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ほっこり法座Q&A

5月16日に行われた「ほっこり法座」のアンケートの中でいくつかご質問をいただきました。日下賢裕先生より丁寧なお返事を送ってもらいましたので、許可をいただき一部ここに共有します。





お寺の行事で朝事(あさじ)とありますが、これも仏教語ですか?



朝のお勤め(お参り)をお朝事と呼びますね。仏教語、というわけではありませんが、私たちもそのように呼ばせていただいております。正式には、晨朝勤行(じんじょう ごんぎょう)といいます。かつては一日を6つに分けて、一日六回のお勤めを行っていました。今で言う朝の時間が晨朝と呼ばれたので、晨朝勤行と呼ばれています。





ナモアミダブツと称える時、なぜ「ツ」はハッキリ言わないんですか?



「ツ」は唾が出やすい言葉で、仏さまの前では失礼にあたるということから、ハッキリ発音しないと聞いたことがあります。古来より、お経の正式な読み方には、口からではなく鼻から息を抜いて発音する「鼻音(びおん)」と呼ばれる唱法があります。





善人と悪人とは同時にあるものでしょうか?



一般論で言いますと、私達には善と悪の両面があるのだと思います。
仏教的に考えますと、善人とは悪を為さない人と言えますから、同時には存在しません。また仏教で言う悪というのも、犯罪を犯すようなことではなく、例えば嘘をついたり、綺語(お世辞を言う)、悪口(汚い言葉を使う)なども悪い行いとなります。行動に移さなくても、人を傷つけようと心に思うことも、悪い行いです。ですから、仏教で言う悪を為さない、ということは実はとてもむずかしいことです。

とは言え、悪を為す人であっても、善い行いもできるはずなのですが、清らかな水に一滴でも毒が混じればそれは毒水となってしまうのと同じように、私たちの行いは、毒が混じった雑毒の善、と呼ばれたりもします。完全なる善を為す、というのは、実はとてもむずかしいことと言えるかもしれません。

また「歎異抄」で言うところの善人・悪人は少し意味合いが異なっておりまして、善人とは、自分の行いを振り返らず自分を善人だと思い、自分の力で仏となれると思っている人、悪人は、自分の行いを振り返って、自分の悪を見つめ、自分では仏となるなど到底できない、阿弥陀仏の力によるしかないとする人、という理解です。ですので、こちらも善人から悪人に、ということはあっても、同時に、ということはないかと思います。





真実に目覚めることができるでしょうか?



真実に目覚める。言葉で言ってしまいますととても簡単なようですが、なかなか難しいことです。知識として知ることはできるかもしれませんが、それを「我が事」として行いにまで反映されるということが、特に私たちには難しいのです。例えば、怒ることは煩悩による誤った行為である、という教えを聞いても、実際に怒らないようにできるわけではありません。目覚めるということは、頭で理解することではなくて、行いにまでしっかりと結び付けて、100%徹底できる、ということです。

その難しさに気づかれたのが、法然聖人であったり親鸞聖人でした。そんな私が、目覚めていけるのか?ということに悩まれて、そう徹底できない自分のために、すでに目覚められた阿弥陀仏という仏さまが、私を目覚めたいのちとして迎えとりますよ、とはたらいてくださっている。その阿弥陀仏という仏さまのはたらきに出会われて、私たちのところに今ありますのが、浄土真宗という教えになります。ですから、自分の力では目覚めることができなくても、目覚めたいのちとならせていただける教えというのが、浄土真宗ということになります。

いのちを考える/梯實圓和上

このテキストは、昭和62年に行われた「行信教校OB会並びに黒西組内研修会」での梯實圓和上の記念講演を抜粋したもので、善巧寺の寺報46号(昭和63年)に掲載されました。
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いのちというものを考えてゆきますときに、まず、私は「生命」と漢字で書く場合と「いのち」とかなで書く場合と、ちょっと区別をしておきたいと思うのです。と申しますのは、この「生命」というものの一番小さな単位として考えられるのは、細胞でございましょう。もちろんさらに小さく分子、原子、素粒子・・・ということになるかもしれませんが、いわゆる生命現象としてみますと細胞ということになるでしょう。単細胞動物から多細胞で組織をつくり、それが機関というものをつくりあげ、それが系を、またそれの統合されたものとして「個体」というものが成立するわけです。ゾウリ虫からイヌ、ネコ、人間にいたるまで、こうした細胞のあつまりが分裂し、そして死骸を残して終わってゆきます。

これもまあ生命現象といえばいえるのですが、どうも私たちが、「いのち」という場合は、もう少し違った感じじゃないかと思うんです。例えばね、私がふと、目の前に、木から落ちて死んでいるセミの死骸を見ても、あまり心が動きません。「あ、セミが死んでいるな」というぐらいです。けれども、それが自分の子供だったらどうか-「あ、子供が死にかかっている・・・」なんて気安いものじゃないでしょう。その時に、いのちが失われるという同じことでも、セミと自分の子供とは全然違うでしょう。まあ、そんなところを私は「生命」と「いのち」と区別しているんです。まあ、このように「いのち」というものは、平常はなんとも意識しませんが、失われかけたときものすごい実在感をもって、私たちにせまってくるんですね。

さて、そこで「いのち」というものを考えますときに、まず、なんといっても「かけがえがない」ということが挙げられるのではないですか。かけがえのなさというのが、いのちを特徴づける一つの性格でございましょう。そして、いのちというものは、常に「具体的」なものである、といえましょう。さらに、いのちというのは、「一回きり」であります。そうでしょう。この私という人間がもう一度、この世の中へ出て来ようと思ったら、宇宙の150億年の歴史をもう一度くり返さないと出て来ない、いや、それでも無理でしょう。そうしますと、私というものの存在は二度と再び出現しないという、一回きりのものだということ、わかるでしょう。だから、その一回きりであるからこそ、失われてゆくことに対する無限の哀惜というものがわいてくるわけなんです。そう、いのちを惜しむということは、一回きりで、かけがえのないということに対する、正確な対応の状況であろうと思うのでございます。

そこでまず、このいのちは「かけがえのないもの」であるということを考えてみたいのですが、むずかしいこと抜きにして、いのちの特徴として、代わりがきかないということなんです。私のいのちは、私以外に生きてくれる人はいません。ちょっと、今日は忙しいので、私の代わりに死んでくれ、なんてことはできないんです。私の死は、私以外に死にようがない、この一つだけでも私たち、はっきりしておいたほうがいいと思うんです。私以外に生きようのない私のいのちならば、私なりに納得のゆく生き方をしなかったら、いのちに対する責任が果たせないと違うか?このいのち私以外に死にようがないならば私の死は私らしく死んでゆこうという・・・そういう覚悟があってしかるべきじゃないかなと思います。かけがけのないいのち・・・言葉で言えばわかるんですが、普段、私たちは、かけがえのあるものばかり見ているのと違いますか?代わりのきくものばかりに目がいってしまっているんじゃないですか?

