あなたのお寺

自分が生まれた年(昭和48年)の報恩講芳名帳を見てみると、382名の名前が記されていました。現在のおよそ4~5倍の人数です。そこに記されている方々は、おそらく子供の頃に親に連れられて来た人や、嫁いでから姑に促されてお寺へ来ていた人たちが多いと思います。昔は村の拘束力が強く、お寺参りもそのひとつだったと思われますが、数10年通い続けるうちに「私のお寺」という気持ちを育んでおられたことでしょう。

参拝者のピークはさらにさかのぼり、本堂がひと回り大きなサイズで再建された明治初期頃と予想されます。本堂を現在の大きさにしたのは、それだけの人数を見込んでいたはずです。そういう意味では、参拝者の減少は今に始まったことではなく、百年単位で言われ続けてきたのかもしれません。

住職を継職して20年ほど経ちますが、その間、参拝者の減少はずっと言われ続けてきました。その言葉は「住職がんばれ!」のエールだと受け取っていますが、ひとりではとても抱えきれる重さではないので、どうぞ手をお貸しください。他人のお寺ではなく、あなたのお寺です。

お講をリニューアルしたのは参拝者が2~3人なったことが一つの要因でした。ほぼゼロからのスタートになったので、人が少なければこちらの誘いと魅力が足りないことに尽きます。おかげさまでとても清々しい気持ちでやりがいを感じています。どうやったら振り向いてもらえるのか。今後も試行錯誤を続けていきます。

雪山俊隆

ほっこり法座 シーズン3

ほとけさまのお話とお寺のごはんを味わって、ココロとカラダのデトックス。2019年の「ほっこり法座」は2月1日からスタートします。

今回はとても盛りだくさんの内容です!体験型の写経と和綴じのワークショップ「マイ経本作り」、他分野からの視点で浄土真宗を語ってもらう林口砂里先生、宗門校「行信教校」出身の注目の女性僧侶・葭田先生、広島からは歌う僧侶が法を説く!佐藤知水先生、そしてレギュラー講師の日下先生と西塔先生が講師をつとめます。

お申し込みはこちらからどうぞ。
>> ほっこり法座申込みフォーム

2月1日(金)11:00~14:00
マイ経本作り~写経と和綴じ~
和綴じ講師:豆本堂 堀麻由美先生
参加費:2,000円(材料費込み)
定員:20名
午前中に写経、昼食後に和綴じのワークショップを行います。定員に達し次第締め切ります。
※終了時間と会費が通常と異なりますのでご注意下さい。
【豆本堂】
富山市岩瀬に工房を構え、2010年より製本・豆本教室を県内3ヶ所にて定期教室を開催。今回は和綴じ本のワークショップを行い、表紙には友禅和紙、カラフルな糸でお好きな組み合わせで作ることができます。
公式サイト https://www.mamehondo.net

2月16日(土)11:00~12:30
ゼロから味わう仏教
講師:日下賢裕先生
参加費:1,000円
レギュラー講師、2回目です。仏教の基礎を学びます。
【日下 賢裕(くさか けんゆう)】
昭和54年生まれ、石川県加賀市・恩栄寺。浄土真宗本願寺派布教使。広島大学文学部卒、中央仏教学院卒。現在、インターネット寺院「彼岸寺」代表も務め、様々な仏教情報の発信にも携わる。
>> 恩栄寺 http://onneiji.net/
>> 彼岸寺 https://higan.net/

3月1日(金) 11:00~12:30
浄土って本当にあるの?
講師:西塔公崇先生
参加費:1,000円
レギュラー講師、2回目です。素朴な疑問から仏教を掘り下げてお話くださいます。
【西塔 公崇】
昭和49年生まれ、富山県富山市・金乗坊。浄土真宗本願寺派輔教。龍谷大学大学院卒。浄土真宗本願寺派宗学院研究員。

