何が中心か

住職継職以降、8巡目のほんこさん参り。「1年があっという間やね~」という通例のご挨拶にも実感が伴ってきました。善巧寺のほんさんは、今回からどの地区もなるべく午前中に終わるように日程を調整しています。それは、葬儀等の突発的な仏事が入った時の対応や、一軒一軒を大切に勤めたいという配慮からです。

親鸞聖人のお師匠である法然聖人は、「念仏」を中心としたものの考え方を徹底された方でした。それは例えば、当時タブーとされていた僧侶の結婚に対しても、

聖(妻帯しない僧)では念仏できないというのであれば、妻帯して念仏しなさい。妻帯したために念仏ができないというのであれば、聖になって念仏しなさい。

とおっしゃっています。親鸞聖人はそれに従い、弾圧を覚悟の上、いのちをかけて結婚を決断されたとお聞きします。一方で、私たちは何を中心として物事を判断しているのでしょうか。法然聖人や親鸞聖人のように突き詰めた言葉はなかなか言えるものではありませんが、浄土真宗にご縁のあった者は、はやりそれにならって、「手を合わすご縁」を中心に物事を判断していきたいものです。

年に1回、30分ほどのご縁。それは一生のうちでマバタキほどの時間ではありますが、浄土真宗において1番大切なお勤めです。それをいかにして、大切さを失うことなく努めあげていくかが僧侶の本分でありましょう。とは言っても、なかなか理想どおりにはいかず、時に楽をしたいという心も湧き出てくることがあります。そんな姿を目にした時は、どうぞ叱咤激励お願いいたします。ご一緒に大切な法事を勤めあげていきましょう。

(寺報122号)

孤独

今回は、孤独ということをテーマにしてすすめてみます。孤独というのは、他の人々との接触・関係・連絡がない状態を一般に指します。ネットの辞典ウィキペディアにはこうも書いてありました。

大勢の人々の中にいても、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない・理解されていないと感じているならば、それは孤独である。

大勢の人に囲まれながら孤独を感じるというのは、ある意味、ひとりでいるよりも、余計に孤独を感じるかもしれません。まぁ、人は、一面には、みんな孤独なので、その寂しさをどこに転化させていくかということが重要です。何よりも、孤独感は強いエネルギーがありますからね。

孤独ということを仏教的視点から考えてみると、縁という世界観がありました。縁というのは、すべてのもの、すべてのいのちは繋がりあっているということで、何とも関係がなくただひとつで独立したものは何もないという考え方です。一方で、お経にはこんな言葉もあります。

人は激しい欲望の中で、
独り生まれ独り死し、
独り去り独り来る

生まれてくる時も、老いる時も、病気をする時も、死んでいく時も、誰も変わりはききません。どんなに寄り添ってくれる人がいたとしても、やはり一人。一見矛盾しているようなふたつのことを言っていますが、ここは、とてもデリケートなことろですね。簡単に、世界はひとつ、なんて言ってしまっても、きれい事で終わってしまいますし、人は孤独で、みんな違う人間である。という前提を持った上で、初めて縁という言葉が生きてくるように思います。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

変わらない凄さ

今年は祖母の3回忌と父の17回忌でした。父の遺した言葉や写真、映像は今もうちの家宝として残っています。その中で、著作「お茶の間説法」を朗読したテープがあり、これをうちの中だけに留めておくのはもったいないということで、去年からインターネット配信を始めました。すると、予想を超えて聞いてくださる方が多く、多い時では日に2000人以上のアクセスがあります。

戦後、それまでの価値観が崩れ去り、欧米に追いつけ追い越せでがんばってきた時代がありました。戦前の価値観を否定するということは、それまで大切にされてきたお寺や仏教も含められ、伝統や歴史が「古い」という一言でかたづけられました。核家族化もこの頃から始まり、家庭のあり方が大きく変わり、そういう中で育った今の若者は、必然的にお寺や仏教とも縁遠くなります。ただ、あまりにも縁遠くなったせいで、逆にそれが今新鮮なものとして受け取る人たちが出て来ました。

上辺の文化に覆いかぶされた国で、突然個性が謳われても無理難題。欧米への憧れも徐々に薄れつつある今、情報はテレビ・新聞からインターネットへ。私って一体なんだろう?という自分探しが一時流行りましたが、そんな中で、足元にあった仏教に興味を示す人たちが出て来てもなんらおかしな話ではありません。

