住職コラム」カテゴリーアーカイブ

いただきもの

今年は祖母喜子の三回忌と父隆弘の十七回忌の年です。お坊さんをしていると他の方よりも圧倒的に法事経験は多いのですが、やはり身内の法事になると、一味違う心持ちにさせられます。

病中も力強く生き抜き、最後までプライドを護り続けた祖母。病中も楽しくと痛みに苦しみながらも活き活きと生き抜いた父。共にぼくの心に深く刻まれる生き様と死に様でした。
「法事とは、仏前にて阿弥陀如来の教えに触れながら、故人を偲びつつ、感謝のこころをカタチとして表現したものです。」
「ありがとう」のこころをカタチにあらわした姿。今、ぼくは祖母と父になにが出来るのだろうということに想いを馳せます。

何人もの患者の死を看取ってきたある医者がこんなことを言われたそうです。
「今までは他人が死ぬぞと思いしに、俺が死ぬとはこいつはたまらん」
死は必然、生が偶然とは頭で知りながらも、やはり実感はなかなか持てるものではありません。ぼくが祖母と父に出来ること。それは今までもらったものに対しての感謝と懺悔。これからももらい続けるものに対しての感謝と懺悔。そしてその「ありがとう」と「ごめんなさい」の心こそが祖母や父からの頂きものでした。祖母と父を通して、仏さまの光に想いを馳せつつ、悔いのない人生を歩めるよう、心新たにさせてもらいます。

永代経はご門徒みなさまの法事がお寺で勤まる法要です。どうぞどうぞお参りください。

雪山俊隆(寺報120号)

もったいない

去年から「もったいない」という言葉が再評価されているようです。調べてみると、ケニア出身の環境保護活動家ワンガリ・マータイさんという方がキッカケのようです。この方は、去年日本を訪問したときに、「もったいない」という言葉を初めて聞いて、この精神こそ環境問題を考えるのにふさわしいと、痛く感動されたようです。その後、世界へこの言葉を広めるために出版までされました。ここでは、もったいない、という言葉は、そのままの発音で英語表記されています。どうやら、それに当てはまる言葉が外国にはないようですね。その後も、さだまさしさんが「もったいない」という曲を書いたり、今年の冬季オリンピックでは小池環境大臣が「もったいないふろしき」というものをデザインして、代表選手たちに渡したそうです。

この「もったいない」という言葉の意味は、「もったい」という言葉があって、「重々しさ」、「威厳さ」などの価値の高さをあらわす意味で、それが転じて、自分にとって物の方が価値が高い場合に、自分にとってはふさわしくないとか、かたじけないという意味に使われたそうです。では、今はどんな使われ方をしているかというと、ごはんを残したり、資源を無駄にしていることに対して、もったいないと使います。もちろんそれはその通りなんですが、本来の意味からいうと、損とか得という話よりも先に、ごはん一粒一粒にもいのちがあって、それを頂いているということが、ありがたく喜ばしいことで、もったいないことなんだ、ということです。

身近に接しているおばあちゃんたちも「もったいない」とか「ありがたい」という言葉を昔から使っていますが、そこには「申し訳ない」とか「めったにない」という意味があります。「ありがたい」という言葉もあることが難しい「有り得ない」という意味です。有り得ないことが私に与えられていることに対して、感謝と喜びをあらわす言葉でした。そう考えると、ぼくらは、お金を払った時点でなんでも我が物のように受け取ってしまいますが、そういう次元の話ではないんですね。米一粒にもいのちがある。そのいのちにも、いろんな力や働きが加わって、今、たまたま、私たちの目の前にある。そのいのちをもらって、やっと生きていられるのが私たち、ということでしょうか。いただきますは、いのちを頂きますということでした。