3月16日(土)11:00~12:30
浄土真宗と私の仕事
講師:林口砂里先生
参加費:1,000円
他分野の視点から浄土真宗を語っていただきます。
【林口 砂里(はやしぐち さり)】
富山県高岡市出身。アート・プロデューサー。ワタリウム美術館、水戸芸術館アートセンター、P3 art and environmentなどでの勤務を経て、2005年に(有)エピファニーワークスを立ち上げる。現代美術、音楽、デザイン、仏教、科学と幅広い分野をつなげるプロジェクトの企画/プロデュースを手掛けている。浄土真宗本願寺派「子ども・若者ご縁づくり推進室」のアドバイザーをつとめ、本願寺の学びの場「スクール・ナーランダ」を企画する。現在は東京と富山を行き来しながら、地域振興プロジェクトにも取り組んでいる。
>> エピファニーワークス http://www.epiphanyworks.net/

4月1日(月)11:00~12:30
救いってどんなこと?
講師:葭田誓子先生
参加費:1,000円
宗門校「行信教校」出身の注目の若手布教使です。
【 葭田 誓子(よした せいこ)】
昭和57年生まれ。大阪府摂津市・明教寺。浄土真宗本願寺派布教使。龍谷大学大学院文学研究科(仏教学専攻)修士課程修了、行信教校卒業。映画や小説などの物語を通したわかりやすい仏法のお話を模索中。築地本願寺・銀座サロンにおける、映画を題材にした法話の集い「シネマ法話」に参加。

4月16日(火)11:00~12:30
まことのしあわせ
講師:佐藤知水先生
参加費:1,000円
歌う僧侶が法を説く!溢れんばかりの仏様への想いをお聞きください。
【 佐藤 知水(さとう ちすい) 】
昭和53年生まれ。岡山県井原市光栄寺。広島県福山市在住。布教使。元西本願寺布教研究専従職員。仲間と立ち上げたサイト「メリシャカ」で、音楽と法話のコラボイベント「メリシャカライブ」を企画し、僧侶バンド「おまけびと」ではボーカルと作詞を担当する。光栄寺では仏教講座やおてらヨガを企画し、築地本願寺主催の銀座サロン「シネマ法話」にも関わっている。
>> 光栄寺 http://koueiji.net
>> メリシャカ http://www.merry-shaka.com

ほんこさま

10月は報恩講、通称「ほんこさま」の時節です。浄土真宗の開祖、親鸞聖人のご法事をつとめる大切なご縁です。お寺の報恩講ではお仲間の寺院が参り合う風習が残っており、若栗の真照寺、発願寺、荻生の称名寺、生地の順昌寺、そして浦山善巧寺、法輪寺、照行寺の計七ヶ寺でおつとめします。ご門徒一軒一軒でつとまる「ほんこさま」は、9月の音沢地区から始まり、翌年3月の浦山地区まで続きます。多くの寺院では10~12月の間に集中してほんこさまをつとめていますが、善巧寺の場合は、急な葬儀や法事にも午後から対応出来るように、ほんこさまは午前中で終わるようにしています。そのため、日数は長くなっているのです。

年に一度の尊いご縁ですので、赤いろうそくを推奨しています。また、首にかける式章もぜひご着用ください。お仏壇やお寺にお参りするということは、阿弥陀如来が「いつでもどこでも今ここにまします」ということを受け取る時間です。いつでもどこでも働いてくださる仏さまですが、残念ながら日々の生活におわれる私たちはそれを忘れて過ごしています。
「私はしばしば仏を忘れるが、仏は私を忘れない。」
先立たれた人たちが仏さまとなり、合うはずのなかった私の手を合わさせてくれる力となって、今ここに働いていると受け取りましょう。ひとりだけどひとりじゃない世界があります。その心を聞かせていただくのがご法話です。報恩講へぜひお参り下さい。

雪山俊隆(寺報169号)

ほっこり法座シーズン2

仏さまのお話と、お寺のごはんを味わって、「こころ」と「からだ」のデトックス。10月1日(月)より「ほっこり法座」のシーズン2がはじまります!

