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カガミよかがみよ鏡サン

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


三浦朱門さんのお気に入りのテレビのコマーシャルというのが、7月2日付の婦人面に出ていました。亭主がゴロンとしていると、画面の外から女房の声がして、風呂でも掃除してくれという。亭主がさもくやしそうに
「いま、やろうと思ってたのニィ」
と言う。あの亭主の卑小さ、小児性もさることながら、画面の外から夫を追いたてる女房の小にくらしさがよく表現されている――たしか、こういうことだったようであります。テレビのコマーシャルというのは、大のオトナが、とにかく社運をかけて、チエをしぼり合った結晶のようなものですから、ヘタなドラマより迫力があるものが多いわけです。
 
じつは、わたしにも、気に入ったのがありましてね。いまはもうやってないが、2,3年前に何度か見て、いまだに忘れられない。ちょうど、お目覚め説法にはピッタリという感じなんですが…。
 
若い女の子が画面に登場いたしまして、ニッコリ笑って、歯をむき出して
「わたしの歯、真っ白!」
とやる。自慢するわけです。白い歯を指して。ところがそこへもう一人の女の子があらわれて、これがずいぶんいじわるなんですが、手鏡を持っていて
「裏は?」
とやる。自慢の女の子は、手鏡にうつった自分の歯の裏をみせつけられて、「真っ黒…」とガックリ。そこで、歯の裏までよくみがけるちょっと曲がった歯ブラシをどうぞ、ということになるのだが、わたしはこれをみて、もし、わたしがサンケイ広告大賞の審査員なら、間違いなく、これに優勝トロフィーを贈っていただろうと思ったね。
 
その選考理由は次の通りであります。つまり、これは、単に歯ブラシのコマーシャルというだけのことではなくて
「裏は?」
という言葉をこのわたしに対する根源的な問いかけであると受けとったとき、限りなく広がる虚飾の世界を打ち破り、人類に真実なる生き方を問いかける、この上ない契機になるのではないか、とかなんとか…そんな気がしてならないのです。
 
どうですか?あなたはそう思いませんか。このコマーシャルは、歯だけのことをいっているんじゃないんですよ。わたし達は、いつも、ウソで塗り固めた自分を指さして、「わたし、真っ白!」とやっているんです。女の人はとくにそうだ。頭のテッペンから足のツマ先まで、生まれたまんまの本当の自分などというものはまるでない。いや、男だって、坊さんだって、そうですがね。ところが、そのウソをウソとも思わず、ニッコリ笑って、真っ白!とやっている。裏はどうなんでしょう。ハラの底はどうなんでしょう。
 
だれかが、いつか、手鏡を持っていて、
「あなたの裏は?」
といわれたらどうします?ふつうの鏡なら、表しかうつらないからゴマカシが効きますが、その鏡が、真実まことの鏡だったらどうします。コマーシャルの女の子のように、ガックリ、うずくまらざるをえないのではないでしょうか。
 
先日、近くのロータリーグラブのスピーチに呼ばれまして、ひょいと見たら「四つのテスト」というのがあって、その第一に「真実かどうか」とあった。なかなかやるじゃないですか、「もうかるか、どうか」「ソンかトクか」じゃないんですよ。「真実かどうか」――自分にたえず手鏡をあててみて、静かに反省してみようということなんでしょうね。
 
朝目が覚めて、ウソのかたまりのお化粧を念入りになさる前に、ひとつ、鏡に向かってやってみて下さい。
「鏡よ鏡よ鏡さん、どうぞ教えて下さいな。ホントのわたしはだれでしょう。裏は真っ黒じゃないかしら」
鏡は答えてくれるでしょう。
「そうよ。やっとわかったの。あなたの裏は真っ黒よ」

雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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いい天気ってどんな空?

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


ちょっとヤボですが、坊さんのわたしが東京や富山でラジオのニュースキャスターというものをやっていたことがあるのです。朝の2,3時間、ぶっ続けにおしゃべりをするわけですが、オープニングというんですか、番組のはじめに名前が雪山だというので晴れがましくも雪山賛歌なんぞを流しまして「お早うございます!7月12日火曜日午後9時、これからしばらくはホットなニュースと話題いっぱいのワイド番組でお楽しみ下さい」とやる。
 
それから型通りにアシスタントのアナウンサーとお天気のやりとりで、晴れていれば「今日もいい天気ですね」「そうですね。奥さま、お洗濯がはかどりますね」とかなんとか。暑い日だと「暑いですね。いやな日が続きますね」「そうですね。ほんとに涼しくならないかしら」とかなんとか。ところがあるとき、ギクリとすることがあった。お天気のあいさつのあと、気象台の方と電話でやりとりするコーナーがあって、そこで、あるお天気おじさんがおっしゃった。
「雪山さん、じつは、お天気には、いいとか、わるいとかはないんですよ。晴れていれば晴れた日、雨なら雨の日というだけで、わたしたちはなるべく、いい天気わるい天気とは使わないようにしているんです。」
まいったね、わたしは。えらそうにお説教などする資格はないと思った。そうなんですよ。わたしたち、朝、目が覚めたら、カーテンをあけて、「わあ、いい天気だ」とか「やだなあ、また雨だ」とか、カンタンにいってしまうけど、考えてみれば、天気にいい、わるいなんてあるわけない。こっちは快晴つづきで「いいなあ」と思ってもあまりつづくとお百姓さんが音をあげる。台風でも、被害は困るけどあれが来なかったら日本の水源が干上がってしまうわけだ。「ありがとう。おかげで坊さんの片目が開けました。天気にいい、わるいはなくて、もしいうなら、その前に、わたしにとっていい天気、わたしにとって都合のわるい天気といわねばならないんですね」と、お天気おじさんにお礼をいった。
 
その時です。ギクリときたのは。(ハテ、これは、お天気だけのことだろうか?)どうでしょう。わたしたちは、お天気だけではない。まわりすべてのことを、いともカンタンに、いい、わるい、と決めつけているけれども、結局それは、わたしのメガネでながめているだけのこと。なのに、口にするときには、いつも、このわたし、ということばを抜いてしまっているんじゃないですか。
 
