法話」カテゴリーアーカイブ

またお会いしましょう

照行寺第8世住職、神子勉さんが往生の素懐をとげられました。4月末に検査入院されて病気がわかり、手術も無事にすまされたと聞いていたのですが、予後が思わしくなく6月20日お浄土に還られました。6月22日のお葬儀には沢山のお参りがあり、神子さんのお徳を偲んでお別れをしました。組内ご法中、善巧寺総代、仏婦のご協力のおかげさまで滞りなく葬儀が執り行なわれたことをここに報告申し上げます。

親しい方に先立たれることはとても寂しいです。そんな時に耳にする言葉、「しもうてかれたねぇ」。この方言が好きです。なんとも言えない寂しさと温かさを感じます。ただ寂しいだけではなく、人生を全うされたことへの敬意とお疲れさまの意味が込められていると思います。そして、私たち浄土真宗門徒は、「またお会いしましょう」と言葉を添えます。なんと有り難いことです。人ごとならば、「死んだらしまい」で済ませられるかもしれませんが、身内や親しい友人、自分自身のことを思うと、それでは決して済ませらない問題があります。「また会おう」とは、故人を仏さまと仰ぎ、私自身も仏さまにならせていただくいのちを生きているんだという確認をさせられます。人生はリセット出来ない。だけれども、また会う世界を聞く者にとって、仏の名を称える声に故人を感じます。名残り惜しくもこのいのちを終えていく時に、どんな顔をしてお会いするのか。それは、死後に囚われる話ではなく、今を生きる力として私に響いてきます。

雪山俊隆(寺報136号)

あなたのお寺

「会社は誰のものか?」ということが、数年前に話題になりました。お寺の場合は、「お寺は誰のものか」。仏さまをご安置する大切な場所。それは、特定の誰かのものではなく、あなたのお寺であり、私のお寺。みんなのお寺です。しかし、寺側の働きかけも良くないのか、そういった意識をなかなか持って頂けないのが現状です。そこで、来る親鸞聖人の750回大遠忌法要は、これをひとつのテーマとして働きかけていきたいと思っております。

何もしなくても、おつとめだけはできるでしょう。しかし、それでは参加した意味がない。私たちの寺だという意識もない。私たちの先祖が熱い心で建てたこのお寺を見殺しにするだけであります。やはり、お寺はそれではいけない。門徒もそれではいけない。お寺と積極的に関わって、初めてお寺というものが意識の中に残り念仏の声も心に響くようになるのではないでしょうか。

3代前の総代長鬼原勝次さんのお言葉です。
いかに皆さんに来て頂くかは大きな課題で、交流を目的としたパークゴルフ大会、参拝旅行、法要バスの運行、定例行事「お講」のバージョンアップ、花まつりや盆おどり、お寺座ライブなどの催し等、入り口はそれなりにありますので、いずれかにまずはご参加頂きたいです。そして、ご意見をください。個人的には、お経会と写経会をやりたいです。数人でも集まって頂けるなら、すぐにでも始めたいので、どうぞ一声かけてください。ご一緒にお寺を再興していきましょう。

雪山俊隆(寺報135号)

西岡常一さん

最近、心に残った言葉をいくつか紹介します。
法隆寺、薬師寺の宮大工棟梁であった西岡常一さんの言葉です。西岡さんは、平成7年にお亡くなりになりました。

今の大工は耐用年数のことなんか考えておりませんで。今さえよければいいんや。とにかく検査さえ通れば、あすはコケてもええと思っている。わたしら千年先を考えてます。資本主義というやつが悪いんですな。それと使う側も悪い。目先のことしか考えない。

厳しいお言葉ですが、説得力があります。千年先というのが凄いですね。ひとつの道を極めた人の言葉というのは、どの世界にも通じていくようなことを言われます。今のに関連して、続けてもうひとつ。