今回は、千葉県より西原龍哉先生と富山市の若林浄正先生が初参戦です。
この法座は、初めての方にも入りやすいように心がけていますので、どうぞどなたもご参加お待ちしております。参加希望の方は、料理の準備がありますので、こちらよりお申込みお願いします。

※お電話の場合は、善巧寺(0765-65-0055)までお願いします。

それ以外にも、秋は報恩講や空華忌、仏教講座「正信偈に学ぶ」など、仏法を聞く機会が盛りだくさんです。仏さまの教えを通して実りある日々を過ごしましょう。

問いの共有

お寺の中心は、「仏さまの教え」です。その教えを守るために本堂があり、僧侶がいます。もし、教えが途絶える時が来たら、それはお寺の終焉でしょう。最後まであがけるだけあがいて悔いのないように生きたいです。そのあがきのひとつとして、5月から定例行事のお講を「ほっこり法座」という名でリニューアルしました。親交のある30~40代のお坊さんを招いて仏さまのお話を聞きます。参加者には毎回アンケートを配布して、食後にはその日の講師も同席でコーヒータイムを設けています。文字でも言葉でも、思ったことを出してもらう場を大事にしたいと思っています。

お寺に来ると法話やおつとめはもちろん、それ以外にも五感をとおして様々な情報を受け取っています。受け取りっぱなしでは時に消化不良(ストレス)になってしまう場合がありますので、その気持ちを外に出すことは大切です。耳を傾けるといろんな疑問が聞こえてきて、「煩悩はどこまで許されるの?」「人間は死なないと仏になれないの?」「子や孫にどうやったら伝えられる?」など、とても興味深いです。

蓮如上人は、「物をいえいえ、物をいわぬ者は、おそろしき」とおっしゃっていますが、その意味が少しわかってきたような気がします。答え探し以上に、問いを共有することにこそ大きな意味があるのではないでしょうか。
「希望は絶望を分かち合うこと」
小児科医の熊谷晋一郎先生の言葉にも通じます。毎月の定例だからこその距離感を大切にしていきます。

(寺報168号)

ほっこり法座Q&A

5月16日に行われた「ほっこり法座」のアンケートの中でいくつかご質問をいただきました。日下賢裕先生より丁寧なお返事を送ってもらいましたので、許可をいただき一部ここに共有します。



お寺の行事で朝事(あさじ)とありますが、これも仏教語ですか?

朝のお勤め(お参り)をお朝事と呼びますね。仏教語、というわけではありませんが、私たちもそのように呼ばせていただいております。正式には、晨朝勤行(じんじょう ごんぎょう)といいます。かつては一日を6つに分けて、一日六回のお勤めを行っていました。今で言う朝の時間が晨朝と呼ばれたので、晨朝勤行と呼ばれています。



ナモアミダブツと称える時、なぜ「ツ」はハッキリ言わないんですか?

「ツ」は唾が出やすい言葉で、仏さまの前では失礼にあたるということから、ハッキリ発音しないと聞いたことがあります。古来より、お経の正式な読み方には、口からではなく鼻から息を抜いて発音する「鼻音(びおん)」と呼ばれる唱法があります。



善人と悪人とは同時にあるものでしょうか?

一般論で言いますと、私達には善と悪の両面があるのだと思います。
仏教的に考えますと、善人とは悪を為さない人と言えますから、同時には存在しません。また仏教で言う悪というのも、犯罪を犯すようなことではなく、例えば嘘をついたり、綺語(お世辞を言う)、悪口(汚い言葉を使う)なども悪い行いとなります。行動に移さなくても、人を傷つけようと心に思うことも、悪い行いです。ですから、仏教で言う悪を為さない、ということは実はとてもむずかしいことです。