私、今日は講師としてここへまいりました。で、みなさんは講師の梯、というふうに見て下さる。しかし、この講師という方は、いくらでも代わりがあるんです。私が今ここで倒れても、あとはちゃんと誰かが代わって講義をしてくださるでしょう。けれども、この私、梯實圓には代わりはないんです。えらいややこしいこというようですけどね、これ一ぺん考えてみましょうや。

わかりやすくいいますとね。そうそう、私、前に、中曽根康弘さんにお会いしたことがあるんです。内閣総理大臣だったころ。いや、お会いしたといってもね、べつに訪ねていったわけでもないし、むこうが訪ねてきたわけでもない。駅でばったり出会ったんです。東京駅でした。築地本願寺から帰る時に、新幹線に乗ろうと思って駅へ入って行ったんです。そしたら駅員の方が、「ちょっと待って下さい」というんです。何かなと見たら、7人ほどそこへ止められている乗客がいる。そこへね、一分もたたぬうちに、ザッと一団の人がやって来た。見たら、真ん中に中曽根さん、で、向こうは知らんかも知れんが、こっちはよう知っとる。「ああ、中曽根さんか・・・」というわけで、見てましたら、まわりにボディーガードがついてましてね。背広の前をあけてね、あれピストル持ってるんでしょうな。横向きながら前へ歩いてゆくんです。それがタッタッターと、早いですな歩くのは。総理大臣にはなるもんやないね、ブラブラ歩けません。ゆっくり歩いてたらねらわれてあぶないんでしょうな。

それはさておき、その時、待たされているついでにふと思ったんですが、中曽根さん、内閣総理大臣・・・これはまあ行政府の長官ですからね。日本でも最重要なポストですわな。で、みんな、総理大臣というと、かけがえのないお方だと言っています。けど、よく考えてみると、総理大臣のかけがえなんか、なんぼでもおるのと違いますか。あんなの議事堂へ行ったら代わりたいのがクサるほどいますよ。だけどね、中曽根康弘という方の代わりはないわな。

私たちはね、社会的な地位とかね、そういうものだけで人間を見ているんじゃないですか。それであの人は尊い人やとか、つまらん人だとか、社会的な役割だけで、人を見て、それでなおかつ、人間を見た、いのちを見たと思っているんじゃないだろうか?自分にとって都合がいいかどうかで、かけがえのない人の「いのち」までも見てしまう。おそろしいことだけれど、こういうのが多いんじゃないですか。若い者が年寄を見て「役に立たんものはあっちへ行け」というような利用価値だけでものをいう。そして、お年寄りでもそうですね。

「私のように役に立たん人間になったら、もうどうしようもありません。生きてることがみんなの迷惑。早よう死んだほうがまし」

なんてこと、まあ、富山にはおられないでしょうが、あれ、あんまりいわんようにしましょう。役に立たんといって、自分で自分を見捨ててどうするの。これは、自分の「いのち」に対する、最大の冒とくですよ。これだけはやめましょう。何の役に立たなくても、そこに生きているということで、無限の意味と価値をもっている。それが「いのち」というものなんだと味わえる、そういった「目」をひらいてゆかねばならないと思うんです。そういった目をひらいて下さるのが、仏さまなんですよ。どうかみなさん、仏さまのおっしゃることをよく聞いて、人のいのち、自分のいのを、ただ利用価値で見るのではなく、かけがえのないすばらしいものなんだということに気付いていただきたいと思うのです。

善巧寺寺報46号掲載(昭和63年)
行信教校OB会並びに黒西組内研修会

実のないイチョウの木の話

実のないイチョウの木の話
~うなづき昔話より~
絵本制作:上坂次子

002
浦山の善巧寺に明教院僧鎔(みょうきょういん そうよう)という学問に熱心なお坊さまがおられました。自分に厳しい人でしたが、村の者には大そうやさしく、人望もあり、日本国中から明教院さまをしたってさまざまな人がやってくるほどでした。その頃(二百数十年前)の寺はまだ小さく、本堂の屋根は栗板ぶきで石がのっていました。境内のイチョウもまだ若く、生き生きとした枝を空にのばしていました。

003
村の子どもたちは、明教院さまとこのイチョウが大好きで、天気のよい日はいつもお寺にやってきました。明教院さまも素直な子どもたちが大好きで、よくいっしょにかくれんぼなどして遊んでおられました。また、子どもの笑い声が快く響いてくると本を閉じて子どもたちの姿を眺めておられることもありました。

007
秋も終わりに近づくとイチョウの葉は黄色に色づき、その葉間から晩秋の透明な陽がサラサラと流れ出てきます。そのころになると、子どもたちは一層足速くお寺にやってきて、イチョウをじっと見上げるのでした。
「まだかな?」
「まだみたい・・・」
そうなのです。子どもたちはイチョウの実が落ちてくるのを待っているのです。寺のイチョウは特においしく、パーンとはねて囲炉裏をとび出す緑色の香ばしさはこの上もありません。

005
幾日かたって実がパラパラ落ちだすと、子どもらは競って拾いはじめました。ここに、あそこに、目ざとく見つけては、着物の袖やらボロぎれで縫った袋に入れました。ところが強ばった男の子が、ひとつのイチョウでけんかし始めたのです。
「こりゃ、おらのだ!」
「ちがわ、おらが先に見つけたんだい!」
しまいには取っ組み合いを始め他の子どもたちもワイワイはやしたてたので境内は大騒ぎ。

006
その様子をご覧になった明教院さまは寂しい気持ちになられました。そしてイチョウに向かってこうおっしゃったのです。
「イチョウよ、頼むからもう実をつけてくれるな」

007
それからというもの、そのイチョウには実がつかなくなったのです。

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善巧寺の境内にはそのイチョウが今ではどっしりした大樹となって立っております。

009

明教院釈僧鎔を訪ねて

生家渡辺家をたずねて
(寺報善巧第4号 昭和52年10月1日より)

04 国道8号線の上市川を浜側に折れて川沿いにしばらくゆくと、水橋の新興住宅に囲まれるようにして、市江(いちえ)という村がある。明教院の生家、渡辺家はこの村のほぼ中央にあった。石垣と板べいをめぐらしたかわらぶきの落ち着いた農家である。
「ようこそこられました」
迎えて下さったのは、77歳になる渡辺彦作さんだった。
「ほう、もうすぐ200回忌ですか。わたしが父に連れられて、150回忌のお参りに、善巧寺へよせてもらってから、50年たつんですねえ」
彦作さんは感慨無量のようである。
「明教院さんのことは、わたしも、まごじいからよく聞かされたものですよ」
といって代々伝わる家系の巻物をひろげながら、彦作さんはポツリ、ポツリと、渡辺家に語りつがれてきた、若き日の明教院のことを話される。
「この家の三男坊として生まれなさったんだが、そのときのいい伝えでは、母親が満月のある晩、そのお月様をスーッと飲み込んでしまいましてな。こりゃあ不思議なこともあるものだとおどろいていたら、次の日に、赤児をはらんだ。それが明教院さんだったそうです」

生まれながらにしてただ人ではなかったということを物語る伝説なのであろう。明教院は享保8年(1723)に誕生。名は與三吉といった。3歳の頃から書を読み、字を書き、ときたま訪れる上市新屋の明光寺の住職、霊潭(れいたん)師の説教も熱心に聞き入っていたとう。
「きかん坊だったそうですが、あるとき川原で遊んでいたら、そこを通りかかってた高僧が、與三吉をみるなり、あれはこどもではない。生き仏様だといわれたとも聞いております」