なんか道徳のような時間になってしまいましたが、そんことを言いながらも、実際のところは、そんな気持ちはなかなか持てないもんですよね。おなかいっぱいになればご飯を残すことだってあるし、とても、お米一粒にいのちがあるなんて、思えたためしがありません。でも、だからこそ、そういうものだということを知る必要があるのかもしれません。環境問題なんて言うと、とても立派に聞こえますが、まずは、身近にいるおじいちゃんやおばあちゃんに、耳を傾けるところからスタートじゃないかな、と思っています。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

人間の死亡率

テレビを付けると「人間の死亡率100%」と見出しがあって、誰かが話している。NHKではなく民法で、バラエティ番組のよう。話し手は解剖学者の養老猛さん。氏が言うには、現代は「死」を隠し過ぎたと。もともと生と死は切り離すことは不可能なもの。それが今は、死を遠ざけ、生だけに偏るようになった。その原因の一つとしてここであげられていたのは、土葬から火葬に変わり、その同時期にあるものが全国に普及したと。ひと昔前は、人が死を迎えると土に返す土葬が主流だったが、法律が変わり、火葬が当たり前の時代へとなった。そしてその同時期に、水洗便所が全国に普及した。人間にとってマイナスイメージのもの、「死」や「排泄物」を隠す時代へ。確かにその流れは強くある。お年寄りや障害者は施設へ、病院で死を迎えるのは当たり前、最近では、お墓も外観を乱すとかなんとかで、自分の土地へ勝手に作ることすら許されない。見事に老病死をスミへ追いやった。でももしそれが本当にマイナスなら、すべての人間はマイナス、最悪の方向へ向かっていることになる。養老氏は、今こそ「死」を見直そう云々ということで、そこに出したのが樹脂でミイラ化された人間の標本。タレントさんたちが感嘆の声をあげながら見ていた。所要があったので、ここまでしか見れなかったが、全体の感想としては、民法のしかもバラエティ番組でこんな重いテーマをあげたことは、評価されるものかもしれないけど、いかんせんテレビ。やたら薄っぺらく見えるのはなんでだろう。おそらく、養老氏も他に言いたいことは山ほどあるだろうし、現場ではもっと話しているだろうが、それを超コンパクトにわかりやすくまとめあげるテレビ。そして、さらにわかりやすくするため、テロップでいちいち話していることを強調し、効果音や照明で演出、感嘆の声や笑いなどを足していて、こちらに考える余地を与えず、ここで驚け!ここで笑え!という感情操作。マスコミ出身の父からテレビの言うことは99.9パーセント嘘だと思え、と育てられたぼくだけが感じることではないと思う。

批判出来るほど教養も知識もないし、薄っぺらさでは負けていないので、多くは言えないけど、「死」という大きな問題を取り上げながら、それが随分と軽く写る様子は、なんとも切ない気持ちになった。とは言っても、死をあまり重く考え過ぎると、余計に考えないようになるかもしれないので、こういうのも一つなのかもしれないとも思う。

ガンの死亡率何パーセント、肺炎の死亡率何パーセントといくらいったところで、

「人間の死亡率は100%」

これは父の口ぐせだった。蓮如上人という方も、御文章というお手紙で「後生の一大事」を何度もくり返し言われている。後生とは、いのち終えた後の行き先。帰り処を聞くことこそが人生の最大の一大事だと言われる。帰る家をもつことで、今安心して歩くことが出来る。

だれもが楽しく可笑しく人生を過したいと願うが、絶対に訪れる老病死。お金も名誉も健康もボケ防止も一発で吹っ飛ばす老病死。

仏教を説かれた釈尊は、もと一国の王子だった。体にも頭脳にも恵まれ、欲しいものは何でも与えられ、何不自由なく育った王子も、老病死の隠された世界で育った。そしてある時、老病死をまのあたりにし出家したと伝えられる。釈尊と比較するのはあまりにもおこがましい話だが、ぼくら現代人も状況は似ているのかもしれない。恵まれた状況にありつつも、欲望の無限ループの中、満たされない想い。ここに疑問を持つか持たないかで、大きく人生は変わるのかもしれない。

(2005年のブログより)

