法話」カテゴリーアーカイブ

みんな繋がっている

仏教には縁起の教えがあります。縁儀とは、「すべてのものは単独で存在しているのではなく、他のものが原因になり条件になって成り立っている」ということです。これを、一言であらわすと「すべては繋がっている」ということでしょう。ただ、実際にはその繋がりがとても見えにくい時代です。

核家族化が進み、「家を守る」という考え方が薄れ、また、物質主義の行き過ぎから、おらゆるものがお金に換算される世の中で、「もったいない」や「おかげさま」という心が育ちにくくなっています。「もったいない」とは、すべてのものは「頂き物」であるという受け取り方から生まれた言葉で、そこに「おかげさま」という感謝の心を育んでこられた先人の方たちがたくさんおられました。今は人も心さえもお金で解決出来るような錯覚に陥り、「おかげさま」より「お金さま」。ないものは渇望か絶望、あるものは貪りと驕り。他でもない自分のことです。お経にはこんな言葉もあります。

人は激しい欲望の中で、
独り生まれ 独り死し
独り去り 独り来る

なんとも寒々しい言葉ですが、これを踏まえた上で、縁起の教えを味わってみると、希望が見えてきます。

人と人の繋がり。いのちといのちの繋がりを教わる時に、人は初めて本当のいのちを見つめることが出来るのかもしれません。まずは、近しいご縁からしっかりと見つめ直していきたいです。

(寺報126号)

みんなのお寺

お寺は誰かの所有物ではなく、みんなのお寺であり、あなたのお寺、私のお寺です。例えば、私が宝くじに当たって、ひとりで七百五十回大遠忌の事業費をまかなうと言ったら、それはお寺にとって大きなマイナスだと思います。みんなが痛みを伴いながらも、御懇志を出し合い、その結晶としてお寺が護られていくことにこそ、意味があるのではないでしょうか。そして、その行いを、どうぞ子や孫にお伝えください。核家族化が当たり前になりつつある世の中で、若い方はお寺との関わり方を全く知らない方が大勢います。年会費(かかり銭)でお寺が支えられていることも聞かなければわかりません。「若いもんに言ってもどうせダメやっちゃ」と諦めないでください。自分の親が身を削って支えている事実を知って、何も感じない子はいません。すぐにはわからなくても、いずれ何かが伝わるはずです。「金がかかるならお寺との縁を切るわ」と短絡的に考える人もいるかもしれませんが、何も知らずに切れていく縁よりはずっとよいと考えます。

本堂の中心は阿弥陀さま。阿弥陀さまのお心がお経。お経の心を噛み砕いて伝えるのが僧侶の使命。自分の役割を全う出来ていない無力さをいつも情けなく感じていますが、これからもお寺へ来ていただきやすい環境作りに努めますので、どうぞ、”あなたのお寺“の法要にご参加ください。

雪山俊隆(寺報130号)

ほっこり

かなり寒くなってまいりました。こんな時はホッコリした音楽が聴きたいですね。前回の放送でも、この、ほっこりという言葉を何気なく使ったんですけど、ほっこりってなにけ?と聞かれまして、ほっこりはほっこりやねか、みたいな感じで、長島しげお風な、受け答えをしたんですけど、改めて辞書を調べてみました。ふだんは、ニュアンスだけで言葉にしていることが多いので、辞書を読むとなるほどって思いますね。

ほっこりとは、
1、ほかほかと暖かいさま。
2,色つやがよく鮮やかなさま。また、ほっとしたさま。
ということだそうです。

イメージしていた意味とほぼ一緒ですが、ホッコリした音楽っていうのは、人それぞれ受け取り方が違いますね。ちなみに、まったりというのは、
「まろやかでこくのある味わいが、口中にゆったりと広がっていくさま。ゆっくりしたさま。のんびりしたさま。くつろいださま。だらだらしたさま」
です。それと、この番組でも使っている、「ゆるり」は、くつろいでいるさま。らくに。いそがず、ゆっくりしたさま。を言います。