とは言え、悪を為す人であっても、善い行いもできるはずなのですが、清らかな水に一滴でも毒が混じればそれは毒水となってしまうのと同じように、私たちの行いは、毒が混じった雑毒の善、と呼ばれたりもします。完全なる善を為す、というのは、実はとてもむずかしいことと言えるかもしれません。

また「歎異抄」で言うところの善人・悪人は少し意味合いが異なっておりまして、善人とは、自分の行いを振り返らず自分を善人だと思い、自分の力で仏となれると思っている人、悪人は、自分の行いを振り返って、自分の悪を見つめ、自分では仏となるなど到底できない、阿弥陀仏の力によるしかないとする人、という理解です。ですので、こちらも善人から悪人に、ということはあっても、同時に、ということはないかと思います。



真実に目覚めることができるでしょうか?

真実に目覚める。言葉で言ってしまいますととても簡単なようですが、なかなか難しいことです。知識として知ることはできるかもしれませんが、それを「我が事」として行いにまで反映されるということが、特に私たちには難しいのです。例えば、怒ることは煩悩による誤った行為である、という教えを聞いても、実際に怒らないようにできるわけではありません。目覚めるということは、頭で理解することではなくて、行いにまでしっかりと結び付けて、100%徹底できる、ということです。

その難しさに気づかれたのが、法然聖人であったり親鸞聖人でした。そんな私が、目覚めていけるのか?ということに悩まれて、そう徹底できない自分のために、すでに目覚められた阿弥陀仏という仏さまが、私を目覚めたいのちとして迎えとりますよ、とはたらいてくださっている。その阿弥陀仏という仏さまのはたらきに出会われて、私たちのところに今ありますのが、浄土真宗という教えになります。ですから、自分の力では目覚めることができなくても、目覚めたいのちとならせていただける教えというのが、浄土真宗ということになります。

「ほっこり法座」スタートしました。

仏さまのお話と、
お寺のごはんを味わって、
「こころ」と「からだ」のデトックス。

5月1日と16日、定例行事の「お講」をリニューアルして、「ほっこり法座」が始まりました。北日本新聞に大きく掲載していただくというサプライズもあり、幅広い世代といろいろな地域の方々が集まってくださいました。70代を中心に30~40代の方も参加してくれたのはとても心強いです。参加人数は、20~30名で目の届くちょうどよい人数となりました。年に1回の行事や、大人数の行事では出来ないコミュニケーションを大切に心がけていきたいです。

 

プログラムは、最初に10分ほどのおつとめ(読経)を行い、45分ほどの法話を聞きます。法話後は、場所を移して当番特性の郷土料理(精進料理)「お寺ごはん」です。今回に合わせて机とイスも新調しました。月に2回の定例なので、およそ1時間半のコンパクトサイズです。その後、希望者には住職がガイドする天井画観覧と、自由参加で会館にてコーヒータイムを促します。図らずもその時間がとても実りあるものになりました。

「法座(ほうざ)」とは仏さまのお話「法話(ほうわ)」を聞く集まりを言いますが、一方的に聞くだけではなく、どのように受け取ったかを話し合うことも含まれています。無理に話すこともありませんが、少しでも口にしてみると自分の受け取り方や人の受け取り方の違いが見えてきて視界が広がると思います。「ほっこり法座」では、毎回アンケート用紙も配布し、そこにも予想以上にたくさんの言葉を聞かせてもらいました。一部紹介します。

・時代に追われなんでも科学的に解明が進み大切なことを忘れていた気がします。私のための教え、心に刻みこれからも教えをいただきたいです。(30代女性)
・とても良い企画です。定年退職した方にもっと参加してほしいです。(60代男性)
・雰囲気がとても良かったです。食後のコーヒーまでいただきまして、現代風のお寺さんという感じを受けました。(70代女性)
・3本の指の話は子供にも伝えたいと思います。(30代女性)
・汗をかけばシャワーを浴びて身を清めますが、今日の法話を聴聞させて頂くご縁により、心を清めることができました。又、ご奉仕の方々の心づくしの昼食に恵まれ、感謝感謝です。このほっこり法座、本当にありがたい行事、仏縁です。(70代男性)
・初めて参加しましたが、本当にほっこりとした雰囲気で仏教の教えについて聞くことができました。料理もおいしく、たくさんいただき、ありがとうございました。(40代女性)

次回は6月1日(金)です。
老いも若きも、仏教を聞くにはちょうどよい「適齢期」。
あなたのご参加をお待ちしております!