宗教について

年末年始は宗教行事が続きます。まずは、クリスマス。それからお寺で除夜の鐘、神社参り。この三つを一週間の間に全部参加するというのは、日本の他にはないと思います。今回は、せっかくなので、信仰ということについて少しお話させてもらいます。

宗教とか、信仰というと、みなさんはどんなイメージを持っているのでしょうか。なんか怪しくて、ダークなイメージですか?身近に感じられない人も多いと思います。でも、じつは身の回りにたくさん溢れているんですね。例えば音楽。海外のミュージシャンの中には信仰を歌った歌が多くあります。もともと、音楽、歌で表現するというのは、宗教からはじまったものがたくさんありました。ゴスペルというのは、キリスト教から生まれたものです。レゲエ、あれはジャマイカのラスタファリズムという信仰から生まれたものでした。テレビを見ていても、いろんなものが見えてきますね。イスラムの方が礼拝している姿。オリンピック選手が大地にひざまずいて十字を切る姿。もっと身近なところでは、家でばあちゃんが仏壇に手を合わす姿。それぞれに対象は違いますが、自分を超えたはたらきへの感謝をあらわします。ありがとう、の想いをカタチにしたものですね。カタチは心を育てます。

今は、科学的なものの見方と、お金で世の中がまわっていますから、「自分を超えた存在」なんていうと、なんじゃそりゃ?と思う人も多いと思いますが、これもちょっと考えてみれば、目には見えないはたらきって無数にありますね。たとえば、空気。空気がなければぼくらは生きていけません。太陽も地球も、水も生き物もそうですね。ぼくらは毎日生き物のいのちをもらいながら生きていて、そのおかげで体の機能も働いています。体の中も自分で動かしているわけじゃないですね。心臓をイチニイチニと動かしている人はいません。最も今はペースメーカーってのがあって、化学技術の力も入っていますが、でも全体からみればほんの一部でしょう。体のひとつひとつの細胞も、生まれては死んで生まれては死んでと繰り返しているそうです。でも、そういうことにぼくらは意識せず毎日を過しています。こういうものへの感謝、必要ないでしょうか。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

アイデンティティ

自分も含め僧侶や寺の年輩常連者が卑屈になっているように思う。
それは具体的には、参拝者数の激減を目の当たりにしてきたこと、イコール世の中から求められていない、と受け取ることが大きな要因だと思う。また、むかしは僧侶が大切に扱かわれていたけど、それもなくなり、むしろ、偽善者扱いされているように受け取っているのではないだろうか。

ぼくは幸いに、仏教に興味を持つ友人たちに出会えた。寺の息子ということでおもしろがられたり、そこからいろいろな人脈も生まれた。ひと昔前なら、仏教に興味を持つ者は「ちょっと変わった人」扱いだったのだろう。それは今で言う個性的というものではなく、白い目で見られるただの変人扱い。その目は今でも確実にあり、信仰者にとって日本はとても不自由な国だといつも感じる。でも、ぼくらの世代あたりから、その「ちょっと変わった人」の数が徐々に増えはじめたように思う。アメリカナイズされ、均一化されていく世の中に嫌気をさして、多くの人が個性やアイデンティティを求めるようになった。また、アイデンティティが限りなく薄くなった国で、それが更に進んでいることにも気付いた。バックパッカー、表現に目覚める者、ニート、自傷、現代にある様々な問題、すべてその影響下にあるように思えてくる。そんな中、自ずと日本人の根底に強く影響する仏教に興味を持つ者も増えてくる。それは少数派かもしれないが、すでに多数派という価値観すら薄れている世の中。

自分に自信がないのは本人の問題だが、仏教への自信は絶対に必要。
自分たちが触れているものがどれほど大きなことかということを、ちゃんと認識さえしていれば、自ずと自分が歩む道にも誇りが生まれるはずだ。それを、うつりゆく世間の物差しで換算するからおかしくなる。