幼い頃のエピソードはいろいろあって、その高僧というのがじつは霊潭師であって、與三吉をみつけるなり、自分の寺に連れて帰ってすぐに得度をさせた、という話もある。しかし、彦作さんの話によればそうではなく、霊潭師の奥さんがじつは與三吉のおばにあたる人で、そんな関係から、渡辺家と霊潭師はよく顔を合わせていたのだろうという。とにかく、幼い頃から秀でた才能の持主であった與三吉は、霊潭師にみとめられ、本格的な学問をするために、明光寺に引き取られてゆくのである。当時、與三吉は11歳。上市川の川口近くから上流へ数里、立山を一望にできるこの道のりを、與三吉は希望に胸ふくらませて歩んでいったにちがいない。

恩師霊潭(れいたん)師との出逢い
(寺報善巧第5号 昭和53年1月1日)

05 水橋村の農家に生まれた、渡辺與三吉(のちの明教院)は、幼いときから非凡の器であったといわれる。渡辺家のいい伝えによれば、近くの寺で法座があれば必ず参り、客僧の説教をすべて覚え、字の読めない頃から、お経をスラスラと空んじるほどだったという。

その與三吉が、上市・新屋の明光寺住職霊潭師と出逢ったのは、11歳のときである。地方の碩学であった霊潭師は與三吉を一見して、その才能を見抜き、宗学を学ばせたいものだと親に相談し、すぐに養子として迎えて、剃髪し、自分の名を一字とって、霊観と名付けたという。

当時、霊潭師には実子が三男、三女、それに與三吉、さらにもう三人の養子をかかえていたとうから、かなりの大家族である。しかし、これは、ただ子どもを養い育てるということではなくて、宗学を志すものを教育せずにはおれないという霊潭師の大いなる熱意があってのことである。

明光寺の記録によれば、学問に実子、養子のへだてなしということで、男6人を年齢順にならべて教育したとある。ふつうならわが子だけはという気もするわけだが霊潭師の心は、そのような小さなものではなかったようだ。霊観と名を改めた與三吉は、文字通りの寺子屋にあって、6人のうち第3席に座し、師の熱意に答えて、以来10年の間、日夜、修学にはげむのである。

ところで、明教院を育てた霊潭師とは、どうのような方であったかということを、ここに少し紹介してみると―。多くの偉人や名僧は、明教院のごとく、幼少より非凡の器などといわれるのだが、霊潭師は全く逆であった。師は幼名を威相といったが名前とはうらはらにその性質はさっぱりで、両親は心配し、「お前は寺をつぐ器ではない」といわれる。これを聞いた彼は「よし」とばかり家を出る。

単身、京都へのぼった彼は、書物屋のおやじをつかまえて「いま1番えらい男はだれか」と聞く。おやじ答えて「松尾の大華厳寺の鳳潭和尚」。彼はすぐさま鳳潭の門をたたき、ここで6年、華厳を修し、師の一字をいただいて霊潭と名乗る。

学問を身につけた彼は、久しぶりに自坊に帰り、父に許しを乞うのだが「他宗の学問ばかりに身を入れおって」――としかられ、また京都へ逆もどり。ここで本願寺の能化、智空師の門に入り、5年の歳月を祖師聖人一流の要義の修得に費やす。ここでようやく老父母は満足し、明光寺住職におさまったというのである。明教院の博学はこの霊潭師のまわり道のおかげなのであろう。師の辞世の句は明教院が口述筆記したもので、つぎのようにうたわれてある。

よしあしも弥陀の誓にまかせつつ
南無阿弥陀仏ととなふばかりぞ

若き学僧善巧寺の嗣(よつぎ)
(寺報善巧第6号 昭和53年4月1日)

恩師霊潭(れいたん)のもとで10年の間、宗学を学んだ明教院は21歳のとき、縁あって浦山善巧寺の嗣(よつぎ)となる。その縁というのは、およそつぎのようなことであったようだ。

明教院が上市村の明光寺で勉学にはげんでいるころ、善巧寺には第10世の住職、慶翁がいた。この慶翁には男1人、女4人の子どもがあった。ところが、嗣となるべき長男の証順が享保15年12月31日に不幸しにてなくなってしまった。慶翁は、あとつぎを、迎えるべく、方々に手をつくした。そんなとき、霊潭師の話が耳にはいった。聞けば師のもとには、在家出身の若い学僧が4人もいる。いずれおとらぬ秀才ぞろいだというし、善巧寺のあとつぎは是非ともこの中からと考え、何度も足を運んだのであろう。そして、縁熟して、慶翁が明教院に白羽の矢を立てたとき、霊潭師は、おそらくこんなことをいったに違いない。

「条件は一つ。若き学僧の志を折るようなことはしないでほしい。霊観(のちの明教院)は、4人の門弟の中でも、最もすぐれた男です。10年の学問ではまだまだ満足していない。おそらく、京都の本山の学林で、さらに勉強したいというはずだ。また、これは宗門のためにも、善巧寺のためにもなることだ。嗣に迎えても、彼の思いのままに、学問させてやってください」
「願うところだ。それにわたしも元気だし、ご法義繁盛のために大いに後押しすることにいたしましょう」

慶翁は事実、明教院を京都に出し、以来30年の間、住職の仕事を一手に引き受け、明教院の志をまっとうさせるのである。

京へ第二の旅立ち

さて、善巧寺の嗣(よつぎ)となった明教院は、慶翁とそして門徒衆に送られて京都へと、学問修行の旅に出る。ちょうど10年前、水橋の実家から上市の霊潭師のもとへと上市川をのぼったのが第一の旅立ちとするならば、10年後のこのときが、彼にとっては第二の旅立ちとなったわけである。

しかし、その彼の胸中には、一つだけ、心残りでならないことがあった。それは、この10年間、ひそかに第二の師と仰いでいた本願寺の能化(学界の最高職)法霖師が、49歳の若さでなくなられたということである。

師は紀州の生まれ。17歳で得度、2年後には早くも「選択集」の講義をして参聴の衆徒を驚かした。27歳のとき京都に出て学林で若霖に師事して自他宗の学を研いた。若霖はその器を愛し当時の法主寂如上人にすすめて副講とし、また自坊の法嗣とした。そして、若霖がなくなったあと、法霖は学林の能化職になった人である。

そして霊潭師が一時師と仰いだ華厳宗の鳳潭師と論争すること2年、ことごとく鳳潭の難を論破して、天下にその名をとどろかせた法霖師のことは、霊潭師から何度となく聞かされていた。だからこそ明教院は、彼を第2の師と仰ぎ、是非とも、じかに会ってその教えを聞きたいと思っていたのである。

法霖師なきあと、はたしてよき師にめぐり逢うことができるのだろうか―そんな不安のつのる明教院を、学林にあたたかく迎え入れたのは、法霖師の一の弟子、越中射水郡小泉村出身の傑僧、僧樸師であった。

大和河畔に法脈のあかし
寺報善巧第7号 昭和53年7月1日)

