繋がっている

今回の悲劇で亡くなった多くの方のことを想うと、ある部分、あるかたちで我々自身も亡くなったのだと痛切に感じます。人類の一部の苦しみは、全人類の苦しみです。また、人類と地球はひとつの身体です。そのひとつの身体の一部に何かが起きれば、全身にも起こります。

ダライラマ14世と並んで、平和活動に従事する世界的な仏教者ティク・ナット・ハン師が震災に寄せたメッセージの冒頭のお言葉です。すべてのいのちは繋がり合い、ただひとつで独立したものは何もないという縁起の法則を端的にあらわされています。

あなたの痛みが私の痛みとなり、あなたの喜びが私の喜びとなる。ゆえに救わずにはおれないという阿弥陀如来の願いを想います。親鸞聖人の時代にも大震災が起こり、長く飢饉が続いた後、大きな合戦が起こりました。当時と今とでは環境がまるで違うとはいえ、負の連鎖を危惧せずにはおれません。先の見えない不安がストレスを生み、そのストレスが知らぬ間に人にきつくあたってしまうことがあります。

親鸞聖人は怒りを消すのではなく転じるという生き方を示してくださいました。「教行信証」をあらわした原動力には、少なからず不当な弾圧に対する怒りがあったことでしょう。煩悩を抱えたままに、仏に照らされ生きる道。危機感や焦りや無力感を持った時にこそ、静かに問い直してみたいと思います。

雪山俊隆(寺報139号)

つながり

上の写真は、宇奈月町音沢地区にある手押しの霊柩車です。ひと昔前は、各地区に火葬場があり、このような霊柩車を皆で引き故人を送っていました。大きな火葬場へ高級霊柩車で運ばれることが当たり前の中で育ったぼくにとっては、親戚やご近所が集まって、故人を送る姿は、とても心が温まり、まるで映画のワンシーンのように写ります。葬儀もホールが当たり前となりました。これは時代の移り変わりとしか言いようがなく、ここでその良し悪しを言うつもりはありません。正直なところ、僧侶にとっても夏は涼しく冬は暖かいホールはすこぶる快適です。ただ、利便性や効率を追い求めた結果、何を失ったかということは、ちゃんと胸に留めたいと思っています。

人と人の繋がりが希薄になりました。効率を追い求めた結果、繋がりが薄くなったのか、繋がりが薄くなったから効率のよいものが増えたのか、いずれにしても、これまで以上に拍車をかけて、人に迷惑を掛けるということが良くないこととされるように思います。日本では「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教え、インドでは「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうです。この違いは何でしょうか。すべてのいのちは繫がり合っているという縁起の法則がヒントになるとは思いますが、結論を急がず、時間をかけて考えていきたいです。本年もどうぞよろしくお願い致します。

雪山俊隆(寺報138号)

仰ぐ対象

年寄りを いたわるばかりが 政治じゃないよ
生かして使えよ 老いの智恵

今年米寿を迎えた漫才師内海桂子さんの都々逸です。ここ20年ほどの間に目に見えていろんなことが変化しました。中でも、こどもやご年配者への接し方も変わってきたような気がします。

家族に財布がひとつだった時代は、一家の主はおじいちゃん。何かひとつ欲しいもの出来れば、家族会議をして、おじいちゃんの了解が必要だったと言います。そのおじいちゃんの決め台詞は「阿弥陀さんに聞いてみぃ」。そんなお宅は、今では日本のどこを探してもないでしょう。いつからか、核家族が当たり前になり、年配者は若い人に気を使い、若夫婦は子どもに振り回されているという、ほんの数十年で、価値観が全く逆さまになりました。これは、改めて考えると凄いことだとしみじみ思います。