だれかさんをつかまえて「あの人はいい人」「この人はわるい人」、いっていませんか?ありのままに見れば、世の中に、いい人、わるい人なんていませんよ。「あの人はあの人」であり、「この人はこの人」であって、あの人はあの人なりに一生懸命生きている。この人もこの人なりに一生懸命生きている。それをわたしたちは、自分勝手に、いい人、わるい人と決めつけている。あなたがわるい人と思っている人のことを考えて下さい。ひょっとしたら、その人は、あなたにとって都合の悪い人というだけのことかもしれない。
 
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとのかたちなり
 
こんなうたがある。少し反省してみなくてはなりませんね。(いいのわるいのと、もの知り顔に決めつけていたこのわたしは、いったい、何サマなんだろう。わたしって、ものの善悪を簡単に判断できるほど、上等な生きものだったのかしら…)一度、わたしたち、外ばかり向いていた目の玉をひっくり返して、内なる自分のハラの底をみつめ直してみたらいいのかもしれません。かくいうわたしはどうなのか、いいのか、わるいのか…本当のわたしとは、いった何なのか、と。
「お茶の間説法/雪山隆弘(昭和54年百華苑発行)」より 

雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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お目覚め説法

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


ちょっとうかがいますが、あなたは今朝、何時にお目覚めでしたか?それからいままでどんなことをさないました?朝起きて、顔を洗って、部屋のそうじをして、ご主人を起こして、朝食をつくって、それでいま、ご主人は出ていってホッとひと息…ですか。
 
では、もう一度うかがいます。そのお目覚めのとき、あなたはどんなことを思いました?オヤ、笑っていらっしゃる。その顔は何も考えたりしなかったのかな。それとも、べつに口に出していうほどのことではないのかな。まあいいでしょう。
 
わたしはね、よく思うんですよ。朝、目が覚めたとき(ああ、今日も生きている)。それでお念仏を称えたりするわけです。いやだなあまた笑ったりして。思わないかなあ、今日も生きているって。(このお坊さん、ちょっとキザですがどころじゃないわね。今日も生きているなんて当たり前のことじゃないの)
 
あなたの目を見ていると、こんな感じだな。いや、わかるんですよ。この前もある婦人会でこういったら、同じようにフフと笑ってそんな目つきをしてたもの。
 
しかし、もう一度聞きますが、今日も生きている ということは、当たり前のことですか?仏法では「老少不定」といい「われや先、人や先、今日とも知らず明日とも知らず」ともいう。お通夜の晩などにこんなことばを聞いたことがあるでしょう。人間は生まれて、年とって、病気して、死んでいく。それも吸う息ははくを待たずして…といいますから、いつのことだかまったくわからない。まさに今日とも知れず、明日とも知れないわけです。
 
世の中をありのままに見れば、人間は生まれたら最後、みな死ぬわけで、いくら千年も万年も、とガンバってみたところで仕方がない。人間の死亡率は何%かご存知でしょう。ガンの死亡率は〇〇%、結核の死亡率は〇〇%といろいろありますが人間の死亡率はと聞かれたら、ゾッとするけど100%としかいいようがない。これこそが当たり前のことであって、今日も生きているということは、それから考えると、めったにない、有り難いことなんですよね。
 
わたしの知り合いの奥さんで、九州に住んでいらしたんだが、こどもが三人、小学校へ上がったばかりのときに、ご主人がガンの宣告を受けられた。もちろん本人は知らない。しかし、奥さんはたいへんです。こどもたちを前に「お父さんは重い病気にかかられた。あなた方、しっかりしてちょうだいね」といって聞かす。そして自分は、毎晩眠れません。そして、フト隣に寝ている主人を見る。静かに寝息をたてている。(ああ よかった。お父さん生きている)。朝起きてもそうです。横をみると主人が大きなあくびをしている。(よかった、今日…)あくび一つでも命の尊さにつながるんです。
 
こうして、この家族は来る日も来る日も、生命の緊迫感につつまれて暮らしました。あるときは入院、そしてまた退院…こんな生活が何年つづいたと思いますか。なんと、十五年間もつづいた。強いお父さんだったのでしょう。そして、なくなられてこどもたちはどうなったか。男の子二人は東大、女の子は奈良女子大にストレートではいった。何も一流大学にはいったから素晴らしいというのではありません。命の尊さを知って、毎日を真剣に生きた結果がそうなったので、大事なのはそこだと思うのです。
 
どうやらわたしたちの多くは、恵まれすぎていたらしい。おやじが生きているのは当たり前。おふくろは毎日生きていることの有難さなんていいもしない。これではこどもも命の尊さなどわかるわけがない。大切なものは何かということも気付かずに、なんとなくモコモコと大きくなってしまった。でももう気が付いた。テレビのドラマに「あしたこそ」というのがあったが、あしたこそではなくて、今日こそのいのちを大切に、ということにです。
 
目が覚める。あたりが見える。庭の緑が美しい。小鳥のさえずりも聞こえてくる。そして手足も動くではないか。こんな有難いことはないですよ。よろこびの原点はここにある。はきすてたくなるような人生だって、このよろこびには勝てはしない。さあ、思い切りノビをして、今日一日を精一杯、いきいきと生き切ってみようじゃないですか。
「お茶の間説法/雪山隆弘(昭和54年百華苑発行)」より 

雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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お月さまのうさぎ

むかしむかし、おしゃかさまは、うさぎとしてお生まれになりました。おしゃかさまのうさぎは、近くに住むサルやおおかみやカワウソたちと仲良く暮らしていました。そして、「ほとけさまのお弟子は困っている人を助けなければならない。だから、みんな乞食がきたら食べ物をあげよう」と話し合っていました。
 
ある日のことです。カワウソが川岸へゆくと、砂の中から魚の匂いがします。「おーい、これは誰の魚ですか」と大声でたずねましたが、持ち主はあらわれません。カワウソは砂の中から魚を掘り出しておうちへ持って帰りました。
 