国道26号線、大阪と堺を分けて流れる大和川の右岸。ここの堤防からながめると、遠くに臨海工業地帯、そしてビルや住宅がひしめきあってならんでいる。そのなかにふと真新しい寺の屋根が見える。あれだ。あの寺が、じつは、明教院と師僧の関わりを語るには欠かすことができない寺なのだ。

書物によると、善巧寺の嗣(よつぎ)となった明教院は、その後間もなく、京へのぼる。そして、そこで、僧樸師と出逢う。僧樸師は越中射水郡小泉村の出身。同じ越中というだけでなく、この二人は時こそ違うが、いずれも上市明光寺、霊潭師の感化をうけている。明教院は、師の下で10年の宗学を学び、僧樸師は、その霊潭師の講義を若い頃に聞き、それを空んじるばかりか、師の講義の中から十ヵ条もあげて質問した。それはいずれも古来難しとされる疑義であったので大衆は一ぺんに辟易し、僧樸の名はこれより急に高まったという。

僧樸師はその後、京で日渓法霖の門に学び、ひどい貧乏で食べるものもないほどであったが、平然と勉学にはげみ、たまたま米が手に入ると、炊く時間もおしいと生米をかんで学問した。以来、彼は“米かみ僧樸”といわれ、法霖門下一の学匠となるのである。

その僧樸と京で出逢った明教院は、彼の門下生となり、以来10年名も僧樸師より一字いただいて僧鎔と改め宗学を研鑽する。そして、功あって門下筆頭に進み、31歳のとき、学林においてはじめて講義をするに至るのである。

僧樸師の僧鎔にかける期待がいかに大なるものであったか―、これを知るために、いま一つの史実をあげよう。それは僧樸師が堺に巡化したときのこと、小山屋久兵衛という人が深く師に帰依し、摂津北島新田(いまの大阪、住之江)に一宇の寺を創建した。師はここを拠点に泉州一帯を教化し、三重苦の娘には仏像を与えて念仏の道に入らしめたという有名な逸話ものこっている。ところが、その師が、44歳にして病に倒れた。このとき、師は、その所有していた秘書珍籍をことごとく僧鎔に与え、さらに先の寺をも、僧鎔に譲ったのである。

07 富山から500キロ、車の旅でようやく訪れたことができたのはじつはこの寺だったのだ。大阪住吉区の祐貞寺。明教院は僧樸師の遺志をついで、この寺の住職をも兼ねていた。山門をくぐると、左手にいま建設中の本堂があり、右手に古い庫裡(くり)がある。

「ようこそ」と迎えて下さったのは、ここの老坊守と住職、壇特氏。「代々、ここは血脈ではなく法脈によって継がれた寺でした。僧樸師にはじまって僧鎔師、さらには性海師と勧学の方の寺でした。僧鎔師の話もよくうかがってはおりました。」

座敷のとなりには昔のままの道場風の御堂があり、その奥には書院がある。
「僧樸師も、僧鎔師も、ここで書物をおひらきになったのでしょうな。」と、住職。お見せいただいた過去帳には、明教院僧鎔が筆をとった“無常帖序”の一文があった。秋には是非門徒衆とこの寺へ―と申し上げると、
「御縁ですなあ。お待ちしています」とのあたたかいおことばがいただけた。脈々とつづくお念仏の流れは、200年へだてたいまも、あの大和川の流れよりも力強いものだと心打たれる思いであった。


本尊義斥謬(ほんぞんぎしゃくびょう)

かくの如く少年時代に英悟をもって見出され、かつ多年の研鑽をつんだ師は、やがて学界に立って多くの事績を残した。そのはじめて学林において講義をしたのは31歳の時であったが、爾来連年多くの講述を重ねた。『真宗僧宝伝』の著者安芸の海蔵は、大無量寿経の講義、愚禿鈔の講義、正像末和讃の講義等を親しく聴講して、何ぞ感戴(かんたい)に堪えんやと随喜(ずいき)の言葉を残して居る。

また41歳の時には命をはいして錦華殿(きんかでん)に侍講し、51歳の時には飛騨の古川に異安心の争いが起こったので、命によって親しくこれを治めた。

かつて東播(とうばん)の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』一巻を著わすや、ひいて学派の論争となっていわゆる本尊義論争と称せられる事件がおこった。その時にあたって師は『本尊義百問』を撰し、更に『本尊義斥謬』一巻を作って、智暹説を駁(ばく)した。智暹がことさらに大無量寿経の霊山所礼(れいざんしょらい)の仏身をもって真宗の本尊であるとし、観経の仏身をもって四身門の応身であると見下すのは、これ学派的偏見のためにも古今の定説を蔑視するものであるとし、観無量寿経に説いてある住立空中の尊をもって真宗の本尊とすることは古来の確説であり、近くは日渓法霖(にっけいほうりん)の『方便法身義』の如きも、その義をあらはすに外ならぬということを説いたのである。

初め門弟達の乞いによって小室を堂の傍らに構えて空華盧と称したが、入門の者日に加わり、学徹は江湖(こうこ)に普(あまね)く、ついにはその門に学ぶものほとんど3,000人に及んだという。天明3年秋、越中と山の客舎にて病を獲、9月には法事讃念仏を修して傍らの人に助和(じょわ)せしめ、25日以来一心に称名念仏し、10月11日、世壽61歳をもって示寂(じじゃく)した。

雲旬老人が師の一生の行蹟を語って、11歳で得度し、21歳で浦山善巧寺の嗣法(しほう)となり、31歳で初めて講述し、41歳にて侍講の命を蒙(こうむ)り、51歳にて排官しm61才にて終わられたといったが、全くそうなっているので、こればた偶然ながら一奇というべきである。

空華学轍の思想/桐谷順忍

【空華学轍とは】
空華学轍といわれるものは、明教院僧鎔師(1723~1783)が、号を空華といい、学塾を空華廬といったので、その学轍を空華学轍といったのである。その弟子には柔遠(1742~1798)道穏(1741~1813)の二師があり、柔遠師は常に越中に住していたが、道穏師は多く近畿に住しており、その弟子の性海(越中の生まれ)に至って学説が展開したので、その弟子、善譲などの学派を境空華とも称し、越中を中心にして展開したものを越中空華といっているが、学説としては大筋において異なるものではないようである。もちろん学者によって多少の学説の左右はあるが、それは学者の個性によるもので、その基礎的なものにおいては、まったく同じ傾向のものである。

DSCN6023この学轍には、柔遠・道穏の後には、行照、性海、善譲、鮮妙などの諸学匠が配出し、道穏の弟子月珠は師説とはやや趣を異にする学説を説いて、豊前学派とはいっているが、この学轍からの分派というべきである。しかも、明治の初年までは、西本願寺の宗学においては、主流的な役割をしてきたものである。

この学轍の特色ともいうべきものの一つは、おそらく柔遠師によってはじまったもののようであるが越中で学寮を開き、子弟を教育しても、各々の学匠は、自分の弟子としないで、僧鎔の墓に参らせて空華の学弟子といったようである。だから、学者が学塾を開いても、その学寮の学生であるという印に木札に「丸に花」という焼きばんのあるものを用いていた。それは私の子供の時、祖父の印順の仏母寮の学生が、托鉢に出るとき、仏母の学生であることの証明として用いた木札が本堂の裏に幾枚かあったのを記憶しているのである。

