名CMその後

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


テレビのコマーシャルというものは、わたしたちの“もうちょっと、もうちょっと…”という餓鬼道の心を、とても上手にくすぐるもののようであります。“新発売!”とわれると、どうしても、それを買わないと時代遅れになってしまうような気になるし、”読んでから見るか、見てから読むか”といわれると、ヤメトコという気になかなかなれない。おもしろいなあと思う半面、おそろしいものだなあとも思うわけですが、そのおもしろくて、おそろいいコマーシャルをこしらえている人は、いったいどんな人たちなのか、と興味をそそられた時代がありました。そこでハッパフミフミなんてことばを流行させたおじさんに会いにいったり、常に時代の先取りをと考えている大センセイにインタビューしたり、また、ご一緒にそんなコマーシャルを作ったりしていたことがあるんです。

そんな関係で、いまでも広告界で忘れられない人がたくさんいるわけですが、でもこの人のことは、、よく思い出します。藤岡和賀夫さんという、広告会社の方なんですが、名前をいってもおわかりにならないかもしれません。しかし、これならご存知でしょう。あの“モーレツからビューティフルへ”そして”ディスカバー・ジャパン”の名キャッチフレーズをつくった人なんです。

世をあげてモーレツ時代といっていたころ、ふと見かけたビューティフルなコマーシャル。新聞記者をしていたわたしは、これぞ時代の先取りと、このコマーシャルに飛びついた。ガツガツ働くばかりがノウじゃない。世の中、そして人生は、ビューティフルにゆかねばという藤岡さんのことばに、大いに共感したものでした。

そして、その藤岡さんから次に出たのが、ディスカバー・ジャパンだった。カタカナだけではもの足りないと、日本語のひとことがはいった。“美しい日本と私”—名付け親は川端康成さんでした。わたしは、この川端さんのひとこおTにひかれました。“美しい日本”だけならどうってことないのですが、それにもう一つ”私”ということばがはいっている。これにひかれたんです。

で、そのことを藤岡さんに聞いてみた。
「これ、国鉄のコマーシャルでしょ」
「そうですよ」
「なかなかいいですね。ディスカバー・ジャパンはわかる。美しい日本もわかる。どちらも国鉄でめんどう見きれますからね。でもね、そのあとに、”私”ということばがはいっている。これは、どうなんでしょう」
「どうっていうと?」
「いや、美しい日本までは国鉄さんでけっこうだけど、私となると、これはもう国鉄さんではすまくなりませんか」
「そうですね」
「このコマーシャルでよろこんでいるのは国鉄だけじゃなくて、ひょっとしたら、宗教界じゃないかなあ」

そんなことがあってしばらくすると、国鉄の駅にこんなポスターがお目見えしました。

ディスカバー・ジャパン
美しい日本とわたし 目をつむって何をみよう
心のふるさと お寺の宿

民宿から寺泊というわけです。そして、あれからもう何年かたって、ディスカバー・ジャパンは衣替えして、”もう一枚のキップから”となってしまいましたが、どうなんでしょう。美しい日本を見てまわる旅行ブームは過ぎ去ったかもしれないけど、”私”の問題はまだ過ぎ去ってはいないのではないでしょうか。目をつむって、あなたはいったい何を見たか。ほんとうのわたしはいったい何なのか――時代の流れと電波の波に押しまくられて、ついうかうかと、わたしたちは、このわたしの問題を忘れてしまったのではないでしょうか。CMふうにもう一度、

母さん あの時の わたしはどこにいってしまったんでしょうね
ホラ あの ”美しい日本と私”と口ずさんでいたときの あのわたしの問題ですよ


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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