同じ日、おおかみが獲物を探しに出かけました。たんぼの小屋で肉とトカゲ一匹とツボに入ったヨーグルトをみつけました。「おーい、持ち主はいませんか」と大声で叫びましたが、誰も出て来ません。オオカミは肉やトカゲなどをおうちへ持って帰りました。その日、さるも食べ物を探しに森へ出かけ、マンゴーの実をたくさん見つけたので、おうちへ持って帰りました。
 
同じ日、うさぎも食べ物を探しに出かけ、大好きな草を食べました。しかし、ウサギは考えました。
「私が草を取ってあげても、人間は草を食べられない。だけど、私は人間が食べるお米やゴマは持っていなしし・・・。乞食が来た時、どうしたらいいのかなぁ」
 
四匹の動物の心は、インドラという名の神さまにとどきました。インドラは乞食にばけて、まずカワウソとサルとオオカミの家にゆきました。カワウソたちはみな乞食を見て、「私の食べ物をさしあげます」と言いました。
 
最後に乞食はウサギの家にゆきました。うさぎは、
「私は差し上げられる食べ物を持っていません。そのかわり、私の体の焼けたところを食べて下さい」
と言ってタキギをつんで火をつけその中に飛び込みました。しかし不思議なことに火はちっとも熱くありません。うさぎの体も焼けません。そのとき乞食は言いました。
「じつは私はインドラなのだよ。お前の姿をお月さまに書いて、すばらしいお前の心を世界中に教えよう」
お月さまをごらんなさい。うさぎがもちをついています。
(ジャータカのえほんより/自照社出版)

藤井 友梨香(ふじい ゆりか)
ガラス作家、七宝焼きの特殊技法「ガラス胎有線七宝」で制作。1986年、山口県生まれ神奈川県育ち。女子美術大学ガラスコースを卒業後、彩グラススタジオ、富山ガラス工房に勤務。その後、アメリカやカナダの作家のもとで勉強。2015年、富山市ガラス美術館に作品4点を収蔵。毎年個展、グループ展に多数出品。現在、神奈川県の自宅にて制作をしている。
公式サイト http://yurikafujii.com
Instagram https://www.instagram.com/yurika_fujii/

しかの王さまニグローダ

ニグローダは、金いろにかがやくしかの王さまでした。
そのころ、みやこの王さまは、しかの肉がたべたいので、こくみんにしごとをやめさせ、まいにちしかがりをさせていました。こくみんはみなこまりました。そしてしかたなく、しかがつかまえやすいように、えさでかこいの中へさそいいれていました。そのしかを王さまはまいにち1とうずつたべていたのです。
 
しかたちは、いつじぶんのじゅんばんがくるかわからないので、おそろしくてあさからばんまでふるえていました。よるもねむれません。ただ、金いろのしかだけは、王さまもたいせつにし、弓矢をむけませんでした。そのうちにしかたちはそうだんし、じゅんばんをきめて、首切り台にあがることにしました。ころされる日まではあんしんだからです。
 
ある日、おなかに赤ちゃんをもっためすじかのじゅんばんになりました。
「どうか赤ちゃんを生んでからのじゅんばんにしてください」
めすじかはなかまたちにたのみましたが、だれもじゅんばんをかわってくれません。そのとき、ニグローダがすすみ出て、首切り台にじぶんの首をおきました。王さまはニグローダのこころにたいへんかんしんしました。そして、それからのちは、すべてのどうぶつをころすことをやめ、人も、どうぶつやとりたちも、みんなへいわにたのしくくらすようになりました。
(ジャータカのえほん/文:豊原大成 出版:自照社出版)


仏教では、6つの修業方法(六波羅蜜)のひとつに「布施(ふせ)」があります。布施とは、見返りを求めずに相手の利益になるように分け与えることをいい、その究極が自らを差し出す行為でしょう。ジャータカ物語には同様の物語がたくさんあります。あまりにも現実離れしたお話に、どのように受け取ればよいのか戸惑いますが、仏さまの行いをとおして我が身の在り方を問うご縁にしたいものです。


藤井 友梨香(ふじい ゆりか)
ガラス作家、七宝焼きの特殊技法「ガラス胎有線七宝」で制作。1986年、山口県生まれ神奈川県育ち。女子美術大学ガラスコースを卒業後、彩グラススタジオ、富山ガラス工房に勤務。その後、アメリカやカナダの作家のもとで勉強。2015年、富山市ガラス美術館に作品4点を収蔵。毎年個展、グループ展に多数出品。現在、神奈川県の自宅にて制作をしている。
公式サイト http://yurikafujii.com
Instagram https://www.instagram.com/yurika_fujii/

うずらとあみ

むかしむかし、おしゃかさまは、うずらとしてお生まれになり、森でたくさんのなかまとくらしていました。
 
そのちかくの村には、うずらとりのおとこがすんでいました。おとこは、うずらのなきごえのまねがとてもじょうずです。おとこがうずらのなきごえを出すと、うずらたちがあつまってきます。おとこは、あみをかけて、いちどにたくさんのうずらをとるのです。おとこはそれを売ってくらしていました。
 
あるとき、おしゃかさまのうずらが、ほかのうずらたちにいいました。
「このままでは、ぼくらはみなごろしになってしまう。こうしたらどうだろう。このつぎ、ぼくたちの上にあみがなげられたら、みんなであみの目に頭をいれて、いっせいにとびあがり、いばらのやぶにあみをすてるんだ」。
 
あくる日、うずらたちの上にあみがなげかけられたとき、うずらたちはあみの目に頭を入れて、いっせいにとびあがり、あみをいばらのやぶにひっかかったやぶにすてました。おとこはいばらのやぶにひっかかったあみをとりはずすのに、じかんがかかるばかりです。
 
そのごも、まいにち、まいにち、おなじことがくりかえされ、うずらは1羽もとれません。おとこは「あなたはまじめにはたらいているのですか」と、おくさんにしかられてしまいました。
 