これは、越中においては、学塾を開き、学生を養育しても、それは空華師の弟子であり、自分の弟子とは考えていなかったようである。

DSCN6003【絶対他力の思想】
この学轍の思想的特色ともいうべきものは、絶対他力の主張であると思われるのである。それについては、具体的に他の学轍の学説と比較して示さなければならないが、そのことについては後に述べることにする。

その主張の根底となる絶対他力について少し説明しておこう。もし、他力という言葉を自力に対する意味で用いるものならば、絶対他力という言葉は無理である。自力という待対の意味をもつものであるなら、待対をはなれた絶対という言葉は用いてはならないのである。しかも、私は絶対他力という言葉を用いているのだが、その意味は西田幾多郎先生がもちいられる「絶対無」の意味であって、この場合の「無」とは「有に対する無」ではなく「有の無限否定」である。したがって、今いう絶対他力とは「自力の無限否定」を意味するものである。

だから、絶対他力という思想は衆生が浄土に往生するには、全部が全部、阿弥陀如来の名号・願力によるものであって、凡夫の自力的なものは無限に否定する思想であり、反面からいえば、私からは成仏する可能性を無限に否定する「絶対悪」の思想ともなるのである。

この立場にたつかぎり、浄土往生の因である信心は他力回向のものであることはもちろん、大行も名号であり、成仏の可能性としての本有仏性も否定し、宿善他力説など、往生成仏に関するあらゆる善は如来回向のものであるといわざるを得なくなり、それだけではなく、信後の生活においても、私たちの行う善的な行為は、悉く如来回向の名号の発露であるという要門助正説とならざるを得ないのである。こうした基礎的な思想的立場の理解なしには、空華学轍の主張を理解することは出来ないのである。

しかも、この絶対他力の思想こそ、浄土真宗だけでなく、あらゆる救済教の究竟的なものであり、救済教の当然いたるべき結論的な思想であると思われるのである。

IMG_1248【救済の論理】
では救済教において、究竟的には、救う如来は救済力において絶対性をもち、救われる衆生は絶対悪的な性格をもつに至る必然性はどこにあるのか、その論理の基礎的なもの、またその展開の経路などについて考えてみたい。

私はその基礎的なものは、救われる者の慶びの心情であり、その心情の必然な論理性によるものであり、それを「救済の論理」といいたいのである。もちろん「救済の論理」といえば、救者である如来からの論理、救いの論理が主体となるべきものであろうが、自分はいま、被救者の立場、救われる者の心情から生ずる必然的な面を取りあげて「救済の論理」と名づけたいのである。それによって、浄土真宗の如来善の絶対性と、衆生悪の絶対性の生ずる必然の論理を究明したいのである。

救われる者の慶びの心情の構造ともいうべきものは、宗祖の説かれた「教行信証」の三哉がよくその内容を示しているようである。三哉とは「誠なる哉」「慶しき哉」「悲しき哉」の三である。「誠なる哉」は総序の文に一カ所あるだけであるが「慶しき哉」は総序の文と後序の文の二カ所にあり、「悲しき哉」も信巻の終わりと、化巻の三願転入の文の前との二カ所にある。しかも、この三哉は第二の「慶しき哉」の心情が中心になって展開されるもののようである。

すなわち、救われる者の慶びはそれは誠のものであり、真実のものでなければ慶べないのである。阿弥陀如来の願力、名号は真実であり、誠なるものであるから慶べるのである。だから、総序の文には「誠なる哉、、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」と説かれたのである。このことを考えると「誠なる哉」とは「慶しき哉」の内容として考えられるのである。しかもその「慶しき哉」は、遇い難きものに遇い、聞き難いものを聞いたという心情のとき、一層つよく感ぜられるものである。それが総序の文に「慶しき哉、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と示されてある所以である。この遇い難きものに遇い、聞き難いものを聞き得たという慶びの心情は、外部的なものであって、もしこれを自分の内面的なものでいえば「救われ難き私が、今救われるとは」ということになるのである。この「救われ難き私」とは、自分の悪人という反省である。だから、自分が救われ難い存在、罪悪深重であるという意識が強ければつよいほど、救われる慶びが強くなるのである。この悪人の救われる心情をもっとも適切に示されたものが、善導大師の信心の具体的なものとして示された「二種深信」であるといってよいのであろう。悲しき哉の心情は、二種深信の機の深信にあたるものとして味わうべきである。

「悲しき哉」という言葉は、宗祖は信巻末の真仏弟子釈の結文(大信の結文とも見るべき)のところに用いられているもので「誠に知りぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし」とある。

しかも、これは大信の徳を言葉を極めて讃嘆し、本願を信ずるものを真仏弟子といい、弥勒と同じとほめ「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」とたたえた後に記されたものである。

ここで注意すべきことは、聖人は多くの場合「愚禿釈鸞」といわれるのに、ここれは「釈」を略されているということである。このことは、自分は釈氏ではない、仏教徒としての資格もないのだという強い反省が動いていたのではないかということである。 この「悲しき哉」という自己現実の反省は、そうした悪人が今、救われていくとは・・・という慶びに変わり、慶びを新たにして深めるものである。それはいつも「誠なる哉」という、間違いのない如来の無惓の大悲につつまれている者の反省であるからである。若し大悲の救いの内省のないものなら「恥づべし、傷むべし」という言葉は出ないのである。この「誠なる哉」と「悲しき哉」とが相たすけて、「慶しき哉」を深めるものであるというべきである。

私はこの「誠なる哉」と「悲しき哉」の二を二種深信と合わせて味わっているのである。それは、「誠なる哉」のない「悲しき哉」は意味をもたないもので、救われる者の一面としてのみ意味をもつものであると考えるからである。しかも、この二は、二種深信のように矛盾性を吹くんだ一の信心の内容であるから、信心の味道の深まりとして、慶びの内容を動して行き、深めるものだといってよいでしょう。

【二種深信と三哉】
二種深信とは一信心(深心)の二性格であって、それは「どうしても救われない者」が「疑いなく慮りなく、如来によって必ず救われる」という機法二種の深信であるから、そこには「救われない者が救われる」という矛盾性をもっておる。しかも、この二種深信は決して一時的なものではなく、臨終までつづくものだといわれている。臨終まで続くということは、いつまでもくりかえす循環性であるということを示すものである。だから、二種深信とは、矛盾性・緊張性・循環性の三性質を有するものであるというのである。

矛盾性があるから、緊張し循環するのである。「落ちる者が、間違いなしに救われるとは」、だのに現実には「また落ちることばかりやっている。でも間違いなしに救われる」と、くりかえされるのである。それは「誠なる哉」と「悲しき哉」の無限の循環であるといってよいのである。

この「落ちる者が救われる。救われるのに叛いておる。叛いていても救われる」という繰りかえしが慶びを、いよいよ深めるものである。無限というものは、いつも繰りかえしによって生ずるものであり、その繰りかえしは、いつも内面的には相反する矛盾性を含むものである。

信仰の味道がたえず深まり、思想が常に深まって行くのには、その内面に含む矛盾性によるものであるといってよいでしょう。しかし、その場合に信心の内容としてその反対性である「疑」があるといってはならないのである。それは信心自身のもつ、二種深信の矛盾性であるというべきであり、それは慶びの内容を深めるものであって、往生の因法である信心が深まったり、動くと考えてはならないのである。