ほっこり法座
会場:白雪山善巧寺
参加費:各1,000円
お申し込みは電話(0765-65-0055)or 申込みフォームからどうぞ。料理のため、開催の3日前までにご連絡ください。

<時間割>
10:30~10:50 受付
11:00 おつとめ
11:15 法話
12:00 お寺ごはん
※昼食後は自由参加で「天井画ガイド」or「会館コーヒータイム」を促します。

いのちを考える/梯實圓

このテキストは、昭和62年に行われた「行信教校OB会並びに黒西組内研修会」での梯實圓和上の記念講演を抜粋したもので、善巧寺の寺報46号(昭和63年)に掲載されました。

いのちというものを考えてゆきますときに、まず、私は「生命」と漢字で書く場合と「いのち」とかなで書く場合と、ちょっと区別をしておきたいと思うのです。と申しますのは、この「生命」というものの一番小さな単位として考えられるのは、細胞でございましょう。もちろんさらに小さく分子、原子、素粒子・・・ということになるかもしれませんが、いわゆる生命現象としてみますと細胞ということになるでしょう。単細胞動物から多細胞で組織をつくり、それが機関というものをつくりあげ、それが系を、またそれの統合されたものとして「個体」というものが成立するわけです。ゾウリ虫からイヌ、ネコ、人間にいたるまで、こうした細胞のあつまりが分裂し、そして死骸を残して終わってゆきます。

これもまあ生命現象といえばいえるのですが、どうも私たちが、「いのち」という場合は、もう少し違った感じじゃないかと思うんです。例えばね、私がふと、目の前に、木から落ちて死んでいるセミの死骸を見ても、あまり心が動きません。「あ、セミが死んでいるな」というぐらいです。けれども、それが自分の子供だったらどうか-「あ、子供が死にかかっている・・・」なんて気安いものじゃないでしょう。その時に、いのちが失われるという同じことでも、セミと自分の子供とは全然違うでしょう。まあ、そんなところを私は「生命」と「いのち」と区別しているんです。まあ、このように「いのち」というものは、平常はなんとも意識しませんが、失われかけたときものすごい実在感をもって、私たちにせまってくるんですね。

さて、そこで「いのち」というものを考えますときに、まず、なんといっても「かけがえがない」ということが挙げられるのではないですか。かけがえのなさというのが、いのちを特徴づける一つの性格でございましょう。そして、いのちというものは、常に「具体的」なものである、といえましょう。さらに、いのちというのは、「一回きり」であります。そうでしょう。この私という人間がもう一度、この世の中へ出て来ようと思ったら、宇宙の150億年の歴史をもう一度くり返さないと出て来ない、いや、それでも無理でしょう。そうしますと、私というものの存在は二度と再び出現しないという、一回きりのものだということ、わかるでしょう。だから、その一回きりであるからこそ、失われてゆくことに対する無限の哀惜というものがわいてくるわけなんです。そう、いのちを惜しむということは、一回きりで、かけがえのないということに対する、正確な対応の状況であろうと思うのでございます。

そこでまず、このいのちは「かけがえのないもの」であるということを考えてみたいのですが、むずかしいこと抜きにして、いのちの特徴として、代わりがきかないということなんです。私のいのちは、私以外に生きてくれる人はいません。ちょっと、今日は忙しいので、私の代わりに死んでくれ、なんてことはできないんです。私の死は、私以外に死にようがない、この一つだけでも私たち、はっきりしておいたほうがいいと思うんです。私以外に生きようのない私のいのちならば、私なりに納得のゆく生き方をしなかったら、いのちに対する責任が果たせないと違うか?このいのち私以外に死にようがないならば私の死は私らしく死んでゆこうという・・・そういう覚悟があってしかるべきじゃないかなと思います。かけがけのないいのち・・・言葉で言えばわかるんですが、普段、私たちは、かけがえのあるものばかり見ているのと違いますか?代わりのきくものばかりに目がいってしまっているんじゃないですか?