うずらとりのおとこは、かんがえました。
「いま、うずらたちは、みんななかよしだ。しかし、そのうちに、けんかをはじめるにちがいない。」
おとこがかんがえたとおり、なん日かのちに、一羽のうずらがえさをひろおうとして、ほかのうずらの頭をふんでしまいました。ふんだほうのうずらは「ごめん、ごめん」とあやまりましたが、ふまれたほうのうずらはゆるしません。とうとう、けんかになってしまいました。おしゃかさまのうずらは、「けんかをしていると、しあわせがにげて、くるしみがやってくる。みんなあみにつかまって、死んでしまうかもしれない」としんぱいしました。
 
4、5日のち、おとこはうずらのこえのまねをし、うずらたちがたくさんあつまったところへあみをなげました。あみの下になったうずらたちの中の1羽が、となりのうずらにいいました。「きみがうごいたので、ぼくの頭の毛がぬけた。あみは、きみがもちあげろ。」となりのうずらがいいかえしました。「ぼくは羽の毛がぬけた。きみがあみをもちあげろ。」いいあっているうちに、うずらたちは1羽のこらず、とらえられてしまいました。おしゃかさまのうずらは、あみの下にはいませんでした。
(ジャータカのえほん/文:豊原大成 出版:自照社出版)

お釈迦さまの前世の物語「ジャータカ」に収めらた物語です。このお話を元に色絵磁器作家の梅田かん子さんは作品を制作されました。このお話を選んだ理由はエンディングにあるそうです。通常の物語では勧善懲悪やハッピーエンドのオチをつけて終わりますが、ここでは、プツっと途切れるように物語は終わり、しかも一見お釈迦さまのウズラはとても冷たい印象を与えます。でも、梅田さんはそこにお釈迦さまの深い愛情を汲み取っておられました。

ご自分の子育てと重ね合わせて見た時、親はついつい子供に対して、「〇〇はしちゃだめ!そんなことしたら〇〇するよ!」と、脅し交じりの言葉を言ってしまいます。でも、それはその場しのぎの言葉であって、結局はすべての面倒を見てしまうのが親心。でも、お釈迦さまは、そこを見極められて「諦める」道を選びます。「諦める」とは、物事を「あきらかに見る」ことで、ただ見捨てることではありません。しっかりと忠告した上で、それでも同じ過ちを繰り返してしまう姿を見極めて、その場を離れました。痛みを感じながらも離れる決断力と深い愛情。そこに梅田さんは注目されています。作品は、網にかかった仲間たちと、そこを離れたお釈迦さまの2枚1組になっています。


梅田 かん子(うめだ かんこ)   
色絵磁器作家。1979年、高岡市生まれ。金城短期大学美術科を卒業後、九谷焼作家・松本佐一氏に師事。その後石川県立九谷焼技術研修所を経て、地元・高岡に工房を築く。2009年「めし碗グランプリ磁器部門」最優秀賞をはじめ、「工芸都市高岡クラフト展」や「朝日現代クラフト展」などでも数々の賞を受賞。
https://kankoumeda.jimdo.com

ほっこり法座Q&A

5月16日に行われた「ほっこり法座」のアンケートの中でいくつかご質問をいただきました。日下賢裕先生より丁寧なお返事を送ってもらいましたので、許可をいただき一部ここに共有します。



お寺の行事で朝事(あさじ)とありますが、これも仏教語ですか?

朝のお勤め(お参り)をお朝事と呼びますね。仏教語、というわけではありませんが、私たちもそのように呼ばせていただいております。正式には、晨朝勤行(じんじょう ごんぎょう)といいます。かつては一日を6つに分けて、一日六回のお勤めを行っていました。今で言う朝の時間が晨朝と呼ばれたので、晨朝勤行と呼ばれています。



ナモアミダブツと称える時、なぜ「ツ」はハッキリ言わないんですか?

「ツ」は唾が出やすい言葉で、仏さまの前では失礼にあたるということから、ハッキリ発音しないと聞いたことがあります。古来より、お経の正式な読み方には、口からではなく鼻から息を抜いて発音する「鼻音(びおん)」と呼ばれる唱法があります。



善人と悪人とは同時にあるものでしょうか?

一般論で言いますと、私達には善と悪の両面があるのだと思います。
仏教的に考えますと、善人とは悪を為さない人と言えますから、同時には存在しません。また仏教で言う悪というのも、犯罪を犯すようなことではなく、例えば嘘をついたり、綺語(お世辞を言う)、悪口(汚い言葉を使う)なども悪い行いとなります。行動に移さなくても、人を傷つけようと心に思うことも、悪い行いです。ですから、仏教で言う悪を為さない、ということは実はとてもむずかしいことです。

とは言え、悪を為す人であっても、善い行いもできるはずなのですが、清らかな水に一滴でも毒が混じればそれは毒水となってしまうのと同じように、私たちの行いは、毒が混じった雑毒の善、と呼ばれたりもします。完全なる善を為す、というのは、実はとてもむずかしいことと言えるかもしれません。

また「歎異抄」で言うところの善人・悪人は少し意味合いが異なっておりまして、善人とは、自分の行いを振り返らず自分を善人だと思い、自分の力で仏となれると思っている人、悪人は、自分の行いを振り返って、自分の悪を見つめ、自分では仏となるなど到底できない、阿弥陀仏の力によるしかないとする人、という理解です。ですので、こちらも善人から悪人に、ということはあっても、同時に、ということはないかと思います。



真実に目覚めることができるでしょうか?