親鸞聖人が言うところの「非僧非俗」(僧でもなく俗人でもない)とは、俗に生きながら俗に染まりきることなく生きる道。聖を聞かず俗に沈みきった時、それは非僧有俗。
念仏者は、修行して悟りを開こうとする「聖」の道は歩んでいない。肉を食らい色にうつつを抜かしながら「俗」の真っ只中に生きている。しかし、そういう俗のままにしか生きられぬ者を救いとろうという「聖」(阿弥陀仏)の言葉を聞きながら生きることに光がある。
「聖」を俗化するのではなく、「俗」を聖化していくのが、浄土真宗の教えだと聞いている。なんともスリリングな道だと思う。そして、それはすべての人が歩める道であった。

(2005年のブログより)

親の手の中で

あるご門徒さんの3回忌のご法事で、故人の奥さんがこんなことを言われた。

「主人が亡くなって丸2年。ようやく主人と話せるようになりました」

生きている間は話さなかったのだろうか?とはじめは何を言っているのかよくわからなかったが、しばらくしてから自分にも思い当たるフシがあることに気付く。ぼくは生前の父とは目も合わせられない関係だった。まともに父親の顔を見たことがない。いつもチラッと見るぐらいで、それは単純に怖かったのと、自分にいつもなにか後ろめたい気持ちがあったのだろう。そんな関係のまま、ぼくが高校2年の時、父は往生した。

母親は特に想いが強くて、父が亡くなった後、家中に写真が飾られた。顔を洗っていても、食事をしていても、トイレへ行っても、そこにはいつも父がいた。「ようやく主人と話せるようになりました」と言ったご門徒さんのように、ぼくも父が亡くなってからやっと父と向かい合えることができたのかというと、そうではなかった。亡くなってからも、父の写真をまともに見ることができない。ずっと避けて生きてきた。

10年以上たって、今ようやく素直な気持ちで父と向い合うことができるようになった。生きている間に、生きた言葉を交わして心通わすのがいいに決まってはいるけれども、そうはできないことだってある。そういう者にとって法事という節目の中で、今一度故人と向い合う場所を与えられるというのは、とても大切なことだと感じる。

自分で自分を見つめるだけでは、自分のモノサシから抜け出すことはないが、対者を持ってはじめて自分自身が映し出されてくる。信仰も、仏さまという親を持つことだと受け取る。親を持つということは、一面には厳しい生き方でもあり、親に対して自分はどうなのか、今の生き方は親に背を向けてはいないか、とその都度自分を照らし合わせられる。ラクではない。でも、その根底には、親に包まれた自分があり、親の手の中にいるという大きな安心が与えられる。人生順調にいっているときには、「親なんて必要ない」とわずらわしいぐらいに思っていても、いざ壁にぶち当たったとき、前へ進むことができなくなったとき、これほどの安心はない。

ナモアミダブツは親の名だ。親を親とも思わず生きてしまうようなぼくに対して、常に包み込んでいてくれる。そのままでいいよ、とぼくの全存在を肯定してくれる。ぼくがぼくであることを認めてくれる。そして、「そのままでいい」は「このままではいけない」という力になる。ナモアミダブツ。生きることはつらいことのほうが多いかもしれないけど、そんな働きに遇わせてもらっているぼくはしあわせだ。

(仏教冊子「御堂さん」2005年11月号より)

ありがとう

うちはお寺ですが、最近、報恩講(ほうおんこう)という行事があったので、バタバタしておりました。この報恩講というのは、恩に報いると書いて、宗祖に対して感謝する行事のことです。シンプルに言うと、ありがとうの日ですね。

ありがとうって言葉を、いつ使っているか考えてみると、ほとんどがモノもらった時ぐらいでしょうか。恩というのは、大きければ大きいほど、見えにくいようで、また、こっちから求めて与えられたものじゃなく、求められるより先に、与えられたものをいうそうです。太陽や空気、なんてのもそうですね。見えにくい。というか見えない。みなさんは空気に感謝したことありますか?あ~、今日もおいしい空気吸わせてもらって、ありがとうって・・・ないですねー。聞いたこともないし、言ったこともありません。酸素マスクをはめなければ生きられない人にとっては、空気に対する感謝の気持ちがあるかもしれませんが、ぼくらは当たり前に思ってますよね。考えたことすらない。食べ物はまだ見える範囲ですが、それすらあやしくなってきます。親のご恩ってのも、耳の痛いとこですね。