ほっこりとか、まったりとか、ゆったりとか、ゆるりとか、こういう言葉は、何年か前に「癒し」という言葉がよく使われましたが、それらとなにか共通するようにも思います。いつからかわかりませんが、なにかしてなきゃ落ち着かない、そんな強迫観念じみた世の中になっているように感じています。これは自分自身のことでもあって、お坊さんをしていますと、心静かに手を合わせて仏さまになんて言っているわけですが、言っている本人が、心静かじゃなかったりするわけです。たいしたことは考えてないんですけどねぇ、グルグル頭を巡らせて、ちっとも落ち着いた時間を持っていない自分がいます。いざ、余裕が出来た時も、せっかくだからと、これしようあれしようと、余計に忙しくしていたりします。

忙しいという字は、りっしんべんに、亡くすという字を書きます。りっしんべんというのは、心のことなので、心を亡くすってことです。まさにそのとおりな日常を繰り返しているように思うので、ほんの少しでも、足を止めて、自分自身に向かい合う時間。大切だなぁと思っています。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

ほんこさま

在家報恩講、通称「ほんこさま」が9月後半からスタートしました。報恩講とは親鸞聖人のご法事です。それを本山やお寺だけではなく、ご門徒一軒一軒の家でも勤めましょうというのが、在家報恩講で、お寺としても、年に一度ほぼすべてのご門徒さんにお会い出来るとても貴重な法事です。

数年前までは、車のない時代に合わせた日程だったため、地区によっては、1日あたり5軒ほどで終わる地区もあれば、20数軒まわる地区もありました。20軒以上になってくると、お茶を出している時間すらもったいないというペースになってきます。それを、どの地区もなるべく均等に時間をつくっていきたいという思いと、葬儀のような突発的な予定が入っても、日をずらさず時間調整のみでまわれるようにしたいという思いから、昨年から大幅に日程を組み直させてもらいました。おかげで、あまり焦ることなく一軒一軒お参りさせてもらえるようになりました。

こちらの不行き届きでまだほんこさまに入られていない方は是非お参りさせてください。特に、別居をされていて、元の家から離れてしまう方々にも、県内でしたら富山市へもまわっておりますので、まわりのご協力も含めてどうぞよろしくお願いいたします。歴史あるものと、新しいことのバランスこそがこれからの命題だと受け取っています。

(寺報125号)

當相敬愛(とうそうきょうあい)

梯實圓和上より結婚式のご法話で「當相敬愛(とうそうきょうあい)」というお言葉をいただきました。

お互いに敬い合い、愛し合う。
愛に敬いが伴わなければ、それは誠の生き方ではない。
それには相当の「覚悟」がいる。

この覚悟という言葉に強く心を打たれました。ただ好きというだけでは、自分の都合次第ですが、相手を敬い続けることの厳しさを感じます。改めて考えてみると、独身時代、ぼくは自分の都合ばかりで生きてきました。人と関わる時には、自分の都合はほとんど通りませんから、それだけに、自分のやり方で、自分のペースで物事をやるというのがとても気楽で、一面には、ひとりほど楽なものはありません。一時、友人の間でも「やっぱりひとりがいいよね~」が皆の口ぐせでした。

でもやはり、人はひとりでは生きてはいけない。この、ひとりでは生きてはいけないということも、現代の若者の間では実感しにくくなっているように思います。ひと昔前ならば、農作業の助け合いなどによって人は支えられていましたが、時代は変わり、仕事も趣味もみんなバラバラ。今は「お金さえあれば」という感覚がふつうです。必然的に、助け合いということも、ただ煩わしさのみに目をやるようになりました。ぼくの世代は、そんな感覚が当たり前の時代に育っています。

一方で、仏道はこの価値観の正反対にありました。苦難は私が引き受けるから、あなたはどうぞ幸せになってくださいと願っていく生き方。生涯をかけて共に耳を傾けていきたいです。理想なき時代に、変わらぬ理想があるという身のしあわせを。

(寺報124号)