この二種深信の矛盾性による円環性が、救済教においては、如来の救済力の絶対性という思想になり、一面では被救者である衆生の絶対悪の思想となり、救いは如来の一方的な力によるものであり、救いに関しては衆生の参加を無限に否定する、絶対他力の思想となるのが救済教の必然的な思想というべきである。

【本有仏性の否定】
空華学轍のもっとも特色のある思想の一つには本有仏性否定の思想であろう。しかも、この思想が真宗教学の中心である行信論・助正論の基礎にもなるものであるから、もっとも注意すべきものである。

一切衆生悉有仏性という思想は「涅槃経」以来の実大乗といわれる仏教の定説となっているものであって、初期宗学においては、ほとんど問題にもならなかったのである。浄土真宗において、これが問題になったのは、宗学が研究されて、浄土に往生するのが如来の願力・名号によるものであるとの他力思想が深く考えられるようになってからである。具体的には、月筌(1671~1729)の時代であるといわれている。しかしこれが大きく問題になったのは、僧鎔・柔遠両師からだといってよいだろう。しかも、信心仏性説を明瞭に主張し、本有仏性を否定したのは柔遠からであるといってよいのである。

本有仏性の問題は、一切衆生に成仏する可能性が本来あるかどうかについての問題であって、一切衆生が成仏するという大乗仏教においては、衆生には本来仏性があるといわざるを得ないのである。因果律の立場からいえばそれは自力・他力の相違があるにしても成仏するという果が生ずることは果の生じない前に、果となるべき可能性のあることをあらわすものである。だから、それは阿弥陀如来の仏力他力によるものにしても真宗の信者が、名号を信じて成仏するのであるから、名号を信ずれば成仏するという仏性は、当然私に存在しているのだということが出来るのである。

因果律のものの考え方は、果が生じたということは、果にならない前に、その果の生ずべき因の存在を認めるものである。だから、自力他力の別はあるにしても、成仏すべき因のあることをそれ自身があらわすものである。この意味で僧叡(1762~1826)が本有仏性を「聖浄起化の宗源」と、仏性は聖道教にしても浄土教にしても、その化導のおこる根本であると、因果律の問題としたことは注意すべきであって、この因果の立場にたつかぎりには一切衆生の本有仏性は肯定せねばならないのである。

しかし、二種深信の機の深信の立場、救われて行く者の喜びの立場からいえば、私にたとえそれは如来回向の名号であっても、名号の回向にあずかれば成仏する可能性が本来あったのだと思えるだろうか。絶対他力とは、自力の無限否定だといった意味もそこにあるのである。その絶対他力の思想からいえば、本有仏性は否定せなければならないのである。

この意味では、本有仏性を肯定するか否定するかは、あくまで因果の論理の立場にたつか、信者の救いの慶びの心情に立つかの相違ともいえるのである。この点では宗学は単なる論理であるという立場を忘れてはならないのではないか。この意味で現在ひろく学界で用いられている「無自性仏性説」も、この説を説いた道振(1773~1824)も「無自性空とは仏智見の立場からいうものである」といっている。如来の立場からいえば、衆生に成仏の可能性のあること、如来との連続性のあることは論をまたないものである。絶対から相対へは連続だが、相対から絶対へは断絶であるとは、哲学者の常にいうところであって、如来(絶対)から衆生(相対)へは連続であるが、衆生より如来へは断絶であるといってよいのである。だから、この説を考えるときには「仏智見」であるということはもっとも注意すべきである。

僧鎔師の本有仏性否定の論理はあまり明瞭ではなく、柔遠師も信心仏性以外には宗祖には仏性というべきものはないと力説されているが、その論理については十分につくされたとは思わないのでありこれが完成されるのは、善譲(1806~1886)鮮妙(1835~1914)の遍満仏性説であろう。この説は十分ではないが、僧鎔師の時からあって、如来の正覚は久遠であり、阿弥陀如来は法界身であり、衆生の心中にも遍満しているからその仏性も無始より存在しているのである。だから、衆生に存在しなかった時はないがそれは衆生本来のものではなく、仏性の遍満によるものだとの主張があり、これは衆生に有する仏への志向性はことごとく如来よりのものであるという、絶対他力の思想から来るものである。

【宿善他力論】
絶対他力を主張するときには、獲信の因縁である宿善も当然、如来のはたらき、仏力他力によるものといわざるを得ないのである。

この説を完成したのは行照(1795~1862)である。師の説は「宿善とは当相自力・体他力」であるといわれている。この思想は、いまだ入信せない者にとっては自力だと思っているが、獲信者の立場からいえば、宿善そのものは如来の調熟の光明に外ならないというものである。

宿善とは獲信の因縁となるものではあるが、宿とは宿世という意味であるから、厳密にいえば「前世の善」という意味である。しかし、宿善とは必ずしも前世の善根だけではなく、獲信の前刹那までの因縁とするのであるが、この場合でも「宿」という文字のついているかぎり、それは獲信以前にいうべきものではなく、獲信者が獲信の原点に立って、この信心をいただいたのには、あの因縁もあり、この因縁もあったのだと反省した立場での名目である。だから、当相自力、体他力の思想は、宿善とは他力であり、如来の調熟の光明であるということになるのである。

宿善に自力・他力の異った学説の生ずる理由は、宿善を往生遅速の要因とするか、自己の獲信させていただいた慶びの上にたつ因縁とするかという、基礎的な態度の相違からくるものだと思われるのである。したがって、宿善そのものが自力や他力かを論ずる前に、宿善とは往生の遅速の理由を説明するものか、獲信の因縁を慶ぶ心情の立場から見るものかの決定が必要であり、そのいずれの立場にたつかによって、説の相違が分かれるのである。

それは「大経」の文
若人無善本(もし人、前世に善本がなければ)
不得聞此経(この経を聞くことは出来ない)
清浄有戒者(清い戒律を守った者でなければ)
乃獲聞正法(この正法を聞くことは出来ない)

また「御一代記聞書」(307)の
陽気陰気とてあり。されば陽気をうくる花は早くひらくなり。陰気とて日陰の花は遅くさくなり。かやうに宿善も遅速あり、されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひてはやくひらく人もあり、遅くひらく人もあり。

とある文などによって、衆生の往生について、已・今・当の往生の遅速のあるは宿善の厚薄によるものだと考える人々があるのである。

この人々の考えによれば、衆生の往生に遅速のあるのは宿善の厚薄によるもので、宿善の厚いものは早く往生し、薄いものは遅く往生することになるのだと考えるのである。如来の光明は平等にはたらくのであるが、平等に照らされていながら、往生に遅速の出来るのは宿善によるものだとすればその宿善とは、人間各自の積む善根であり、自力的なものとならざるを得ないのである。だから、自力とはいわないが、「自の善」だという学者もあらわれるのである。

古来、宗学においては多くの先哲は、宿善を往生遅速の論理だと考えられて来たので、自力的な色彩が強いものがあったが、「教行信証」の総序に
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

とあり、「御一代記聞書」には
宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候

とあることによって、宿善とは、如来の光明であり、「よろこぶべき」であり「有難し」と思うべきであり、他力であると主張するのが、空華学轍の特色だといってよいのである。