恩ということについて、ひとつには、大きければ大きいほど見えにくい。そして、求められるよりも先に、与えられたものと。確かにそうですね。空気なんかは要求したわけじゃないし、請求書も送ってきません。恩というのには、もう一つ特徴があって、それは返しても返しきれないものだそうです。前に、テレビの人気タレントが、親に何千万円を送りつけたと、満足そうに言っていましたが、確かに、稼いだお金を親にポンッと渡すのは、ちょっとカッコイイですけど、それで恩を返したと思ったら大間違いのようです。親はどんな気持ちでしょうか。どんなに大金であったとしても、これで勝手に老後暮らしとけ、なんて気持ちなら、寂しいでしょうね。ありがとう、の気持ちのほうが、はるかにシアワセに思ってくれるものかもしれません。

今回は、ありがとうについて、お話させてもらいました。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

住職継職を振り返る

ぼくが住職を継職したのは、8年前、平成9年の秋。当時24才、学生あがりのぼくには住職という肩書きがとても嫌でした。お寺で生きていく情熱はあったけど、見習い期間もないままに住職なんておかしい!母が継ぐべきだと主張しましたが、ぼくの意見など聞く以前からとっくに準備は整えられていて、結局言われるがままそのポジションに座ることになりました。継職法要自体もすべてぼくの意思とは関係なく、借りてきた猫のように。

「あなたは何もしなくていいから黙ってそこに座っていなさい」

というまわりからの視線は、活気盛んな20代のぼくにはあまりにも苦痛な出来事でした。お寺が嫌なわけではない。でも、自分の意思を必要とされていない住職は嫌でした。ある程度見習いをさせてもらってから、少しでも自信が持てるようになって住職を継職したい。

結局、住職という名前はあまり考えずに、見習いのつもりでお寺の仕事をやろうと考え、無理やり自分を納得させました。そう納得させながらも、ずっと「住職」という名前に縛られていました。住職だからこうしなければならない、とか、住職と見られるようにならなければ、と。まわりからの期待や要求、責任。一方で自分の理想とする住職像と、求められる住職像とのギャップ。自分の理想にも他からの理想にもかけ離れた自分の無力さ。そのくせ「俺は出来るんだ!」という強いプライド。認められたくてしょうがなかった。また、それらのプレッシャーや気負いは絶対に人には見せたくないというプライド。「住職なんて、自由職だぜ!」ぐらいのスタンスを装いつつ、いつしか人と会うことが苦痛になっていきました。多くの人と会いながらも、心は常に閉じていて、ひとりになることだけが安らぎ。完全に孤独にはまったぼくは、3年弱で自己崩壊。逃げました。

2年が過ぎ、再びお寺に帰り着き4年目になりました。

「人生は苦」。「苦」とは「思い通りにならない」ということ。悲観的にではなく、人生は苦なんだというお釈迦さまの言葉を受け入れてから、だいぶ楽になりました。今は自分の力もある程度知りつつ、地道に地盤を固めたいと思っています。無理せず、しかし開き直らず、なるべく等身大の自分でいること。野望は多く持ち続けていますが、とにかく10年は下積み期間のつもりで。

学生生活や一人暮らしで、プチ自由を味わっているぼくらの世代の1番苦手なところは、持続力と忍耐力。飽きやすくて、すぐに「めんどくさい病」が顔を出す。結果、何一つものにならない。その戦いだけに終わらないよう気を付けよう。

(2005年のブログより)