親心

姉の子真弘が二歳の頃、「いや!」という否定のことばをよく使う時期がありました。ある日、爪切りを床に投げて、母親の「片付けなさい」という言葉に対して知らん顔をしました。くり返し「自分でやったことは自分で片付けなさい」と母親は言います。それでも「片付けない!」と言い返します。何度か繰り返しているのを見かねて「片付けんかったらお蔵に連れていくぞ」と言ってみました。お蔵は、うちの一番隅にあって、古めかしいたたずまいに重々しい三重の扉がある部屋で、私も子供の頃何度もそこへ入れられた記憶があります。その怖さは真弘も知っていて、一瞬顔がこわばります。それでもいっこうに片付けようとしません。しびれを切らして真弘を抱えお蔵へ連れて行こうとすると、急に泣き出しました。お蔵が近づくにつれて泣き声も大きくなり、いよいよ到着し泣きじゃくる真弘を入れ、素早く扉を閉じました。真っ暗の部屋の中、恐怖が増したのか、泣き声も切り裂くような声になります。少ししてから自力で一枚目の扉をガラガラッと開けました。でもそこにはまだ次の扉があります。泣き声にならないほどの叫び声が聞こえてきます。とても胸が痛くなりました。親はこんなにつらい想いに堪えてまで子を育てようとしていたのかと、親の願いの一端を知らされます。

阿弥陀仏は私のことを一人子のように願われ「お前をお前のままで抱きとって、決して見捨てない」と言いながら、仏さまが泣いている姿が思い浮かんできました。

雪山俊隆(寺報128号)

結婚

6月2日善巧寺本堂にて第22代住職の結婚式を執り行うことになりました。恥ずかしい話ですが、これが5年前の話だとしたら、おそらく式はひっそりと京都あたりで行い、披露宴も勘弁してくださいと断っていたように思います。お寺に帰り着き、ご門徒さんとの繋がりも徐々に感じ始めて、ようやく今「結婚します。一緒に祝ってください」と言えるようになりました。

思い返してみると、住職継職の時は、まさに借りてきた猫の状態で、個人的な想いを全く求められない状況に「ぼくである必要があるのか」と思い悩んでいました。今思えばワガママとしか言いようがありませんが、個性が謳われ、自分という意識を強く感じながら育ったぼくの世代ならではの想いです。

親鸞聖人は、弾圧を覚悟の上で僧侶として初めて公式に結婚された方でした。多くの僧侶から罵られ、お国からの罰を受ける覚悟は想像を絶します。現にお仲間には死刑を受けた方もおられるわけで、ぼくなら黙ってコッソリと伴侶をつくっていたに違いありません。

その覚悟を支えていた力は何だったのか?それはやはり、いつも真ん中に仏さまがおられたのでしょう。仏さまを大切にすることを中心に、それを妨げることはなるべく避け、光りのあることは例えイバラの道であっても進んで行う。考えてみると、これほどスッキリとした生き方はなく、憧れの諸先輩方の共通点はこの芯でした。諸行は無常の世の中で、絶対に変わらない芯。なにが1番大切かということを見失わないように歩みたいものです。

(寺報123号)

何が中心か

住職継職以降、8巡目のほんこさん参り。「1年があっという間やね~」という通例のご挨拶にも実感が伴ってきました。善巧寺のほんさんは、今回からどの地区もなるべく午前中に終わるように日程を調整しています。それは、葬儀等の突発的な仏事が入った時の対応や、一軒一軒を大切に勤めたいという配慮からです。

親鸞聖人のお師匠である法然聖人は、「念仏」を中心としたものの考え方を徹底された方でした。それは例えば、当時タブーとされていた僧侶の結婚に対しても、

聖(妻帯しない僧)では念仏できないというのであれば、妻帯して念仏しなさい。妻帯したために念仏ができないというのであれば、聖になって念仏しなさい。

とおっしゃっています。親鸞聖人はそれに従い、弾圧を覚悟の上、いのちをかけて結婚を決断されたとお聞きします。一方で、私たちは何を中心として物事を判断しているのでしょうか。法然聖人や親鸞聖人のように突き詰めた言葉はなかなか言えるものではありませんが、浄土真宗にご縁のあった者は、はやりそれにならって、「手を合わすご縁」を中心に物事を判断していきたいものです。