真実に目覚める。言葉で言ってしまいますととても簡単なようですが、なかなか難しいことです。知識として知ることはできるかもしれませんが、それを「我が事」として行いにまで反映されるということが、特に私たちには難しいのです。例えば、怒ることは煩悩による誤った行為である、という教えを聞いても、実際に怒らないようにできるわけではありません。目覚めるということは、頭で理解することではなくて、行いにまでしっかりと結び付けて、100%徹底できる、ということです。

その難しさに気づかれたのが、法然聖人であったり親鸞聖人でした。そんな私が、目覚めていけるのか?ということに悩まれて、そう徹底できない自分のために、すでに目覚められた阿弥陀仏という仏さまが、私を目覚めたいのちとして迎えとりますよ、とはたらいてくださっている。その阿弥陀仏という仏さまのはたらきに出会われて、私たちのところに今ありますのが、浄土真宗という教えになります。ですから、自分の力では目覚めることができなくても、目覚めたいのちとならせていただける教えというのが、浄土真宗ということになります。

いのちを考える/梯實圓和上

このテキストは、昭和62年に行われた「行信教校OB会並びに黒西組内研修会」での梯實圓和上の記念講演を抜粋したもので、善巧寺の寺報46号(昭和63年)に掲載されました。
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いのちというものを考えてゆきますときに、まず、私は「生命」と漢字で書く場合と「いのち」とかなで書く場合と、ちょっと区別をしておきたいと思うのです。と申しますのは、この「生命」というものの一番小さな単位として考えられるのは、細胞でございましょう。もちろんさらに小さく分子、原子、素粒子・・・ということになるかもしれませんが、いわゆる生命現象としてみますと細胞ということになるでしょう。単細胞動物から多細胞で組織をつくり、それが機関というものをつくりあげ、それが系を、またそれの統合されたものとして「個体」というものが成立するわけです。ゾウリ虫からイヌ、ネコ、人間にいたるまで、こうした細胞のあつまりが分裂し、そして死骸を残して終わってゆきます。

これもまあ生命現象といえばいえるのですが、どうも私たちが、「いのち」という場合は、もう少し違った感じじゃないかと思うんです。例えばね、私がふと、目の前に、木から落ちて死んでいるセミの死骸を見ても、あまり心が動きません。「あ、セミが死んでいるな」というぐらいです。けれども、それが自分の子供だったらどうか-「あ、子供が死にかかっている・・・」なんて気安いものじゃないでしょう。その時に、いのちが失われるという同じことでも、セミと自分の子供とは全然違うでしょう。まあ、そんなところを私は「生命」と「いのち」と区別しているんです。まあ、このように「いのち」というものは、平常はなんとも意識しませんが、失われかけたときものすごい実在感をもって、私たちにせまってくるんですね。

さて、そこで「いのち」というものを考えますときに、まず、なんといっても「かけがえがない」ということが挙げられるのではないですか。かけがえのなさというのが、いのちを特徴づける一つの性格でございましょう。そして、いのちというものは、常に「具体的」なものである、といえましょう。さらに、いのちというのは、「一回きり」であります。そうでしょう。この私という人間がもう一度、この世の中へ出て来ようと思ったら、宇宙の150億年の歴史をもう一度くり返さないと出て来ない、いや、それでも無理でしょう。そうしますと、私というものの存在は二度と再び出現しないという、一回きりのものだということ、わかるでしょう。だから、その一回きりであるからこそ、失われてゆくことに対する無限の哀惜というものがわいてくるわけなんです。そう、いのちを惜しむということは、一回きりで、かけがえのないということに対する、正確な対応の状況であろうと思うのでございます。

そこでまず、このいのちは「かけがえのないもの」であるということを考えてみたいのですが、むずかしいこと抜きにして、いのちの特徴として、代わりがきかないということなんです。私のいのちは、私以外に生きてくれる人はいません。ちょっと、今日は忙しいので、私の代わりに死んでくれ、なんてことはできないんです。私の死は、私以外に死にようがない、この一つだけでも私たち、はっきりしておいたほうがいいと思うんです。私以外に生きようのない私のいのちならば、私なりに納得のゆく生き方をしなかったら、いのちに対する責任が果たせないと違うか?このいのち私以外に死にようがないならば私の死は私らしく死んでゆこうという・・・そういう覚悟があってしかるべきじゃないかなと思います。かけがけのないいのち・・・言葉で言えばわかるんですが、普段、私たちは、かけがえのあるものばかり見ているのと違いますか?代わりのきくものばかりに目がいってしまっているんじゃないですか?

私、今日は講師としてここへまいりました。で、みなさんは講師の梯、というふうに見て下さる。しかし、この講師という方は、いくらでも代わりがあるんです。私が今ここで倒れても、あとはちゃんと誰かが代わって講義をしてくださるでしょう。けれども、この私、梯實圓には代わりはないんです。えらいややこしいこというようですけどね、これ一ぺん考えてみましょうや。

わかりやすくいいますとね。そうそう、私、前に、中曽根康弘さんにお会いしたことがあるんです。内閣総理大臣だったころ。いや、お会いしたといってもね、べつに訪ねていったわけでもないし、むこうが訪ねてきたわけでもない。駅でばったり出会ったんです。東京駅でした。築地本願寺から帰る時に、新幹線に乗ろうと思って駅へ入って行ったんです。そしたら駅員の方が、「ちょっと待って下さい」というんです。何かなと見たら、7人ほどそこへ止められている乗客がいる。そこへね、一分もたたぬうちに、ザッと一団の人がやって来た。見たら、真ん中に中曽根さん、で、向こうは知らんかも知れんが、こっちはよう知っとる。「ああ、中曽根さんか・・・」というわけで、見てましたら、まわりにボディーガードがついてましてね。背広の前をあけてね、あれピストル持ってるんでしょうな。横向きながら前へ歩いてゆくんです。それがタッタッターと、早いですな歩くのは。総理大臣にはなるもんやないね、ブラブラ歩けません。ゆっくり歩いてたらねらわれてあぶないんでしょうな。

それはさておき、その時、待たされているついでにふと思ったんですが、中曽根さん、内閣総理大臣・・・これはまあ行政府の長官ですからね。日本でも最重要なポストですわな。で、みんな、総理大臣というと、かけがえのないお方だと言っています。けど、よく考えてみると、総理大臣のかけがえなんか、なんぼでもおるのと違いますか。あんなの議事堂へ行ったら代わりたいのがクサるほどいますよ。だけどね、中曽根康弘という方の代わりはないわな。