私、今日は講師としてここへまいりました。で、みなさんは講師の梯、というふうに見て下さる。しかし、この講師という方は、いくらでも代わりがあるんです。私が今ここで倒れても、あとはちゃんと誰かが代わって講義をしてくださるでしょう。けれども、この私、梯實圓には代わりはないんです。えらいややこしいこというようですけどね、これ一ぺん考えてみましょうや。

わかりやすくいいますとね。そうそう、私、前に、中曽根康弘さんにお会いしたことがあるんです。内閣総理大臣だったころ。いや、お会いしたといってもね、べつに訪ねていったわけでもないし、むこうが訪ねてきたわけでもない。駅でばったり出会ったんです。東京駅でした。築地本願寺から帰る時に、新幹線に乗ろうと思って駅へ入って行ったんです。そしたら駅員の方が、「ちょっと待って下さい」というんです。何かなと見たら、7人ほどそこへ止められている乗客がいる。そこへね、一分もたたぬうちに、ザッと一団の人がやって来た。見たら、真ん中に中曽根さん、で、向こうは知らんかも知れんが、こっちはよう知っとる。「ああ、中曽根さんか・・・」というわけで、見てましたら、まわりにボディーガードがついてましてね。背広の前をあけてね、あれピストル持ってるんでしょうな。横向きながら前へ歩いてゆくんです。それがタッタッターと、早いですな歩くのは。総理大臣にはなるもんやないね、ブラブラ歩けません。ゆっくり歩いてたらねらわれてあぶないんでしょうな。

それはさておき、その時、待たされているついでにふと思ったんですが、中曽根さん、内閣総理大臣・・・これはまあ行政府の長官ですからね。日本でも最重要なポストですわな。で、みんな、総理大臣というと、かけがえのないお方だと言っています。けど、よく考えてみると、総理大臣のかけがえなんか、なんぼでもおるのと違いますか。あんなの議事堂へ行ったら代わりたいのがクサるほどいますよ。だけどね、中曽根康弘という方の代わりはないわな。

私たちはね、社会的な地位とかね、そういうものだけで人間を見ているんじゃないですか。それであの人は尊い人やとか、つまらん人だとか、社会的な役割だけで、人を見て、それでなおかつ、人間を見た、いのちを見たと思っているんじゃないだろうか?自分にとって都合がいいかどうかで、かけがえのない人の「いのち」までも見てしまう。おそろしいことだけれど、こういうのが多いんじゃないですか。若い者が年寄を見て「役に立たんものはあっちへ行け」というような利用価値だけでものをいう。そして、お年寄りでもそうですね。

「私のように役に立たん人間になったら、もうどうしようもありません。生きてることがみんなの迷惑。早よう死んだほうがまし」

なんてこと、まあ、富山にはおられないでしょうが、あれ、あんまりいわんようにしましょう。役に立たんといって、自分で自分を見捨ててどうするの。これは、自分の「いのち」に対する、最大の冒とくですよ。これだけはやめましょう。何の役に立たなくても、そこに生きているということで、無限の意味と価値をもっている。それが「いのち」というものなんだと味わえる、そういった「目」をひらいてゆかねばならないと思うんです。そういった目をひらいて下さるのが、仏さまなんですよ。どうかみなさん、仏さまのおっしゃることをよく聞いて、人のいのち、自分のいのを、ただ利用価値で見るのではなく、かけがえのないすばらしいものなんだということに気付いていただきたいと思うのです。

