スプーンはおいしさを知らない

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


けは、台所でお料理に使う道具について、すこし考えてみましょう。まずは包丁です。マナ板トントン…朝のお汁の身をきざむのに、いそがしく動いてくれる包丁―長い間使って、もうすっかりあなたの手になじみ、体の一部のようになっていることでしょう。

その包丁のことなんですが、以前、国立国語研究所の所長をなさっていた、岩淵悦太郎さんに、こんな話を聞いたことがあります。
「わかるということばの語源なんですがね。これは、分ける、分かれるということばと同じ意味だったようです。つまり、刃物で切り分けて、はっきりと区別することなんです。何が善か、何が是か、見分けがつけば”わかった”ということになるわけです」

いま、あなたは包丁を持っている。そして、魚を三枚におろしているとします。見事な手さばきで、これは身、これは頭、これは骨、これはワタ、と切り分ける。それがつまり、わかる、ということだというわけです。なるほど、これはよくわかります。

しかし、そのとき、わたしは、また、ハテ?と思った。刃物で切り分けたのは自分であり、それに判定を下したのも自分でしょう。だとすると、わかった、ということは、自分の包丁で、勝手に相手を切り分けただけだということになる。ちょっとおそろしい気がするんですよ。そうじゃないですか。包丁の刃先は常に外に向かっていて、バッタ、バッタと目の前の相手をなぎ倒しているんです。ところが、その包丁を自分に向けて、切り分けてみたことがあるのか、ないのか…。

世の中で、わかったような顔をしている人は、おそらく、自家製の大きな刃物でもって、相手かまわず切りまくっている人に違いない。そんな人は、小さなメスでもいいから、まずは自分のハラを切り開いてみなくてはなりませんね。このわたしは、本当のわたしをかわっているのかどうか…と。

スプーンは、おいしさを知らない―こんなことばが、古いお経にあります。スプーンだけじゃない。おはしも、お茶わんも、お皿も、台所にあるお料理の道具は、みんな、おいしさを知らないわけです。<あたりまえじゃないか>と思われるかも知れないが、これがまた、なかなか味わいの深いことばなんです。たとえば、あなたが、台所に立っていそがしく朝のごはんの用意をしていたとする。そんなとき、こんなことを思うことはありませんか?
<あーあ、くる日もくる日も、おさんどんばかり。わたしって、主人やこどもの世話をする道具でしかないのかしら…>
もし、こんなことを思ったとしたら、あなたは、人生のおいしさを知らない、道具のような人間になってしまっているということになるのです。先の一句の次に、対句として、こんなことばがあります。
「かしこい人は、あたかも、舌が料理の味をいち早く知るごとく、人生のおいしさを、すみやかに知るものである。」
食卓の主役は、料理でもなく、道具でもなく、それを味わう舌であります。スプーンやおはしは、いそがしく働いて、ごちそうを口へ運ぶだけ。かわいそうに彼らは一度だって、おいしさを味わったことはないのです。

あなたは、生活の道具になり下がってはいませんか。ご主人の世話係、そして、こどもの保育係…それだけであってはならない。あなたは、あなた自身であって、あなた以外の何者でもないのですから。いそがしく働くのもいいが、ただ、その時間をムダに過ごすのではなく、人生のおいしさを敏感に味わう舌を持っていただきたい。人生のうま味というものは、日々の暮らしの中に、いくらでもころがっているものなのですから。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

<-目次-「お茶の間説法」>
お目覚め説法
いい天気ってどんな空?
カガミよかがみよ鏡サン
心のファウンデーション
決めた!はヤメタのはじまり
だいどこ説法
スプーンはおいしさを知らない
ひとりいきいき
いただきます、してますか?
おかげさま?おカネさま?
るす番説法
あなたのダンナは本当の旦那か?
ベルの音いろいろ
長屋とマンション
ひとりよりもふたり
いどばた説法
浜美枝さん
六道はいずこに
この世はあなたのままになるか
天上界は二分半
ようこそ、ようこそ
居直るか、痛みを感じるか
千々に乱れてグチばかり
生きがいと死にがい
名CMその後
ストーブで心は暖まらない
ハウツー説法
お布施は出演料じゃない
焼香は何のために
仏だんの意義
ありがとう、さようなら
お茶の間説法
焼きイモの味
女のよりどころ
男は富貴
煩悩はいくつある
チャンネル説法