科学が発達したゆうけど、わしらの道具らは逆に悪うなってます。質より量という経済優先の考え方がいけませんな。手でものを作りあげていく仕事の者にとっては、量じゃありません。いいもん作らなあ、腕の悪い大工で終わりです。飛鳥の時代から一向に世の中進歩してませんな。

えー、おっしゃるとおりですね。
最後にもうひとつ。

わたしらは堂や塔を建てるのが仕事です。仕事とは「仕える事」と書くんです。塔を建てることに仕えたてまつるいうことです。もうけとは違います。そやから心に欲があってはならんのです。

仕事ってなんだろう?ということを耳にすることがありますが、それは文字通り、仕える事。忘れかけていたことをズバリと言い当てられたように思いました。

ラジオ番組「ゆるりな時間」

空華について

このテキストは、平成22年、空華忌の法話を一部抜粋して寺報(134号、135号)に掲載したものです。

利井唯明師

 皆さんこんばんは。ようこそのお参りです。この空華忌は明教院僧鎔和上の祥月命日に合わせての法要でございます。回忌でいいますと227回忌にあたります。僧鎔和上は空華蘆(くうげろ)と言って、ここで塾を開いておられまして、門弟三千人といわれる程の大きな学派になっております。そのお弟子さんには柔遠(にゅうおん)和上、道隠(どうおん)和上のお二方がおられます。京都の大谷本廟に行きますと、勧学峪という勧学のお墓がずらっと並んでいる所があります。

その一番真ん中に僧鎔和上と道隠和上のお墓が一体となって並んでいます。その両脇にずらっと勧学のお墓が並んでいるような形です。この並びは、会読の時の並び方で、問答するときの形式なんです。典儀(てんぎ)といわれる問答をさばいていく司会者のような人が真ん中におられて、両脇のお坊さんの一方が問いを出して、片方が答えていくのです。勧学峪の一番入口のところには、門番のように雪山家のお墓がございます。僧鎔和上が亡くなられた後、道隠和上は大阪のほうに行って塾を開いております。後に、大分、豊前に転居されていかれましたが、この大阪の塾からは松島善譲和上などがお出ましになりまして、この系統を堺空華といいます。一方の柔遠和上の方は、越中の方へ留まっておりまして、この空華蘆を引き継いで講義をされておりましたので、こちらの系統を越中空華といいます。どちらも僧鎔和上の学説を補い、また膨らませておりますから、言われていることの幅が広くなったというくらいに思って頂いたら結構かと思います。柔遠和上のお弟子さんは、行照(ぎょうしょう)というお方が出られまして、この方は今の岐阜県、美濃の行照さんといって空華蘆で学んだあとに岐阜にもどり、塾を開いております。僧鎔和上のお弟子さんは皆優秀ですから、戻った所で塾を開いていきます。その行照さんのお弟子さんにあたるのが、私から言いますと曾々爺さんにあたります鮮妙(せんみょう)さん、利井鮮妙でありまして、今私共がやっております行信教校の創設者の一人になるわけです。

 柔遠和上がこの越中で塾を開き沢山の門弟がおったわけですが、門弟のことを自分の弟子とは言われませんでした。「善巧寺にある僧鎔和上のお墓に参って、空華の学徒としてお弟子になりなさい」と言われました。ですから行信教校でも、3年に1回ここへ学徒が来るわけです。お墓参りをして空華のお弟子の一員に加えて頂く。お弟子といったら大層ですが、そういう経験がありまして、柔遠和上のお言葉が一つのご縁になっておるわけです。

 親鸞聖人も「歎異抄」の中で「私は弟子一人も持っておらん」とおっしゃったでしょ。あれと一緒ですな。私というものが弟子をとるというものでは決してない。「私は師匠の仰せに順っておるだけなんだ」そういう姿勢でしょうね。私が私がと言うているのが正しいかといったら、そうじゃなかった。そういうことで、この度、空華の里であります善巧寺様にご縁をいただきまして、私もその一人としてお話をさせて頂くわけです。