善巧寺寺報46号掲載(昭和63年)
行信教校OB会並びに黒西組内研修会

花まつりマルシェ2018

善巧寺の花まつりは昭和52年からスタートしました。お釈迦さまの誕生をお祝いする「花まつり」に合わせて赤ちゃんの誕生をお祝いする「初参式(しょさんしき)」を行っています。昨年からは、子どもの成長をお祝いする「七五三」も始めました。マルシェのスタイルになったのは今回で3回目になり、より多くの人たちに「花まつり」のご縁を結んで欲しいという願いが叶い、年々参加者が増えてきました。特に今年は天候にも恵まれ、少し汗ばむほどの晴天の中、初めから終わりまで子供たちの笑顔が絶えない1日となりました。

以下、今年の様子です。どうぞご覧ください。

前日8:00 お寺集合
本堂の前に集まって合掌礼拝。1日の流れを説明してバスでチューリップ畑へ向かいます。

9:00 花つみ(あさひ舟川・春の四重奏)
春の四重奏で有名な朝日町へ到着。チュリスト山崎修二さんの説明を受けてから、赤とピンクの花つみ体験をさせてもらいました。

10:00 花つみ(入善町木根)
お次は入善町木根へ移動。今年は黄色をたくさんつませてもらいました。チューリップシャワーで黄色に染まる写真はこのお花です。

12:30 花かざり
昼食後、花かざりが始まります。穴の開いたボードに絵のとおり花をさしていきます。下絵は2年前に画家の関口彩さんに描いていただきました。

14:00 花かざり
ボードがほぼ出来上がる頃、チューリップシャワーコーナーのかざりつけをしました。網にチューリップをくくりつけています。

18:00 完成
子供たちは15:00頃に終了し、残りを大人数人で仕上げます。暗くなってくるころに完成しました。

当日10:00 初参式
仏さまの前で赤ちゃんの誕生をお祝いする初参式では、仏教讃歌を歌い、記念の念珠を贈呈します。お話を含めて30分ほどで終わり、受式者の記念撮影を行っています。

10:40 マルシェスタート
今年は18店のお店が境内に並びました。毎回子供たちに大人気のバールンアーティストのナナさんをはじめ、マルシェになってからフル参加のスローフード「HOLO家」さん。昨年に引き続き2回目の参加となる手作り木工品「きのみ工房」さん、コーヒー店「CAFE HAHAHA」さん、ケーキハウス「ミユク」さん、北欧雑貨「チリングスタイル」の大澤さん。1年ぶりのベーグル「くじら堂」さんと壺焼いもの「越中芋騒動」さん。初参加はハーブと喫茶のお店「HYGGE(ヒュッゲ)」さん、紙のからくり「カミカラ」さん、木工とガラス細工の「くりこども」さん、食品サンプルの「岩佐文具店」さんが参加してくれました。

公式出店では、婦人会がうどんとそばを担当、お寺とご縁のある若者たちがポップコーンとわたがしを振る舞ってくれました。ドリンクはお寺座や展覧会などでも活躍してくれている新保陽子さん。こんにゃくは沓掛栄一郎さんが手作りで作ってくれました。

チューリップシャワーコーナー
今回はじめて設けたコーナー。花まつりのラストに行うのが恒例ですが、ここ数年その写真を前面に押し出してPRしたところ「アレをやりたい!」という声がたくさん聞かれるようになったので、長年撮影でお世話になっている京都の川島さんとそのことを話したところ、写真映えするように背景にもチューリップを飾ろうと網にチューリップを飾り付けるというアイディアが生まれ、今回初挑戦をしました。境内の片隅に設けたコーナーで担当をつける余裕もなかったため、どれだけの人がやってくれるか未知数でしたが、予想以上に人が絶えないコーナーになりました。

11:30 チュリ山住職を探せ!
チラシの挿絵を描いてくれた高岡の似顔絵作家「でこりん」さんが生み出してくれたキャラクター「チュリ山住職」を、厚紙に数10体分印刷して境内中に隠します。それを子供たちに探してもらうゲームです。保母さんのさやかお姉さんが担当してくれています。

13:00 七五三
子供の成長をお祝いする七五三では、少しレベルが上がって「らいはいのうた」を読みます。記念品の贈呈後、7才の子には自己紹介をしてもらいました。

14:00 チュリ山住職を探せ!
宝探しの大好きな子供たちに背中を押され、午前と午後の2回行っています。見つけた子にはお菓子をプレゼント。

15:00 チューリップシャワー!