【行信論】(何によって往生するか)
空華学轍の特色をもっともよく顕すものは、行信、助正の問題であろう。しかも、このことは、何によって浄土に往生するか(行信論)宗教者の生活はどうあるべきか(助正論)の問題であって、宗学における中心問題でもあり、本願寺派に多くの学派が生じたのも、主として行信の取りあつかい、特に大行の問題が中心であったことは、いまさらいうまでもないことである。

大行論においては「大行とは能所不二、鎔融無碍の法体大行」であるというのである。この能所不二の大行という説は、法霖の主張にもあるが、これを力説したのは僧鎔をはじめ、空華の先哲であるが「能所不二、鎔融無碍の法体大行」という言葉を用いられたのは善譲である。その意味は大行とはかたちの上では、名号でもいえるし、称名でもいえる。しかも、その所称の名号を能称の称名とは無碍一体のものであるが、その大行といわれる立場は法体の大行、如来の立場、名号の立場でいわれるものであるという学説である。

すなわち、大行といわれるものは、如来の名号であり、衆生の称名でもいわれるものであり、その名号と称名とは不離不二のものであるが、大行といわれるものは、その原点に立てば、如来の立場である法体名号が主体となるものであると説くのである。これが空華轍の一貫する大行観だといってよいのである。

この主張は、常に聖人の言葉を重要視したものであって、絶対他力の思想からいえば、大行は如来の名号だと説明すれば、思想としても、聖人の思想展開からいっても、説明しやすいものであるが行巻の大行釈には

大行とはすなわち、無碍光如来のみ名を称するなり

とあり、さらに経文の引用の終わったところには、称名破満といって、称名によって衆生の一切の無明を破し、衆生の一切の志願を満す浄土往生が出来ることを明かされてある。この二文は、明らかに衆生の称名を大行と示されたことは動かないものである。この文によると衆生の称名を大行とされたことは、文から見て動かすことの出来ないものであるから、衆生の称名を大行といわなければならなかったのである。

しかし、その大行は第十七願より出たものであるといって、標挙には

諸仏称名の願、浄土真実の行、選択本願の行

といってあり本文にも

しかるに、この行は大悲の願より出たり

といって、第十七願の五願名があげられている。だから、大行とは第十七願によるものであるということは、極めて明白なことである。しかも、その願名はいくつもあるなかで、とくに「諸仏称名の願」の願名をもちいられてあることに注意すべきものがあるのである。この第十七願の意味からいえば、大行とは「諸仏の称名」であり、私たちにとって所聞の名号というべきである。

この大行とは何かを示すのに、聖人は同一のところにおいて、一面では衆生の称名であって衆生の所聞の名号だと示されてある。この意味からいえば、聖人は大行とは衆生の称名でもあり、諸仏の称名である名号でもあると表現されているのである。すると聖人は衆生の称名と諸仏の称名である名号とは不二のものであると考えていられたことは明瞭である。しかも、その能所不二の不二の立場を軽くして能行の衆生の称名に重点をおいて能行系の学説があらわれ、諸仏の称名である名号に重点をおいて所行系の学説がおこったのである。

空華学派はその両文を認め、文の意味を十分理解して、能所不二の学説をたて、しかも、大行といわれるものは、不二ではあるが法体大行であるというのである。その意味は、大行とは諸仏の称名でも、衆生の称名でも、どちらでもいえるものであるが、その主体的な立場は「諸仏の称名」であると主張するのである。

行巻の始めに示された文を忠実にみると、大行とは「諸仏の称名」であるという表現(名号)と「衆生の称名」だという表現(称名)との二つがある。そのいづれを主とするかにより能行系と所行系との学派が出来るのである。

能行系の人々は「大行とはすなわち、無碍光如来のみ名を称するなり」と宗祖が申されているのだから、大行は衆生の称名でなければならないのであると主張するのである。この場合には、何故に宗祖は第十七願の諸仏称名の願を出されたのかが、解決しなければならない問題となるのである。

また、大行とは「諸仏の称名であり、衆生にとって所聞の名号である」と主張する所行系の学者にとっては「大行とは衆生の称名である」と申された宗祖の言葉をどう理解するかが問題となるのである。それで所行系の学者のほかには「称無碍光如来名」の「称」を「かなう」という意味で「大行とは無碍光如来のみ名にかなう」ことであると解釈する方もあったのである。しかしあの文はすなおに無碍光如来のみ名を称える、称名大行を示す文を見るのが当然である。それで空華の学者たちは、あの文によって、衆生の称名も大行といわれるのであると説くのである。それで大行とは名号でもあり称名でもある。しかも、その名号と称名とは不二であるから、いずれも大行とはいえるが、その究竟的な立場からいえば、法体である名号が主になるのであるというのが「能所不二、鎔融無碍の法体大行」という空華の説である。

では、どうして衆生の称名が諸仏の称名(名号)と不二になるのかというに、その重要な表現の一に「称即名とまきあがる」というものがある。それがこの学轍の不二の最要の表現であるとも思われるのである。それは衆生の称名がそのまま諸仏の称名である名号と「位が同じく」なるという意味であり、自分の称えた称名がそのまま聴聞の名号の位にまきあがるのだと主張するのである。
ここに空華学轍のいう「称名」の意味が、善導・法然によって説かれてきた、称名念仏と、称名の意味、念仏の意味が大いに異なるものがあることに注意しなければならないのである。すなわち、行巻の「称無碍光如来名」とは、無碍光如来のみ名を称えることではあるが、それは在来、日本浄土教で用いられて来た称名ではなく、自分の口から出て下さる南無阿弥陀仏ではあるが、それは行巻で示される「本願招喚の勅命」としての南無阿弥陀仏とするのである。

だから、この六字釈の意味からいえば「称無碍光如来名」の称名は、信後の報恩の称名ではなく、自分の口から出るものではあるが阿弥陀如来が「我に帰せよ」の招喚の勅命であり、自分にとっては聞きものという立場に立つものである。この意味で「称即名とまきあがる」というのである。

この行巻の六字釈がなければ、諸仏の称名と衆生の称名とが不二一体であるという意味が、十分理解することが出来ないのではないか。名号が称えられているのだから、能称と所称とが不二だといわれても十分ではないが、私の称名が単なる仏名を称するものではなく、如来のよび声であり、本願招喚の勅命であり、称えながら聞きものである場合でハッキリと称即名といえるのである。
それは諸仏の称名は、私にとって聞きものである。もし私の口から出て下さる南無阿弥陀仏が如来のよび声であったら、私の口から出るものではあるが、私にとっては「聞きもの」である。諸仏の称名も聞きものであり、私の称名も聞きものであるという立場にたったとき、はじめて純粋に「私の称名」が「諸仏の称名」と不二一体になるのである。そこにはじめて能所不二であり、しかも、所称の法体の名号を大行という説が成立するのである。