お寺や仏教が、今の若い人たちにとって抹香臭いものではなく、むしろ新鮮な魅力をもった仏教の伝統として、好意的に受け入れられていると強く感じます。時代に左右されず「変わらない」教えが今目の前にあるということを再確認いたしましょう。

(寺報121号)

感受性

だいぶ過ごしやすくなりまして、雨がこんなに気持ちのいいものだったと改めて思いました。ぼくらはなにげなく、晴れの日をいい日と呼んで、曇りや雨の日を、天気が悪いなんて言いますが、天気にいいも悪いもないと、親によく言われました。確かにその通りで、農家をしている人なら、恵みの雨といって、雨がなければ植物は育ちません。この恵みという受け取り方はステキな感性ですね。自分の力で得たという感覚じゃなくて、いただいたものということでしょう。そこには、感謝の心が育ちます。こういう感覚ってドンドン減退しているんでしょうね。

例えば、こどもをつくる、なんて言いますが、これも昔は、こどもが恵まれた、と言っていたはずです。それを今では、あたかも自分の力ですべてつくりあげたような言い回しを普通に使ってしまいます。そこになにが問題があるかというと、感謝のこころが育たないということでしょうね。感謝のこころがないということは、生きていても、どこにも満足が得られないことになるかもしれません。感謝のこころは、懺悔のこころを生みます。おばあちゃんたちが使っている、申し訳ないとか、もったいない、という言葉がソレですね。

もったいないという言葉も、モノを粗末にしているからという前に、恵まれたモノという感覚があるから生まれた言葉ですね。ただ、モノを大切にするというだけでは、なにかが足りません。なぜモノを大切にしなければならないか。資源には限りがあるから、とか、作った人の苦労を考えなさいというだけでは、その考え方もいつか崩れる時がくるかもしれません。だいたい、売り手のことだけを考えれば、バンバン食べ物を捨てるがごとくに消費したほうが喜びます。儲かりますからね。そうではなくて、自分で得たものではなくて、恵まれたモノだったという受け取り方を出来た時に、はじめて感謝のこころが生まれて、そこに自ずと、モノを大切にする心が生まれるのだと思います。そういう心が生まれた時、そうは出来なかったとしても、今度はそこに、申し訳ない、という懺悔の心が生まれる。感謝と懺悔の繰り返し。そんなステキな感性を持ったおじいちゃん、おばあちゃんが、あなたの近くにもおられますよ。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

坊主

ふだん何気なく使っている言葉の中に、仏教をルーツとした言葉はたくさんあります。たとえば、病院とか看護とかもそうですし、馬鹿とか、どっこいしょ、なんていうのもそうですね。

今回紹介するのは、坊主。
ボウズ頭、三日坊主。「こら、ボウズ」なんてのもありますが、もともと僧侶というのは、集団で修行し、生活していました。その中で、僧侶たちが生活するスペースがあって、それを「房(舎)」と言います。その房の主を、坊主と言ったんですね。

関西のほうでは、大工道具の直角に曲がった定規、曲尺のことを通称ボウズと呼ぶ地方があるそうです。あるとき、大工さんが家を建てている時に、曲尺を忘れたのに気付いて、下にいる大工なまかに「おい!ボウズとってくれ」その時、ちょうど、お坊さんが道を歩いていて、自分のことを呼ばれたのかと思って振り向いたそうです。これがぼくのおじさんに当たる人だったわけですが、これは、うまい表現だと感心していました。ボウズも曲尺のように根性が曲がっていると。そう言われないように、気を付けたいものですね。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より

ブッダからのメッセージ

春はお釈迦さまのご誕生をお祝いする花まつりです。
お釈迦さまは2500年以上前にインドにお生まれになったお方で、元の名をゴータマ・シッダルタといい、釈迦族の王子として生を受けました。一国の王子でしたから、財産や地位、名誉にも恵まれ、知能や体力も万能だったと伝えられます。そんな何不自由ない環境の中で、なぜ出家されたのでしょうか。

私たちが1番追い求めているもの、それらすべてをなぜ捨てたのでしょう。それは、老病死を目の当たりにしたことが原因とされます。歳をとりたくないと思っても一瞬たりとも止まることなく歳をとっていき、病気になりたくないと思っても病に冒されていく身が私たちの姿。そして、どんなに死にたくないと思っても、必ず死んでいくいのちを私たちは今生きています。死を前にする時、財産も名誉も地位も何もなりません。

