ハウツー説法

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


わたしの住んでいる富山県宇奈月町では、さいきん、婦人会の方たちが中心になって、生活見なおし運動というのをさかんにやっています。節約時代の折から、なるべくムダなことはやめようではないか、ということで、中元、歳暮、香典返しの廃止とか、結婚式の披露は華美にならないようにとか、いろんな取り決めをしています。主旨は大いにけっこうで、これが実行されたらわたしたちの生活はずいぶんスッキリするんじゃないかとも思うのですが、その中に、仕事柄ちょっと気になることがありました。

この運動を進めるためのいろいろな取り決め事項がありまして、それが印刷されて各戸に配られたんです。で、読んでみますと、その中に「一つ、法事は砂糖一袋ていどとし…」とある。一瞬、わたしは首をかしげた。
(法事は砂糖一袋とは、いったいどういうことなんだろう?)
もちろん、すぐにわかりました。
(ナールホド。これは法事のあとで、みんなに配る引出物のことだな。そういえば、このあたりはずいぶん引出物が多くて、ナベカマからポット、酒器セット、茶器セット、毛布にシーツ…まるで百貨店の大売り出しみたい。それを簡略化して、砂糖一袋ぐらいにすれば、少しはラクになるということか)

ここまでわかったところで、こんどは次の疑問がわいてきました。
(ところで法事は砂糖とスッと結びつけてしまっているけど、いったい法事は何のためにするのかご存じなのだろうか?)

たまたま、その婦人会に呼ばれて、話をしろということになりまして、わたしはまず、このことを聞いてみたんです。
「ねえみなさん、生活見なおし、大いにけっこう。法事の引出物は砂糖一袋ていどというのもけっこう。しかし、どうなんでしょう。若い奥さん方は法事というのをいったい、なぜするのか、ご存じなんでしょうか」
「いや、それは、やぱり昔からしていることだし、先祖供養とかいろいろ意味があると思うんですけど…今日はそんなことじゃなくて、その法事でわたしたちが何をどのようにしたらいいのか、お作法みたいなことをちょっと教えてほしいと思いまして…」

さっきは法事からスッとお砂糖へ飛び、こんどは法事からスッとお作法へ飛ばれた。近頃の奥さん、ずいぶん飛ぶのがお好きなようです。そこで、こちらも負けずに、お砂糖とお作法はポンと飛ばして、いったい法事はなぜするのか、という原点にかえって話をすすめることにいたしました。

結論から申しますと、法事というのは、身近な亡き人―先祖のおかげで、いま、わたしが生かされているという、よろこびと感謝の表現であります。ですから、こういうことをしなくてはならないというしきたりや、きまりに全くこだわる必要はありません。

よくあることですが、法事というのは、亡くなった先祖の成仏を願う儀式であると思い込み、坊さんにお経を読んでもらって、そのお経の功徳によって、六道をさまよっている先祖の方々を、すこしでも良いところへやってもらおうと考える。そして、お経が終わると「亡き父も、本日のありがちお経を聞いて、さぞかし草葉のかげでよろこんでいるでしょう」などとおっしゃる。これは少々おかしいとわたしは思う。先祖は尊ぶべきものという意識を持ちながら、逆にその先祖を草葉のかげに追いやっている。これは先祖に対して失礼じゃないでしょうか。

問題は法事をつとめられる側でなく、つとめる側、このわたしなんですよ。このわたしが、先祖ばかりではない、あらゆる人たちのおかげによって、いま、いきいきと生きている。生かされている。そのよろこびと感謝のありったけが、法事という形で表現されてゆくわけです。しきたりやこだわりにしばられず、もっと自由にそのよろこびをあらわされてはいかがでしょう。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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