昔が良かったというのではなく、何を失ったかという話です。ズバリ「仰ぐ対象」ではないでしょうか。「阿弥陀さんに聞いてみぃ」とスパッと言える人には敬いの対象があります。自分の物差しはじつに頼りなく、時代と共に変化していきます。変化は若い人のほうが柔軟に対応出来るでしょう。でも、そこには智慧がない。仏さまの物差しを改めて考える必要があるのではないでしょうか。

ご多分に漏れず、うちも子育て期間真っ最中。子供を中心に家庭がまわり始めていることを実感しながら、そんなことをふと思いました。

雪山俊隆(寺報137号)

またお会いしましょう

照行寺第8世住職、神子勉さんが往生の素懐をとげられました。4月末に検査入院されて病気がわかり、手術も無事にすまされたと聞いていたのですが、予後が思わしくなく6月20日お浄土に還られました。6月22日のお葬儀には沢山のお参りがあり、神子さんのお徳を偲んでお別れをしました。組内ご法中、善巧寺総代、仏婦のご協力のおかげさまで滞りなく葬儀が執り行なわれたことをここに報告申し上げます。

親しい方に先立たれることはとても寂しいです。そんな時に耳にする言葉、「しもうてかれたねぇ」。この方言が好きです。なんとも言えない寂しさと温かさを感じます。ただ寂しいだけではなく、人生を全うされたことへの敬意とお疲れさまの意味が込められていると思います。そして、私たち浄土真宗門徒は、「またお会いしましょう」と言葉を添えます。なんと有り難いことです。人ごとならば、「死んだらしまい」で済ませられるかもしれませんが、身内や親しい友人、自分自身のことを思うと、それでは決して済ませらない問題があります。「また会おう」とは、故人を仏さまと仰ぎ、私自身も仏さまにならせていただくいのちを生きているんだという確認をさせられます。人生はリセット出来ない。だけれども、また会う世界を聞く者にとって、仏の名を称える声に故人を感じます。名残り惜しくもこのいのちを終えていく時に、どんな顔をしてお会いするのか。それは、死後に囚われる話ではなく、今を生きる力として私に響いてきます。

雪山俊隆(寺報136号)

あなたのお寺

「会社は誰のものか?」ということが、数年前に話題になりました。お寺の場合は、「お寺は誰のものか」。仏さまをご安置する大切な場所。それは、特定の誰かのものではなく、あなたのお寺であり、私のお寺。みんなのお寺です。しかし、寺側の働きかけも良くないのか、そういった意識をなかなか持って頂けないのが現状です。そこで、来る親鸞聖人の750回大遠忌法要は、これをひとつのテーマとして働きかけていきたいと思っております。

何もしなくても、おつとめだけはできるでしょう。しかし、それでは参加した意味がない。私たちの寺だという意識もない。私たちの先祖が熱い心で建てたこのお寺を見殺しにするだけであります。やはり、お寺はそれではいけない。門徒もそれではいけない。お寺と積極的に関わって、初めてお寺というものが意識の中に残り念仏の声も心に響くようになるのではないでしょうか。

3代前の総代長鬼原勝次さんのお言葉です。
いかに皆さんに来て頂くかは大きな課題で、交流を目的としたパークゴルフ大会、参拝旅行、法要バスの運行、定例行事「お講」のバージョンアップ、花まつりや盆おどり、お寺座ライブなどの催し等、入り口はそれなりにありますので、いずれかにまずはご参加頂きたいです。そして、ご意見をください。個人的には、お経会と写経会をやりたいです。数人でも集まって頂けるなら、すぐにでも始めたいので、どうぞ一声かけてください。ご一緒にお寺を再興していきましょう。

雪山俊隆(寺報135号)

西岡常一さん

最近、心に残った言葉をいくつか紹介します。
法隆寺、薬師寺の宮大工棟梁であった西岡常一さんの言葉です。西岡さんは、平成7年にお亡くなりになりました。

今の大工は耐用年数のことなんか考えておりませんで。今さえよければいいんや。とにかく検査さえ通れば、あすはコケてもええと思っている。わたしら千年先を考えてます。資本主義というやつが悪いんですな。それと使う側も悪い。目先のことしか考えない。