「そんなことはわかっている」と、ふつうはそこで思考ストップ、なるべく考えないようにしますが、お釈迦さまはそこから目を背けず、徹底的に見つめ直し、ついに仏教を説かれたのでした。
「今こそいのちの尊さを伝えなければならない」と言われていますが、私たちは本当にいのちを尊いものとして生きているのでしょうか。人生順調な時は「いのちは尊い」と言っていても、いざ逆境に立たされれば、一転していのちを放り投げてしまうような心を私は持っています。自分の目でいのちを見つめる限り、それは自分の都合しだいでコロコロ変わります。

「いのちが尊い」ということは、仏さまの眼差しにあってはじめて知らされることでした。知らされながらも、変わらぬ私。仏教を聞くとは、感謝と慚愧の心を育て続け、「生涯育ちざかり」の道でした。

(寺報119号)

手を合わす

学校の給食で食前にする合掌が宗教的行為とみなされ、ドラやカネを鳴らしてハイどうぞという話を聞いたのは20年前。「いただきます」は、食べ物に対する感謝をあらわします。いのちを頂きますということでしょう。そういう感謝の気持ちはもういらないのでしょうか。お金さえ払えばすべて我が物でしょうか。

ひと昔前は宗教教育は家庭で育まれたものでしたが、今はその家庭のあり方が大きく変わりました。核家族が当たり前になり、加速するスピードから世代間の価値観もひろがり、すでに上の世代の言うことを聞く耳がなくなりつつあるように感じます。

すべて科学とお金だけの価値観になった時、人すらもお金で換算され、誰もがいつか捨てられていく人生になります。そこにいのちの触れ合いは一切ありません。目の前のことをがむしゃらにやれる時期はそれですむかもしれませんが、自分自身がいつか捨てられていくという想像力が決定的に欠けています。だいたいに、インターネットやテレビでひろえる情報や知識だけならば、早い子では中学生ぐらいで親を越します。

今私たちは、子や孫に何を伝えられるのでしょうか。流れゆく情報やお金よりも大切なことはなんでしょうか。それは、まず自分自身が何を拠り所にして生きるかという問題にもなるでしょう。

お寺の行事にご参加ください。毎月2回のお講、年中行事に是非参加してください。また、はじめての方でも参加しやすいような夜の法座を春からスタートします。来やすい環境づくりに努めます。平成23年の親鸞聖人750回大遠忌をひとつの山場と見据え、止まることなく邁進していく所存です。

(寺報118号)

フリースタイル

お寺座ライブが老若男女とってもフリーな雰囲気になったのがとても気持ちよかった。音楽を楽しんだり、縁側に行ったり、お茶を飲んだり、タバコ吸いに行ったり、トイレに行ったり、雑談したり(人に迷惑かけるのはまずいけど)。なにを説明したわけじゃないのに、みなさんうまい具合にお寺を使ってくださった。今回は3時間。コンサートとしては長いし、夜通し遊ぶフェスやクラブから見ると凄く短い。遊び慣れている人が結構いたということもあるかもしれないが、初回からお寺という空間がこれほど理想的に使われるとは本当に驚いた。

で、ふと思った。
お寺では月に二度の定例行事「お講」というのがあって、そこに来るおばあちゃんたちは、はやい人で1,2時間前からやってくる。それをはじめの頃は「あぁ、家ですることないんやろなぁ」ぐらいにしか思っていなかった。本堂に来たおばあちゃんは、仏さまにごあいさつしたあと、思い思いに時間を過ごす。誰かとおしゃべりしている人。横になって寝ている人。トイレを行ったり来たりしている人。境内でボーっとしている人。お参りがはじまってからも、トイレに行きたくなれば勝手に行ってるし、お話最中でも疲れたら勝手に帰っていく。逆にすべてが終わってからも、これまた1,2時間雑談していたりする。こどもの頃の記憶では、おばあちゃんたちが寺の竹やぶで服をまくりあげておしっこをしていた光景もあった。

そう、めちゃくちゃフリースタイルなのです。時間の感覚がまるで違う。現代人は待つということがとっても苦手でみんなとっても忙しい。というか、忙しくしている。また、無意識に自分の中でガチガチにルールを作ってしまう。もしくはルールを求める。そうしないと動けない。一方、おばあちゃんたちは、待つという感覚すらないのかもしれない。ルールもあってないようなもの。これはすごい。待つというのは今ふつうに考えると無駄な時間とされてしまうが、そんな時間は存在しないわけだ。このフリースタイルこそ、今後お寺で提供していきたいもののひとつだ。時間を埋めるのではなく、時間を感じる。80代の方たちは、とっても遊び上手だということを改めて知る。