私たちはね、社会的な地位とかね、そういうものだけで人間を見ているんじゃないですか。それであの人は尊い人やとか、つまらん人だとか、社会的な役割だけで、人を見て、それでなおかつ、人間を見た、いのちを見たと思っているんじゃないだろうか?自分にとって都合がいいかどうかで、かけがえのない人の「いのち」までも見てしまう。おそろしいことだけれど、こういうのが多いんじゃないですか。若い者が年寄を見て「役に立たんものはあっちへ行け」というような利用価値だけでものをいう。そして、お年寄りでもそうですね。

「私のように役に立たん人間になったら、もうどうしようもありません。生きてることがみんなの迷惑。早よう死んだほうがまし」

なんてこと、まあ、富山にはおられないでしょうが、あれ、あんまりいわんようにしましょう。役に立たんといって、自分で自分を見捨ててどうするの。これは、自分の「いのち」に対する、最大の冒とくですよ。これだけはやめましょう。何の役に立たなくても、そこに生きているということで、無限の意味と価値をもっている。それが「いのち」というものなんだと味わえる、そういった「目」をひらいてゆかねばならないと思うんです。そういった目をひらいて下さるのが、仏さまなんですよ。どうかみなさん、仏さまのおっしゃることをよく聞いて、人のいのち、自分のいのを、ただ利用価値で見るのではなく、かけがえのないすばらしいものなんだということに気付いていただきたいと思うのです。

善巧寺寺報46号掲載(昭和63年)
行信教校OB会並びに黒西組内研修会

実のないイチョウの木の話

実のないイチョウの木の話
~うなづき昔話より~
絵本制作:上坂次子

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浦山の善巧寺に明教院僧鎔(みょうきょういん そうよう)という学問に熱心なお坊さまがおられました。自分に厳しい人でしたが、村の者には大そうやさしく、人望もあり、日本国中から明教院さまをしたってさまざまな人がやってくるほどでした。その頃(二百数十年前)の寺はまだ小さく、本堂の屋根は栗板ぶきで石がのっていました。境内のイチョウもまだ若く、生き生きとした枝を空にのばしていました。

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村の子どもたちは、明教院さまとこのイチョウが大好きで、天気のよい日はいつもお寺にやってきました。明教院さまも素直な子どもたちが大好きで、よくいっしょにかくれんぼなどして遊んでおられました。また、子どもの笑い声が快く響いてくると本を閉じて子どもたちの姿を眺めておられることもありました。

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秋も終わりに近づくとイチョウの葉は黄色に色づき、その葉間から晩秋の透明な陽がサラサラと流れ出てきます。そのころになると、子どもたちは一層足速くお寺にやってきて、イチョウをじっと見上げるのでした。
「まだかな?」
「まだみたい・・・」
そうなのです。子どもたちはイチョウの実が落ちてくるのを待っているのです。寺のイチョウは特においしく、パーンとはねて囲炉裏をとび出す緑色の香ばしさはこの上もありません。

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幾日かたって実がパラパラ落ちだすと、子どもらは競って拾いはじめました。ここに、あそこに、目ざとく見つけては、着物の袖やらボロぎれで縫った袋に入れました。ところが強ばった男の子が、ひとつのイチョウでけんかし始めたのです。
「こりゃ、おらのだ!」
「ちがわ、おらが先に見つけたんだい!」
しまいには取っ組み合いを始め他の子どもたちもワイワイはやしたてたので境内は大騒ぎ。

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その様子をご覧になった明教院さまは寂しい気持ちになられました。そしてイチョウに向かってこうおっしゃったのです。
「イチョウよ、頼むからもう実をつけてくれるな」

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それからというもの、そのイチョウには実がつかなくなったのです。

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善巧寺の境内にはそのイチョウが今ではどっしりした大樹となって立っております。

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明教院釈僧鎔を訪ねて

生家渡辺家をたずねて
(寺報善巧第4号 昭和52年10月1日より)

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国道8号線の上市川を浜側に折れて川沿いにしばらくゆくと、水橋の新興住宅に囲まれるようにして、市江(いちえ)という村がある。明教院の生家、渡辺家はこの村のほぼ中央にあった。石垣と板べいをめぐらしたかわらぶきの落ち着いた農家である。
「ようこそこられました」
迎えて下さったのは、77歳になる渡辺彦作さんだった。
「ほう、もうすぐ200回忌ですか。わたしが父に連れられて、150回忌のお参りに、善巧寺へよせてもらってから、50年たつんですねえ」
彦作さんは感慨無量のようである。
「明教院さんのことは、わたしも、まごじいからよく聞かされたものですよ」
といって代々伝わる家系の巻物をひろげながら、彦作さんはポツリ、ポツリと、渡辺家に語りつがれてきた、若き日の明教院のことを話される。
「この家の三男坊として生まれなさったんだが、そのときのいい伝えでは、母親が満月のある晩、そのお月様をスーッと飲み込んでしまいましてな。こりゃあ不思議なこともあるものだとおどろいていたら、次の日に、赤児をはらんだ。それが明教院さんだったそうです」

生まれながらにしてただ人ではなかったということを物語る伝説なのであろう。明教院は享保8年(1723)に誕生。名は與三吉といった。3歳の頃から書を読み、字を書き、ときたま訪れる上市新屋の明光寺の住職、霊潭(れいたん)師の説教も熱心に聞き入っていたとう。
「きかん坊だったそうですが、あるとき川原で遊んでいたら、そこを通りかかってた高僧が、與三吉をみるなり、あれはこどもではない。生き仏様だといわれたとも聞いております」

幼い頃のエピソードはいろいろあって、その高僧というのがじつは霊潭師であって、與三吉をみつけるなり、自分の寺に連れて帰ってすぐに得度をさせた、という話もある。しかし、彦作さんの話によればそうではなく、霊潭師の奥さんがじつは與三吉のおばにあたる人で、そんな関係から、渡辺家と霊潭師はよく顔を合わせていたのだろうという。とにかく、幼い頃から秀でた才能の持主であった與三吉は、霊潭師にみとめられ、本格的な学問をするために、明光寺に引き取られてゆくのである。当時、與三吉は11歳。上市川の川口近くから上流へ数里、立山を一望にできるこの道のりを、與三吉は希望に胸ふくらませて歩んでいったにちがいない。