厳しいお言葉ですが、説得力があります。千年先というのが凄いですね。ひとつの道を極めた人の言葉というのは、どの世界にも通じていくようなことを言われます。今のに関連して、続けてもうひとつ。

科学が発達したゆうけど、わしらの道具らは逆に悪うなってます。質より量という経済優先の考え方がいけませんな。手でものを作りあげていく仕事の者にとっては、量じゃありません。いいもん作らなあ、腕の悪い大工で終わりです。飛鳥の時代から一向に世の中進歩してませんな。

えー、おっしゃるとおりですね。
最後にもうひとつ。

わたしらは堂や塔を建てるのが仕事です。仕事とは「仕える事」と書くんです。塔を建てることに仕えたてまつるいうことです。もうけとは違います。そやから心に欲があってはならんのです。

仕事ってなんだろう?ということを耳にすることがありますが、それは文字通り、仕える事。忘れかけていたことをズバリと言い当てられたように思いました。

ラジオ番組「ゆるりな時間」

空華について

このテキストは、平成22年、空華忌の法話を一部抜粋して寺報(134号、135号)に掲載したものです。

利井唯明師

 皆さんこんばんは。ようこそのお参りです。この空華忌は明教院僧鎔和上の祥月命日に合わせての法要でございます。回忌でいいますと227回忌にあたります。僧鎔和上は空華蘆(くうげろ)と言って、ここで塾を開いておられまして、門弟三千人といわれる程の大きな学派になっております。そのお弟子さんには柔遠(にゅうおん)和上、道隠(どうおん)和上のお二方がおられます。京都の大谷本廟に行きますと、勧学峪という勧学のお墓がずらっと並んでいる所があります。

その一番真ん中に僧鎔和上と道隠和上のお墓が一体となって並んでいます。その両脇にずらっと勧学のお墓が並んでいるような形です。この並びは、会読の時の並び方で、問答するときの形式なんです。典儀(てんぎ)といわれる問答をさばいていく司会者のような人が真ん中におられて、両脇のお坊さんの一方が問いを出して、片方が答えていくのです。勧学峪の一番入口のところには、門番のように雪山家のお墓がございます。僧鎔和上が亡くなられた後、道隠和上は大阪のほうに行って塾を開いております。後に、大分、豊前に転居されていかれましたが、この大阪の塾からは松島善譲和上などがお出ましになりまして、この系統を堺空華といいます。一方の柔遠和上の方は、越中の方へ留まっておりまして、この空華蘆を引き継いで講義をされておりましたので、こちらの系統を越中空華といいます。どちらも僧鎔和上の学説を補い、また膨らませておりますから、言われていることの幅が広くなったというくらいに思って頂いたら結構かと思います。柔遠和上のお弟子さんは、行照(ぎょうしょう)というお方が出られまして、この方は今の岐阜県、美濃の行照さんといって空華蘆で学んだあとに岐阜にもどり、塾を開いております。僧鎔和上のお弟子さんは皆優秀ですから、戻った所で塾を開いていきます。その行照さんのお弟子さんにあたるのが、私から言いますと曾々爺さんにあたります鮮妙(せんみょう)さん、利井鮮妙でありまして、今私共がやっております行信教校の創設者の一人になるわけです。

 柔遠和上がこの越中で塾を開き沢山の門弟がおったわけですが、門弟のことを自分の弟子とは言われませんでした。「善巧寺にある僧鎔和上のお墓に参って、空華の学徒としてお弟子になりなさい」と言われました。ですから行信教校でも、3年に1回ここへ学徒が来るわけです。お墓参りをして空華のお弟子の一員に加えて頂く。お弟子といったら大層ですが、そういう経験がありまして、柔遠和上のお言葉が一つのご縁になっておるわけです。