 他力ということが浄土真宗のひとつの大きな特徴であります。しかもこの他力という言葉について、大変奥深く研鑽して学説を立てていったのが空華学派になるわけですね。空華学派の特色としましては、他力というものは絶対他力といわれるようなものである。我々が日常で使う言葉で言いますと、自分の力以外のものの力を借りることを他力と考えますね。実をいうとそれは大きな間違いなのです。そのことを親鸞聖人は『教行信証』のなかでしっかりと言っておられるんですが、お弟子さんの中にはやはり大きな誤解をされていた方がたくさんおられたんです。
 法然聖人は選択本願念仏ということ仰り、それはいったいはどんなお念仏であったかといいますと、仏教を大きく分けますと、聖道門と浄土門とに分かれます。これは道綽禅師というお方が仰ってくださいました。その聖道門というのはどういった教えかと言いますと、この身このままこの土で悟りを開こうという教えです。此土入聖(しどにっしょう)の法門といわれます。それに対して浄土門というのはお浄土に生まれて証を開こうとするんですから、彼の土で証果を得る道ということで彼土得証(ひどとくしょう)といわれる法門があります。道綽禅師という方が今この末法のおいて、凡夫であるこの私は聖道門では決して悟りを開くことができないから、浄土門に帰依しなさいよとお示しくださったわけでございます。
 そして法然聖人はその浄土門においてどんな行いによって浄土に生まれていくのですかといった時に、雑行と正行とありますよと仰るわけです。雑行というのは雑と書いてありますが、まじっていると読むんです。まじりっけがあるということです。正というのは正しく往生浄土に向かう行ということです。どのように違うかといいますと、端的に言いますと、阿弥陀様に関係する行と阿弥陀様に関係のない行ということです。たとえばお経を読むことひとつにしましても、お経にはいろいろあります。般若心経であるとか法華経であるとか涅槃経であるとか、我々浄土真宗でいえば無量寿経であるとか観無量寿経であるとか阿弥陀経とかいろんなお経典があります。その中で阿弥陀経のお浄土に参るのに法華経読んでどないするのという話です。もちろん法華経の中にも阿弥陀様は出てまいります。しかしながらそれはお経全部を阿弥陀様の本願のこころを説かれておるのかという一部分なんですね。全部ではないんです。本来は法華経であれば大日如来によって法華の教えですね。真如への悟りを開く道が説かれております。お浄土に生まれていく道が説かれているわけではないんです。
 皆さんよくご存じなところでいうたら般若心経というお経がありますね。般若心経というのは真如のあり方、いわゆる智慧のまなこを開いていくことが書いてあるんですその智慧のまなこをひらくお経典を読みながらお浄土を願うというのは方向が違いますでしょ。行き先が違いますわな。目的が違います。だからそういうものは雑行というんですよ。阿弥陀様のお浄土にまいるんだったら阿弥陀様の御本願のお心、阿弥陀様のお浄土に生まれていくお経典を読みましょうというのが正当ですわな。それが正行といわれるものです。

恨は何度もやってくる  

作家の五木寛之さんが話されていた、韓国に伝わるお話を紹介します。

お前が大人になると不思議な経験をする。あるとき何の理由も原因もないのにふと心が翳って無力感を覚え、心萎えた状態に落ち込んでしまう。その状態では血のつながった人でも赤の他人のように感じ、職場の仲間や幼馴染も自分の敵のように感じてしまう。自分の持っている将来への希望も取るに足らないもののように感じ、自分の存在までもどうでもいいと感じる。このような状態にはじめて遭遇すると誰もが不安を覚え精神がおかしくなったようになる。向こう気の強い人間はこんなものはがんばって乗り越えろといい、気楽な人は楽しいことに気を紛らわしてやり過ごそうなどという。しかしこのような感情に落ち込んだ時には何をやっても無駄なんだ。