恩師霊潭(れいたん)師との出逢い
(寺報善巧第5号 昭和53年1月1日)

05
水橋村の農家に生まれた、渡辺與三吉(のちの明教院)は、幼いときから非凡の器であったといわれる。渡辺家のいい伝えによれば、近くの寺で法座があれば必ず参り、客僧の説教をすべて覚え、字の読めない頃から、お経をスラスラと空んじるほどだったという。

その與三吉が、上市・新屋の明光寺住職霊潭師と出逢ったのは、11歳のときである。地方の碩学であった霊潭師は與三吉を一見して、その才能を見抜き、宗学を学ばせたいものだと親に相談し、すぐに養子として迎えて、剃髪し、自分の名を一字とって、霊観と名付けたという。

当時、霊潭師には実子が三男、三女、それに與三吉、さらにもう三人の養子をかかえていたとうから、かなりの大家族である。しかし、これは、ただ子どもを養い育てるということではなくて、宗学を志すものを教育せずにはおれないという霊潭師の大いなる熱意があってのことである。

明光寺の記録によれば、学問に実子、養子のへだてなしということで、男6人を年齢順にならべて教育したとある。ふつうならわが子だけはという気もするわけだが霊潭師の心は、そのような小さなものではなかったようだ。霊観と名を改めた與三吉は、文字通りの寺子屋にあって、6人のうち第3席に座し、師の熱意に答えて、以来10年の間、日夜、修学にはげむのである。

ところで、明教院を育てた霊潭師とは、どうのような方であったかということを、ここに少し紹介してみると―。多くの偉人や名僧は、明教院のごとく、幼少より非凡の器などといわれるのだが、霊潭師は全く逆であった。師は幼名を威相といったが名前とはうらはらにその性質はさっぱりで、両親は心配し、「お前は寺をつぐ器ではない」といわれる。これを聞いた彼は「よし」とばかり家を出る。

単身、京都へのぼった彼は、書物屋のおやじをつかまえて「いま1番えらい男はだれか」と聞く。おやじ答えて「松尾の大華厳寺の鳳潭和尚」。彼はすぐさま鳳潭の門をたたき、ここで6年、華厳を修し、師の一字をいただいて霊潭と名乗る。

学問を身につけた彼は、久しぶりに自坊に帰り、父に許しを乞うのだが「他宗の学問ばかりに身を入れおって」――としかられ、また京都へ逆もどり。ここで本願寺の能化、智空師の門に入り、5年の歳月を祖師聖人一流の要義の修得に費やす。ここでようやく老父母は満足し、明光寺住職におさまったというのである。明教院の博学はこの霊潭師のまわり道のおかげなのであろう。師の辞世の句は明教院が口述筆記したもので、つぎのようにうたわれてある。

よしあしも弥陀の誓にまかせつつ
南無阿弥陀仏ととなふばかりぞ

若き学僧善巧寺の嗣(よつぎ)
(寺報善巧第6号 昭和53年4月1日)

恩師霊潭(れいたん)のもとで10年の間、宗学を学んだ明教院は21歳のとき、縁あって浦山善巧寺の嗣(よつぎ)となる。その縁というのは、およそつぎのようなことであったようだ。

明教院が上市村の明光寺で勉学にはげんでいるころ、善巧寺には第10世の住職、慶翁がいた。この慶翁には男1人、女4人の子どもがあった。ところが、嗣となるべき長男の証順が享保15年12月31日に不幸しにてなくなってしまった。慶翁は、あとつぎを、迎えるべく、方々に手をつくした。そんなとき、霊潭師の話が耳にはいった。聞けば師のもとには、在家出身の若い学僧が4人もいる。いずれおとらぬ秀才ぞろいだというし、善巧寺のあとつぎは是非ともこの中からと考え、何度も足を運んだのであろう。そして、縁熟して、慶翁が明教院に白羽の矢を立てたとき、霊潭師は、おそらくこんなことをいったに違いない。

「条件は一つ。若き学僧の志を折るようなことはしないでほしい。霊観(のちの明教院)は、4人の門弟の中でも、最もすぐれた男です。10年の学問ではまだまだ満足していない。おそらく、京都の本山の学林で、さらに勉強したいというはずだ。また、これは宗門のためにも、善巧寺のためにもなることだ。嗣に迎えても、彼の思いのままに、学問させてやってください」
「願うところだ。それにわたしも元気だし、ご法義繁盛のために大いに後押しすることにいたしましょう」

慶翁は事実、明教院を京都に出し、以来30年の間、住職の仕事を一手に引き受け、明教院の志をまっとうさせるのである。

京へ第二の旅立ち

さて、善巧寺の嗣(よつぎ)となった明教院は、慶翁とそして門徒衆に送られて京都へと、学問修行の旅に出る。ちょうど10年前、水橋の実家から上市の霊潭師のもとへと上市川をのぼったのが第一の旅立ちとするならば、10年後のこのときが、彼にとっては第二の旅立ちとなったわけである。

しかし、その彼の胸中には、一つだけ、心残りでならないことがあった。それは、この10年間、ひそかに第二の師と仰いでいた本願寺の能化(学界の最高職)法霖師が、49歳の若さでなくなられたということである。

師は紀州の生まれ。17歳で得度、2年後には早くも「選択集」の講義をして参聴の衆徒を驚かした。27歳のとき京都に出て学林で若霖に師事して自他宗の学を研いた。若霖はその器を愛し当時の法主寂如上人にすすめて副講とし、また自坊の法嗣とした。そして、若霖がなくなったあと、法霖は学林の能化職になった人である。

そして霊潭師が一時師と仰いだ華厳宗の鳳潭師と論争すること2年、ことごとく鳳潭の難を論破して、天下にその名をとどろかせた法霖師のことは、霊潭師から何度となく聞かされていた。だからこそ明教院は、彼を第2の師と仰ぎ、是非とも、じかに会ってその教えを聞きたいと思っていたのである。