花まつり

今回は、「花まつり」についてお話してみようと思います。みなさん「花まつり」っていうのは聞いたことがあるでしょうか?クリスマスは有名ですけど、花まつりはそれほど有名じゃないですね。クリスマスは、イエスキリストの誕生日。これは誰でも知ってますね。花祭りは、インドに生まれたゴータマシッダルタという方の誕生日です。仏教を説いた方で、のちにお釈迦さまと呼ばれます。イスラム教をひらいたムハンマドという方の誕生日はマウリド・アン・ナビーと言うそうです。いずれも、その生誕を祝うまつりですが、ここ数十年の話とはいえ、日本では圧倒的にクリスマスが有名ですね。

さて、こんな曲を聴きながら、今回は花まつりのおはなし。

花祭りの主人公、ゴータマシッダルタ、のちのお釈迦さまは、インドに2500年ほど前に生まれました。はなしによると、生まれてすぐに7歩歩いて、天上天下唯我独尊、と言われたそうです。生まれてすぐに歩いたりしゃべったりなんておかしい!っていうとこで、遮断する方がいるかもしれませんが、そこにどういう意味があって、なにを言おうとしているかを見ていかないともったいないですね。この天上天下唯我独尊という言葉、聞いたことあるでしょうか?以外に近くで見ているかもしれませんよ。最近はめっきり見なくなりましたが、でっかい音ならして走っているバイクに乗っている人たち。たまにこの文字を背中にしょっているようです。

天上天下唯我独尊

意味は、「天にも地にも、わたしのいのちは、誰にもかわりようがなく尊い」ということだそうです。ひとりひとりのいのちは、誰にも代わりようがない。いのちはそれぞれに絡み合っていて、関係のないものは何一つなくて、無駄なものもひとつもない。すべてが尊いんだ。そういうこころの領域をひらいたものを、仏教では仏といいます。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

五悪

今回は「悪」をテーマにお話ししてみようと思います。
仏教では、5悪と言って、特に1番してはならない悪を五つ上げいます。

1、生き物を殺してはならない
2、ものを盗んではならない
3、よこしまなことをしてはならない
4、嘘をついてはならない
5、酒を飲んではならない

悪を規定していくというのは、どの宗教でもあることですが、これらは守ったから救われる、守らないから救われないというよりも、信仰を守る中で、教団を乱さないという意味と、自分をコントロールしていく意味がありますね。ということは、逆に見ると、コントロールしていかないと何をしでかすかわからないのが人間ってことになります。

宗教はそれを仏や神の物差しで計りますが、国単位では、代表者が決める法律というのがありますね。国だけじゃなくて、県でも、町でも、会社でも、学校でも、家族でも、なにかしらのルールがあります。複数の人間が集まると必ずルールが生まれます。これらは、そこで生きていく上で守るべきことです。ただ、それは時代や場所によって変化します。お酒ひとつとっても、サウジアラビアでは禁止されているそうです。また、タバコの年齢制限をもっていない国もあります。吸い放題です。

一つ目の、生き物を殺してはならないというのは、人に限ったことではありません。それじゃあ生きていけないじゃないか、ってことなんですけど、それだけ罪を作りながら生きている自覚を持つということでしょうか。意識せずに悪いことをしているのと、悪いと感じながら、そうせずには生きられないというのでは、だいぶものの見方が違いますね。そこには申し訳なさとか、感謝の気持ちが生まれるのかもしれません。

五つの悪の中には、ものを盗んではならない、というのがあります。ぼくは小学生の頃盗みクセがあったらしくて、親がとても困ったそうです。何度叱っても人のものを取ろうとするので、困り果てた親は、親戚のおじさんに相談しました。このおじさんは若い頃散々悪いことしてるんです。だからこの人なら治す方法がわかるかもと思って聞いたんでしょうね。その時おじさんはこう言ったそうです。
「人のものを盗むんは、自分に自信がない証拠や。自分に自信がつくまで直らんわ」

自信がないから物を盗む。自分にはなにもないから物を盗む。そんなとこでしょうか。さて、今回は悪ということについて、少しだけお話してみましたが、皆さんは、自分にとって絶対にしてはならないこと、どのぐらいありますか?

ラジオ番組「ゆるりな時間」より