この意味で行信論を論ずる場合行巻の六字釈は注目すべきものではないか。経文の引用が終わって称名破満が説かれ、龍樹以下五祖の引用が終わった私釈に六字釈を出しその名号によって必得往生と示されているのであるが、この帰命釈は在来の解釈とは全く異なった解釈をほどこし、衆生のものであるべき帰命を如来の勅命とされたのである。これは在来の称仏名は衆生の称名であったものを、諸仏の称名と同じく、衆生は称えながら所聞の位で味わうべきことを示されたもののようである。この立場で「称無碍光如来名」を理解しなければ「称即名とまきあがる」とか「衆生の称名がそのまま諸仏の称名と同位になる」という意味が理解されないのである。

【助正論】
空華学轍の特色のもっともよくあらわれているものの一つは「助正論」である。助正論は宗教生活の問題であるから、宗教者としては大切な問題であり、重大なものであるが、その生活の上にも、絶対他力の思想に立つか否かで、考え方の相違が生ずるのである。

助正論は広島において、大瀛門下と僧叡との争いによって有名になり、問題ともなったのであるがそれは、報恩行に助正ありや否やということで、大いに議論されたのである。僧叡は弘願の報恩行に助正があり、正業といわれるものは称名であって、読誦等の四法は助業であると主張するに対して、大瀛門下の人々は助正というは往生業についていうことであって報恩行には助正の区別はなく、平等である、助正があるというは往生の因についていうことで要門分斉であるというのである。

空華学轍はもちろん、弘願の報恩行には助正なしという説をとるものであって、報恩行はことごとく名号の顕現にほかならないのだというのである。往生の因法について、衆生の自力的なものを無限に否定する絶対他力の思想は、報恩行についても、仏祖の報恩の行となるべき善的なものは、ことごとく如来回向のものであり、回向の名号の顕現であるというのは、その思想傾向からいって当然であろう。

第一弘願助正説において、南無阿弥陀仏の名号が称名にしか顕れないというのは、あまりにも名号の意味を狭くとっていないか。もちろん、善導、法然の二師は称名に力を入れて、念仏とは称名にかぎるものであり、称名に最高の価値を認めて、浄土教においては称名はもっとも価値あるものとされたが、報恩行にまで、称名の価値だけを高く意味づける必要があるのであろうか。名号は称名だけにしか顕現しないという思想は、名号の意味を十分理解しているとはいえないのである。

名号とは「大経」によると、その仏の徳を広く讃嘆する広讃の意味である。経に名号の内容を明瞭に示されてあるものは、第十八願成就文の「聞其名号」のところだけである。その文は第十七願、第十八願成就文の

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん

とあるところに名号の内容が示されてあるのである。この文によると、名号とは十方恒沙の諸仏如来が讃嘆したもう、無量寿仏の威神功徳の不可思議なることであり古来「広讃」といわれるものである。もちろん、称仏名には「観経」下品に説かれる「南無阿弥陀仏と称えるもの」もあるのである。だから、先哲は讃嘆には広讃と略讃とあるといわれ、少なくとも「大経」では名号とは広讃の名号となっているのである。この意味からいえば、四十八願の中にいく度も「聞名」といわれるものは、第十七願成就文の諸仏の広讃の名号を聞くことだというべきである。

また、宗祖は教巻において「大経」の真実教であることを証明するために示された三論理のなかの第三に「名号為体」の経なるが故にとある。すなわち「大経」が真実教といわれるのは、第一には釈尊出世本懐の経であるから、第二には一切衆生を無条件で救う第十八願が中心の経であるから、第三には、名号を体質とした経であるからと説かれてある。この「名号を体とする」ということは、その経のどの部分にも名号の行きわたった経であり、経の全部が名号讃嘆にほかならないという意味である。この意味からいえば、釈尊が説かれた「大経」は、阿弥陀如来の徳の広讃にほかならないのであるから、私たちが読経するということは、釈尊が名号の広讃歎をなさったのを口まねしているのだから、略讃の称名と同じ意味だといってよいのである。

このように味わってくると、読誦は名号の広讃であり、称名は名号の略讃であるから同価値のものといえるのではないか。讃歎についても同様のことがいえるのではないだろうか。

空華学轍においては、衆生には本来善根といわれるものは、まったくないものだと説くものであるから、報恩行という善的なものも、私の本有のものではなく、如来回向の名号が微々としてあらわれるものだと説くのである。だから、称える称名はもちろん、おがむ手も、うなずく頭も、ことごとく如来回向の名号の顕われであるというのである。したがって、報恩行としては、同じく名号の顕現であるから、いずれの行も同一の価値で主伴をつくべきではないと説くのである。

弘願助正では、称名だけが名号の顕現であって、読誦・観察・礼拝・讃嘆供養は、如来回向の名号のあらわれた称名に随伴して、人間の本来有したものがあらわれるので、名号の顕現は、ただ称名にかぎるものであり、読誦等は名号のあらわれではないと主張するのであるから、名号の広讃を許さないことになるのである。

南無阿弥陀仏の名号には、そんなせまい限界をつけなければならないものだろうか。蓮如上人が「御一代記聞書」に

万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨つるも取るもいづれもいづれも御恩なり

とある。この場合の御恩というは「お恵み」の意味である。だから、この文は、人間の一切の止悪も作善もことごとく如来のお恵みだと教えられるものである。また同じく「聞書」には

丹後法眼(蓮応or蓮慈?)衣装ととのへられ、前々住上人の御前に伺候候ひしとき、仰せられ候ふ。衣のえりを御たたきありて、南無阿弥陀仏よと仰せられ候ふ。また前住上人(実如)は御たたみをたたかれ、南無阿弥陀仏にもたれたるよし仰せられ候ひき。南無阿弥陀仏に身をばまるめたると仰せられ候ふと符合申し候
とある。蓮如上人は、しばしば自分の所有する者に対して「如来の御用物」とか「如来聖人よりたまわりたるもの」と申されているが、それがさらに深化すると南無阿弥陀仏の具体的なあらわれであると考えられていたようである。それがお衣を南無阿弥陀仏といい畳を南無阿弥陀仏といい、自分の周囲をとりまくものはすべて南無阿弥陀仏であると考えられていたのである。

この蓮如上人の教示からいえば名号は略讃の称名となってあらわれるはもちろん、広讃の讃歎として現れるだけではなく、私を生かしめるための、あらゆる物として顕現するものであるといえるのである。だから、拝む手も、称える口も南無阿弥陀仏といった先哲の言葉もうなずけるのである。

このように名号の顕現を拡大して考えるところに、名号の真実の徳が発揮されるのであり、如来の名号成就の意味も明らかになるのである。もし、名号が称名にしか顕現せないものであり、称名だけが報恩の正行だとすれば、現実の寺院の法要などにおいて、僧侶は価値の低い助業を主としているのではないかという非難は当然うけなければならないのではないか。名号は単に略讃としてあらわれるだけではなく、広讃としてあらわれ、釈尊の広讃が三部経であり、しかも、私たちが読誦する聖典はことごとく名号の広讃とすれば、読経することはそのまま名号の顕現だということになるのである。

かく考えると、報恩行には助正なしという思想が十分是認さるべきものである。

以上きわめて大略ではあるが、私がいままで教えられてきた、空華学轍の学説の特色について述べてきたのであるが、宗学とは浄土真宗においては、救われるものの慶びの論理を示す学であり、救済の論理の学であり、絶対他力の思想によって進められる学問でなければならないと思われるのである。

・・・完・・・