ドローン映像
撮影の柳原良平さんがお試しでドローン撮影もしてくれました。上からのアングルが新鮮です。

花まつりマルシェ2018
日時:2018年4月22日(日)10:00~15:00
会場:白雪山善巧寺(富山県黒部市宇奈月町浦山497)
出店:HoLo家、HYGGE、くじら堂、越中芋騒動、ミユク、Cafe hahaha、チリングスタイル、くりこども、カミカラ、きのみ工房、バルーンアーティストnana、岩佐文具店、公式出店(婦人会うどん&そば、手作りコンニャク、ドリンク、わたがし、ポップコーン、甘茶)
本堂荘厳:法輪寺、照行寺/受付:中坂岩雄さん、澤木繁夫さん/初参式コーラス:花の会
撮影:柳原写真事務所FLAT、川島慶一さん
チューリップ協力:入善町花卉球根組合、山崎修二さん
駐車協力:浦山交流センター、中博信さん
提供:長七製麺(うどん&そば)、大和証券・全日本仏教会(花まつりドロップス)
記念皿:たこあつこさん
協力:嶋田信夫さん、仏教婦人会、総代会、陽子さん、沓掛さん、りなさん、わゆさん、さやかさん、上田さん、げんきさん、かえでさん、後藤さん、米沢さん、薫さん、しずか先生、北條さん
THANKS:上澤さん、北斗さん、後片付けを手伝ってくれた皆様
主催:白雪山善巧寺

掲載サイト
おかげさまで広く認知してもらえました。ありがとうございます。
富山の遊び場!
富山経済新聞
はっぴーママ富山版
とやま暮らし
富山情報
黒部・宇奈月温泉観光局
キナリノ
彼岸寺
まいぷれ黒部・入善・朝日
ハマダファーム
チューリップテレビTwitter

七五三のススメ

昨年から花まつりの折に子供の成長を祝う「七五三」を始めました。お寺で七五三?と疑問を持たれる方もおられるので、その根拠となる天岸浄圓先生の文章を紹介します。

「七五三」については、昔、公家や武家では、いろいろな儀式が行われていたことが紹介されていますが、子どもの成長を全体的に考えますと、昔は数え年で三歳くらいで「おしめ」がとれたようです。そして数え五歳くらいになると、着物の仕立て方が変わるのです。これは、最近ではご存知ない方も多いでしょうが、着物を仕立てるときには、反物をどのように裁つかによって、三ッ身、四ッ身、本身などとわけるのです。(中略)ではなぜ、このような行事、風習が伝わったのでしょうか。昔は現在と違い、子どもの死亡率が大変高かったことと関わりがあるでしょう。だから、子どもの成長に合わせて、三ッ身の着物、四ッ身の着物というように、着物の仕立ての変わり目に、よくここまで大きく育ったと、内々でお祝いをしていたのです。そのお祝いごとを、明治の中頃くらいから、神社でするようになったようです。たぶん、呉服屋さんも子どもの晴着を売るために、積極的に協力されたのでしょう。それが今日の神社の「七五三」のはじまりです。だから、もともとは神社と深い関係があったわけではありませんし、古い伝統があるわけでもありません。お寺で祝ってはいけない理由はないのです。(中略)お祝いごとでお寺にこられるかたが少ない現状ですから、ぜひお勧めします。
(「浄土真宗の生き方」より抜粋)