も中止の運びとなりました。寺報4月号も先の見通しが立たないため、必要最小限のこのような案内になりました。先が見えない状況に翻弄されていますが、よくよく考えると、経典にあるように、コロナ以前から私たちには明日の保証がありません。それを幻想を描くようにあるものとして生活していたことを実感させられます。

不安や恐怖は、他人への怒りや憎しみに変貌することがあります。他人事ではなく、くれぐれも攻撃的、あるいは自虐的にならぬように気を付けたいものです。静かに手を合わせる生活に立ち返りましょう。 (寺報号外より)


こちらは日本赤十字社が公開した動画です。とても大事なメッセージなのでどうぞご覧ください。お互いに気を付けましょう。