年に1回、30分ほどのご縁。それは一生のうちでマバタキほどの時間ではありますが、浄土真宗において1番大切なお勤めです。それをいかにして、大切さを失うことなく努めあげていくかが僧侶の本分でありましょう。とは言っても、なかなか理想どおりにはいかず、時に楽をしたいという心も湧き出てくることがあります。そんな姿を目にした時は、どうぞ叱咤激励お願いいたします。ご一緒に大切な法事を勤めあげていきましょう。

(寺報122号)

変わらない凄さ

今年は祖母の3回忌と父の17回忌でした。父の遺した言葉や写真、映像は今もうちの家宝として残っています。その中で、著作「お茶の間説法」を朗読したテープがあり、これをうちの中だけに留めておくのはもったいないということで、去年からインターネット配信を始めました。すると、予想を超えて聞いてくださる方が多く、多い時では日に2000人以上のアクセスがあります。

戦後、それまでの価値観が崩れ去り、欧米に追いつけ追い越せでがんばってきた時代がありました。戦前の価値観を否定するということは、それまで大切にされてきたお寺や仏教も含められ、伝統や歴史が「古い」という一言でかたづけられました。核家族化もこの頃から始まり、家庭のあり方が大きく変わり、そういう中で育った今の若者は、必然的にお寺や仏教とも縁遠くなります。ただ、あまりにも縁遠くなったせいで、逆にそれが今新鮮なものとして受け取る人たちが出て来ました。

上辺の文化に覆いかぶされた国で、突然個性が謳われても無理難題。欧米への憧れも徐々に薄れつつある今、情報はテレビ・新聞からインターネットへ。私って一体なんだろう?という自分探しが一時流行りましたが、そんな中で、足元にあった仏教に興味を示す人たちが出て来てもなんらおかしな話ではありません。

お寺や仏教が、今の若い人たちにとって抹香臭いものではなく、むしろ新鮮な魅力をもった仏教の伝統として、好意的に受け入れられていると強く感じます。時代に左右されず「変わらない」教えが今目の前にあるということを再確認いたしましょう。

(寺報121号)

感受性

だいぶ過ごしやすくなりまして、雨がこんなに気持ちのいいものだったと改めて思いました。ぼくらはなにげなく、晴れの日をいい日と呼んで、曇りや雨の日を、天気が悪いなんて言いますが、天気にいいも悪いもないと、親によく言われました。確かにその通りで、農家をしている人なら、恵みの雨といって、雨がなければ植物は育ちません。この恵みという受け取り方はステキな感性ですね。自分の力で得たという感覚じゃなくて、いただいたものということでしょう。そこには、感謝の心が育ちます。こういう感覚ってドンドン減退しているんでしょうね。

例えば、こどもをつくる、なんて言いますが、これも昔は、こどもが恵まれた、と言っていたはずです。それを今では、あたかも自分の力ですべてつくりあげたような言い回しを普通に使ってしまいます。そこになにが問題があるかというと、感謝のこころが育たないということでしょうね。感謝のこころがないということは、生きていても、どこにも満足が得られないことになるかもしれません。感謝のこころは、懺悔のこころを生みます。おばあちゃんたちが使っている、申し訳ないとか、もったいない、という言葉がソレですね。

もったいないという言葉も、モノを粗末にしているからという前に、恵まれたモノという感覚があるから生まれた言葉ですね。ただ、モノを大切にするというだけでは、なにかが足りません。なぜモノを大切にしなければならないか。資源には限りがあるから、とか、作った人の苦労を考えなさいというだけでは、その考え方もいつか崩れる時がくるかもしれません。だいたい、売り手のことだけを考えれば、バンバン食べ物を捨てるがごとくに消費したほうが喜びます。儲かりますからね。そうではなくて、自分で得たものではなくて、恵まれたモノだったという受け取り方を出来た時に、はじめて感謝のこころが生まれて、そこに自ずと、モノを大切にする心が生まれるのだと思います。そういう心が生まれた時、そうは出来なかったとしても、今度はそこに、申し訳ない、という懺悔の心が生まれる。感謝と懺悔の繰り返し。そんなステキな感性を持ったおじいちゃん、おばあちゃんが、あなたの近くにもおられますよ。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より