 親鸞聖人も「歎異抄」の中で「私は弟子一人も持っておらん」とおっしゃったでしょ。あれと一緒ですな。私というものが弟子をとるというものでは決してない。「私は師匠の仰せに順っておるだけなんだ」そういう姿勢でしょうね。私が私がと言うているのが正しいかといったら、そうじゃなかった。そういうことで、この度、空華の里であります善巧寺様にご縁をいただきまして、私もその一人としてお話をさせて頂くわけです。

 他力ということが浄土真宗のひとつの大きな特徴であります。しかもこの他力という言葉について、大変奥深く研鑽して学説を立てていったのが空華学派になるわけですね。空華学派の特色としましては、他力というものは絶対他力といわれるようなものである。我々が日常で使う言葉で言いますと、自分の力以外のものの力を借りることを他力と考えますね。実をいうとそれは大きな間違いなのです。そのことを親鸞聖人は『教行信証』のなかでしっかりと言っておられるんですが、お弟子さんの中にはやはり大きな誤解をされていた方がたくさんおられたんです。
 法然聖人は選択本願念仏ということ仰り、それはいったいはどんなお念仏であったかといいますと、仏教を大きく分けますと、聖道門と浄土門とに分かれます。これは道綽禅師というお方が仰ってくださいました。その聖道門というのはどういった教えかと言いますと、この身このままこの土で悟りを開こうという教えです。此土入聖(しどにっしょう)の法門といわれます。それに対して浄土門というのはお浄土に生まれて証を開こうとするんですから、彼の土で証果を得る道ということで彼土得証(ひどとくしょう)といわれる法門があります。道綽禅師という方が今この末法のおいて、凡夫であるこの私は聖道門では決して悟りを開くことができないから、浄土門に帰依しなさいよとお示しくださったわけでございます。
 そして法然聖人はその浄土門においてどんな行いによって浄土に生まれていくのですかといった時に、雑行と正行とありますよと仰るわけです。雑行というのは雑と書いてありますが、まじっていると読むんです。まじりっけがあるということです。正というのは正しく往生浄土に向かう行ということです。どのように違うかといいますと、端的に言いますと、阿弥陀様に関係する行と阿弥陀様に関係のない行ということです。たとえばお経を読むことひとつにしましても、お経にはいろいろあります。般若心経であるとか法華経であるとか涅槃経であるとか、我々浄土真宗でいえば無量寿経であるとか観無量寿経であるとか阿弥陀経とかいろんなお経典があります。その中で阿弥陀経のお浄土に参るのに法華経読んでどないするのという話です。もちろん法華経の中にも阿弥陀様は出てまいります。しかしながらそれはお経全部を阿弥陀様の本願のこころを説かれておるのかという一部分なんですね。全部ではないんです。本来は法華経であれば大日如来によって法華の教えですね。真如への悟りを開く道が説かれております。お浄土に生まれていく道が説かれているわけではないんです。
 皆さんよくご存じなところでいうたら般若心経というお経がありますね。般若心経というのは真如のあり方、いわゆる智慧のまなこを開いていくことが書いてあるんですその智慧のまなこをひらくお経典を読みながらお浄土を願うというのは方向が違いますでしょ。行き先が違いますわな。目的が違います。だからそういうものは雑行というんですよ。阿弥陀様のお浄土にまいるんだったら阿弥陀様の御本願のお心、阿弥陀様のお浄土に生まれていくお経典を読みましょうというのが正当ですわな。それが正行といわれるものです。