これは恨(ハン)というすべての人のこころに存在し、一生人は恨を抱えて生きて行き、恨は時々目をさまして訪れてくる。人は一生のうちに何度も恨を体験するもので、恨がやってきたときには、身をすくめて納得する、肩を落とし、背中を丸め、しゃがみこんで何度も何度も大きなため息をつく、するとほんの少し肩の重さが軽くなる。そのときに立ち上がって歩けばよい。

世の中、気を紛らわすものは溢れていますが、それは問題を先送りするだけのことでしょう。仏教は、漢方のようなもので、特効薬のように即効性はありませんが、腰を据えて向かい合えば、きっと糸口が見えてくると信じています。

雪山俊隆(寺報134号)

懺悔

「またやってしまった…」そう思った時、皆さんはどうやって反省されていますか?キリスト教では「懺悔」(仏教ではザンギ)、もしくは「告解」というものがあって、聖職者に自分の罪を告白し、神のゆるしを求めます。マザーテレサという方は、生涯を貧困に苦しむ人たちや死を目の前にした人、身寄りのない子供たちと共に過ごしました。その方がこんな言葉を残しています。

主よ、私は思い込んでいました。私の心が愛にみなぎっていると。でも、心に手を当ててみて、本音に気付かされました。私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思い込んでいました。私は与えるべきことはなんでも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。私のほうこそ、与えられていたのだということを・・・

と続きます。菩薩行のような生涯を過ごした方が、このような言葉を残されていることに胸を打たれます。親鸞聖人は、仏さまの教えを通して、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず…」と言われます。誰かを批判することはたやすいことですが、心から我が身を恥じるということは、そこに救いがなければ苦しいばかりで、気付いたことへの自己陶酔、もしくは開き直るしかないように思います。深い懺悔というのは、同時に底知れぬ仏さまの救いを物語っています。

雪山俊隆(寺報133号)

いのちはどこにあるのか?

いのちはどこにあるのか?そんな問いを永代経のご縁で日置先生がお話くださいました。私のいのちは、私のものと考えて、今ここにあるものとしか受け取れません。だから、このいのちが無くなれば、すべてが終わりだと思ってしまいます。これは、子供を授かると少し見方が変わってきます。私以外にもいのちはありました。痛みの共感や喜びの共感がダイレクトに伝わってくるようないのち。仏さまの目は、それが我が子だけに限らず、すべてのいのちに注がれているんだと言います。すべてのいのちに、我がいのちと同様の重さを感じられるなら、すでに死という考え方は、私の思うようなものではなくなります。

そして、仏さまは、私たちのいのちを、死んでいくいのちや滅んでいくいのちとは見ていません。生まれていくんだよ、と言われます。仏さまという尊い姿に生まれていくいのちを今生きていると思い、我が名ナモアミダブツを称えながら、その人生を生き抜きなさい、と。仏さまになるということは、すべてのいのちに痛みの共感と喜びの共感が生まれます。それが本来の私のあるべき姿と受け取ります。死を滅びとしか受け取れなかった私に、新しいいのちの息吹を与えてくださいました。

現代の常識は永遠に続くものではなく、時代や場所で変化していきます。変化していく考え方は本当の頼りにはなりません。仏法を聞くということは、私の常識を超えた言葉との出会いでもあります。

秋は報恩講と空華忌の二大法要が勤まります。どうぞ時間を割いてお参りください。

(寺報129号)

つながり

娘が十ヵ月になりました。赤ちゃんの成長ぶりには日々驚かされる毎日で、最近は笑顔が増え、手を振ることも覚えました。月々のお講では、いろんな方に抱いてもらい、最近はすっかり皆さんに慣れてきたようです。人と人の繋がりにおいて、会う回数というのは、とても大きなものだと改めて思います。

お寺とご門徒さんの関係においても、やはり会う回数は重要で、どうしたらお寺に来てもらえるかということを常日頃から考えています。法座に重点を置くのが本道だと承知していますが、うちでは今のところ、敷居を下げて入口を増やす方針を続行しています。お講の午後に映画上映、門徒親睦パークゴルフ大会もそのひとつです。