法霖師なきあと、はたしてよき師にめぐり逢うことができるのだろうか―そんな不安のつのる明教院を、学林にあたたかく迎え入れたのは、法霖師の一の弟子、越中射水郡小泉村出身の傑僧、僧樸師であった。

大和河畔に法脈のあかし
寺報善巧第7号 昭和53年7月1日)

国道26号線、大阪と堺を分けて流れる大和川の右岸。ここの堤防からながめると、遠くに臨海工業地帯、そしてビルや住宅がひしめきあってならんでいる。そのなかにふと真新しい寺の屋根が見える。あれだ。あの寺が、じつは、明教院と師僧の関わりを語るには欠かすことができない寺なのだ。

書物によると、善巧寺の嗣(よつぎ)となった明教院は、その後間もなく、京へのぼる。そして、そこで、僧樸師と出逢う。僧樸師は越中射水郡小泉村の出身。同じ越中というだけでなく、この二人は時こそ違うが、いずれも上市明光寺、霊潭師の感化をうけている。明教院は、師の下で10年の宗学を学び、僧樸師は、その霊潭師の講義を若い頃に聞き、それを空んじるばかりか、師の講義の中から十ヵ条もあげて質問した。それはいずれも古来難しとされる疑義であったので大衆は一ぺんに辟易し、僧樸の名はこれより急に高まったという。

僧樸師はその後、京で日渓法霖の門に学び、ひどい貧乏で食べるものもないほどであったが、平然と勉学にはげみ、たまたま米が手に入ると、炊く時間もおしいと生米をかんで学問した。以来、彼は“米かみ僧樸”といわれ、法霖門下一の学匠となるのである。

その僧樸と京で出逢った明教院は、彼の門下生となり、以来10年名も僧樸師より一字いただいて僧鎔と改め宗学を研鑽する。そして、功あって門下筆頭に進み、31歳のとき、学林においてはじめて講義をするに至るのである。

僧樸師の僧鎔にかける期待がいかに大なるものであったか―、これを知るために、いま一つの史実をあげよう。それは僧樸師が堺に巡化したときのこと、小山屋久兵衛という人が深く師に帰依し、摂津北島新田(いまの大阪、住之江)に一宇の寺を創建した。師はここを拠点に泉州一帯を教化し、三重苦の娘には仏像を与えて念仏の道に入らしめたという有名な逸話ものこっている。ところが、その師が、44歳にして病に倒れた。このとき、師は、その所有していた秘書珍籍をことごとく僧鎔に与え、さらに先の寺をも、僧鎔に譲ったのである。

07
富山から500キロ、車の旅でようやく訪れたことができたのはじつはこの寺だったのだ。大阪住吉区の祐貞寺。明教院は僧樸師の遺志をついで、この寺の住職をも兼ねていた。山門をくぐると、左手にいま建設中の本堂があり、右手に古い庫裡(くり)がある。

「ようこそ」と迎えて下さったのは、ここの老坊守と住職、壇特氏。「代々、ここは血脈ではなく法脈によって継がれた寺でした。僧樸師にはじまって僧鎔師、さらには性海師と勧学の方の寺でした。僧鎔師の話もよくうかがってはおりました。」

座敷のとなりには昔のままの道場風の御堂があり、その奥には書院がある。
「僧樸師も、僧鎔師も、ここで書物をおひらきになったのでしょうな。」と、住職。お見せいただいた過去帳には、明教院僧鎔が筆をとった“無常帖序”の一文があった。秋には是非門徒衆とこの寺へ―と申し上げると、
「御縁ですなあ。お待ちしています」とのあたたかいおことばがいただけた。脈々とつづくお念仏の流れは、200年へだてたいまも、あの大和川の流れよりも力強いものだと心打たれる思いであった。

本尊義斥謬(ほんぞんぎしゃくびょう)

かくの如く少年時代に英悟をもって見出され、かつ多年の研鑽をつんだ師は、やがて学界に立って多くの事績を残した。そのはじめて学林において講義をしたのは31歳の時であったが、爾来連年多くの講述を重ねた。『真宗僧宝伝』の著者安芸の海蔵は、大無量寿経の講義、愚禿鈔の講義、正像末和讃の講義等を親しく聴講して、何ぞ感戴(かんたい)に堪えんやと随喜(ずいき)の言葉を残して居る。

また41歳の時には命をはいして錦華殿(きんかでん)に侍講し、51歳の時には飛騨の古川に異安心の争いが起こったので、命によって親しくこれを治めた。

かつて東播(とうばん)の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』一巻を著わすや、ひいて学派の論争となっていわゆる本尊義論争と称せられる事件がおこった。その時にあたって師は『本尊義百問』を撰し、更に『本尊義斥謬』一巻を作って、智暹説を駁(ばく)した。智暹がことさらに大無量寿経の霊山所礼(れいざんしょらい)の仏身をもって真宗の本尊であるとし、観経の仏身をもって四身門の応身であると見下すのは、これ学派的偏見のためにも古今の定説を蔑視するものであるとし、観無量寿経に説いてある住立空中の尊をもって真宗の本尊とすることは古来の確説であり、近くは日渓法霖(にっけいほうりん)の『方便法身義』の如きも、その義をあらはすに外ならぬということを説いたのである。

初め門弟達の乞いによって小室を堂の傍らに構えて空華盧と称したが、入門の者日に加わり、学徹は江湖(こうこ)に普(あまね)く、ついにはその門に学ぶものほとんど3,000人に及んだという。天明3年秋、越中と山の客舎にて病を獲、9月には法事讃念仏を修して傍らの人に助和(じょわ)せしめ、25日以来一心に称名念仏し、10月11日、世壽61歳をもって示寂(じじゃく)した。

雲旬老人が師の一生の行蹟を語って、11歳で得度し、21歳で浦山善巧寺の嗣法(しほう)となり、31歳で初めて講述し、41歳にて侍講の命を蒙(こうむ)り、51歳にて排官しm61才にて終わられたといったが、全くそうなっているので、こればた偶然ながら一奇というべきである。