恨は何度もやってくる  

作家の五木寛之さんが話されていた、韓国に伝わるお話を紹介します。

お前が大人になると不思議な経験をする。あるとき何の理由も原因もないのにふと心が翳って無力感を覚え、心萎えた状態に落ち込んでしまう。その状態では血のつながった人でも赤の他人のように感じ、職場の仲間や幼馴染も自分の敵のように感じてしまう。自分の持っている将来への希望も取るに足らないもののように感じ、自分の存在までもどうでもいいと感じる。このような状態にはじめて遭遇すると誰もが不安を覚え精神がおかしくなったようになる。向こう気の強い人間はこんなものはがんばって乗り越えろといい、気楽な人は楽しいことに気を紛らわしてやり過ごそうなどという。しかしこのような感情に落ち込んだ時には何をやっても無駄なんだ。

これは恨(ハン)というすべての人のこころに存在し、一生人は恨を抱えて生きて行き、恨は時々目をさまして訪れてくる。人は一生のうちに何度も恨を体験するもので、恨がやってきたときには、身をすくめて納得する、肩を落とし、背中を丸め、しゃがみこんで何度も何度も大きなため息をつく、するとほんの少し肩の重さが軽くなる。そのときに立ち上がって歩けばよい。

世の中、気を紛らわすものは溢れていますが、それは問題を先送りするだけのことでしょう。仏教は、漢方のようなもので、特効薬のように即効性はありませんが、腰を据えて向かい合えば、きっと糸口が見えてくると信じています。

雪山俊隆(寺報134号)

懺悔

「またやってしまった…」そう思った時、皆さんはどうやって反省されていますか?キリスト教では「懺悔」(仏教ではザンギ)、もしくは「告解」というものがあって、聖職者に自分の罪を告白し、神のゆるしを求めます。マザーテレサという方は、生涯を貧困に苦しむ人たちや死を目の前にした人、身寄りのない子供たちと共に過ごしました。その方がこんな言葉を残しています。

主よ、私は思い込んでいました。私の心が愛にみなぎっていると。でも、心に手を当ててみて、本音に気付かされました。私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思い込んでいました。私は与えるべきことはなんでも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。私のほうこそ、与えられていたのだということを・・・

と続きます。菩薩行のような生涯を過ごした方が、このような言葉を残されていることに胸を打たれます。親鸞聖人は、仏さまの教えを通して、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず…」と言われます。誰かを批判することはたやすいことですが、心から我が身を恥じるということは、そこに救いがなければ苦しいばかりで、気付いたことへの自己陶酔、もしくは開き直るしかないように思います。深い懺悔というのは、同時に底知れぬ仏さまの救いを物語っています。

雪山俊隆(寺報133号)

いのちはどこにあるのか?

いのちはどこにあるのか?そんな問いを永代経のご縁で日置先生がお話くださいました。私のいのちは、私のものと考えて、今ここにあるものとしか受け取れません。だから、このいのちが無くなれば、すべてが終わりだと思ってしまいます。これは、子供を授かると少し見方が変わってきます。私以外にもいのちはありました。痛みの共感や喜びの共感がダイレクトに伝わってくるようないのち。仏さまの目は、それが我が子だけに限らず、すべてのいのちに注がれているんだと言います。すべてのいのちに、我がいのちと同様の重さを感じられるなら、すでに死という考え方は、私の思うようなものではなくなります。

そして、仏さまは、私たちのいのちを、死んでいくいのちや滅んでいくいのちとは見ていません。生まれていくんだよ、と言われます。仏さまという尊い姿に生まれていくいのちを今生きていると思い、我が名ナモアミダブツを称えながら、その人生を生き抜きなさい、と。仏さまになるということは、すべてのいのちに痛みの共感と喜びの共感が生まれます。それが本来の私のあるべき姿と受け取ります。死を滅びとしか受け取れなかった私に、新しいいのちの息吹を与えてくださいました。

現代の常識は永遠に続くものではなく、時代や場所で変化していきます。変化していく考え方は本当の頼りにはなりません。仏法を聞くということは、私の常識を超えた言葉との出会いでもあります。

秋は報恩講と空華忌の二大法要が勤まります。どうぞ時間を割いてお参りください。

(寺報129号)