いただきもの

今年は祖母喜子の三回忌と父隆弘の十七回忌の年です。お坊さんをしていると他の方よりも圧倒的に法事経験は多いのですが、やはり身内の法事になると、一味違う心持ちにさせられます。

病中も力強く生き抜き、最後までプライドを護り続けた祖母。病中も楽しくと痛みに苦しみながらも活き活きと生き抜いた父。共にぼくの心に深く刻まれる生き様と死に様でした。
「法事とは、仏前にて阿弥陀如来の教えに触れながら、故人を偲びつつ、感謝のこころをカタチとして表現したものです。」
「ありがとう」のこころをカタチにあらわした姿。今、ぼくは祖母と父になにが出来るのだろうということに想いを馳せます。

何人もの患者の死を看取ってきたある医者がこんなことを言われたそうです。
「今までは他人が死ぬぞと思いしに、俺が死ぬとはこいつはたまらん」
死は必然、生が偶然とは頭で知りながらも、やはり実感はなかなか持てるものではありません。ぼくが祖母と父に出来ること。それは今までもらったものに対しての感謝と懺悔。これからももらい続けるものに対しての感謝と懺悔。そしてその「ありがとう」と「ごめんなさい」の心こそが祖母や父からの頂きものでした。祖母と父を通して、仏さまの光に想いを馳せつつ、悔いのない人生を歩めるよう、心新たにさせてもらいます。

永代経はご門徒みなさまの法事がお寺で勤まる法要です。どうぞどうぞお参りください。

雪山俊隆(寺報120号)

もったいない

去年から「もったいない」という言葉が再評価されているようです。調べてみると、ケニア出身の環境保護活動家ワンガリ・マータイさんという方がキッカケのようです。この方は、去年日本を訪問したときに、「もったいない」という言葉を初めて聞いて、この精神こそ環境問題を考えるのにふさわしいと、痛く感動されたようです。その後、世界へこの言葉を広めるために出版までされました。ここでは、もったいない、という言葉は、そのままの発音で英語表記されています。どうやら、それに当てはまる言葉が外国にはないようですね。その後も、さだまさしさんが「もったいない」という曲を書いたり、今年の冬季オリンピックでは小池環境大臣が「もったいないふろしき」というものをデザインして、代表選手たちに渡したそうです。

この「もったいない」という言葉の意味は、「もったい」という言葉があって、「重々しさ」、「威厳さ」などの価値の高さをあらわす意味で、それが転じて、自分にとって物の方が価値が高い場合に、自分にとってはふさわしくないとか、かたじけないという意味に使われたそうです。では、今はどんな使われ方をしているかというと、ごはんを残したり、資源を無駄にしていることに対して、もったいないと使います。もちろんそれはその通りなんですが、本来の意味からいうと、損とか得という話よりも先に、ごはん一粒一粒にもいのちがあって、それを頂いているということが、ありがたく喜ばしいことで、もったいないことなんだ、ということです。

身近に接しているおばあちゃんたちも「もったいない」とか「ありがたい」という言葉を昔から使っていますが、そこには「申し訳ない」とか「めったにない」という意味があります。「ありがたい」という言葉もあることが難しい「有り得ない」という意味です。有り得ないことが私に与えられていることに対して、感謝と喜びをあらわす言葉でした。そう考えると、ぼくらは、お金を払った時点でなんでも我が物のように受け取ってしまいますが、そういう次元の話ではないんですね。米一粒にもいのちがある。そのいのちにも、いろんな力や働きが加わって、今、たまたま、私たちの目の前にある。そのいのちをもらって、やっと生きていられるのが私たち、ということでしょうか。いただきますは、いのちを頂きますということでした。

なんか道徳のような時間になってしまいましたが、そんことを言いながらも、実際のところは、そんな気持ちはなかなか持てないもんですよね。おなかいっぱいになればご飯を残すことだってあるし、とても、お米一粒にいのちがあるなんて、思えたためしがありません。でも、だからこそ、そういうものだということを知る必要があるのかもしれません。環境問題なんて言うと、とても立派に聞こえますが、まずは、身近にいるおじいちゃんやおばあちゃんに、耳を傾けるところからスタートじゃないかな、と思っています。

ラジオ番組「ゆるりな時間」より