お寺に入って間もない頃、「おでかけ住職」と題し、住職がご門徒さんの家へ出張し、法事以外でもおつとめや法話を聴いてみませんかという案内を出したことがあります。数百の方に案内を出せば、せめて数軒、いやもしかしたら十軒ほどあったりして、と甘く考えていましたが、結果はゼロでした。悲しさを通り越し、絶望感と無力感にお寺の引退もよぎりましたが、今考えてみると、人間関係がまだ出来ていない上、誰にも相談せずに行った愚かさを自戒した次第です。

あれから10年ほどが経ちました。今、来年を目標に、各地区でのお経会を考え、幾人かと相談させてもらっています。多く集まることが難しい次代、おひとりでも喜んでいきます。どうぞご縁が結ばれますように。

雪山俊隆(寺報132号)

世の中は狂ってる?

お参りでいろんな方にお会いする中、ここ1年で最もよく聞いた話は「最近の世の中は狂ってる」でした。どれも、異常犯罪の報道を受けての話ですが、本当のところはどうなのでしょうか。

警察庁から発表された犯罪統計では、平成19年の殺人認知件数は戦後最低を記録したそうです。これは昭和中期の半分以下という数字です。この統計は、どのマスコミも取り上げていないようで、これこそが異常なことです。では、なぜマスコミは異常犯罪をくまなく拾い上げるようになったのでしょうか。それは言うまでもなく、視聴率が取れるからでしょう。同時に視聴者である私自身を指していて、人間の1番汚い心をえぐられているようで、情けなくなります。

また、少し前には、ひとつの事件をきっかけに飲酒運転事故のニュースが急増しました。これに関しても、警察庁の統計資料を10年単位で見てみると激減しています。もちろん、正すべきことはたくさんあるとは思いますが、指をさすのは、犯罪者でもなく、マスコミでもなく、まず自分自身に指を向けるという仏教的視点が大切なのではないでしょうか。

産経新聞の社会部記者だった父隆弘の口ぐせは、「マスコミは99.9%ウソ」でした。その父が仏教に出会い、そのまま聞いていい教えがあったことに感動したのです。これは、その他にはそのまま聞くものは何もないと知った人の喜びでしょう。

闇の中でいくらもがいても闇は晴れません。仏の教えに耳を傾けてくださる仲間がひとりでも増えることを切に願っています。

(寺報127号)

課外活動

数年前に地元のコミュニティFMからお話をいただき「ゆるりな時間」というラジオ番組を5年間毎週15分やっています。元々話をすることにコンプレックスがあるので、その勉強にもなると思い始めました。音楽を中心にした番組構成のため、トーク時間は少ないものの、時には「4月8日はお釈迦様の誕生日、花祭りですよ」などと、仏教的な話題にも触れています。世間のニュースでは仏教的な話題がほとんどない状況を考えると、ほんの些細なことでも意味があると思っています。毎週金曜日午後6時15分(再放送は土曜日午前8時)、FM76.1、よろしければ聴いてください。

インターネットでは、3年前から全国の若手僧侶たちと「メリシャカ」という仏教サイトを開設しています。メリシャカとは、その名のとおり、キリスト教がメリークリスマスなら仏教はメリー釈迦。少しおふざけが過ぎるかもしれませんが、やっていることは至極まじめです。同世代の僧侶たちは、自分たちの代でお寺が無くなるかもしれないという危機感を持ち、仏教をいかに発信していくかを試行錯誤しています。

これらは直接ご門徒 さんに関わることではないかもしれませんが、雪ん子劇団や数年前からはじめた「お寺座ライブ」もしかりで、いつかきっと門徒の方々にも還元出来るという信念を持ってやっています。お寺はもちろん、寺報、ラジオ、インターネット、どこからでもいつも交流をお待ちしております。私たちのルーツである仏教、お寺を前向きに再興していきましょう。

雪山俊隆(寺報131号)