法話・おはなし」カテゴリーアーカイブ

居直るか、痛みを感じるか

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


彼の岸―悟りの世界に到達するための修業の4番目は「精進」であります。精進とは精魂こめて、ひたすら進むということで、悪いことはやめて、善いことをするように努力することであります。これさえ心がけていれば、いつも健康で、職場ででも、出世街道をひたすら進むことうけあいなんですが、なかなかうまくゆかない。というのが現状のようです。

悪いことはやめて、善いことをする―たとえば、タバコというのはどうでしょう。”健康のため、吸いすぎに注意しましょう”と書いてある。体に悪いんですよね。だから精進努力して、キッパリとやめればいい。とても簡単なことであります。ところが、これがなかなかやめられない。「やめるべきか、やめざるべきか…ちょっと一服やりながら考えよう」とか、「禁煙なんて簡単なことだ。わたしなんか、もう百回も禁煙した」とかなんとかいいながら吸っている。

健康のために、ナワとびがいいとか、マラソンがいいなどというのもある。「よし!それだ」と一度はやってみる。ところがこれんもつづかない。おやかの出っ張りが気になると「よし!減食だ」と思い立つ。ところがこれも三日坊主。よいことというのは世の中にいっぱいあって、努力すれば自分もよくなることは十分承知しているのだけれども「わかっちゃいるけどやめられない」と、悪い方へ悪い方へとひたすら進んでゆくのがわたしたちなんですね。

新聞のコラムに「わたしの健康法」というのがあって、その原稿の依頼に、永六輔さんのところへうかがったことがあるんですが、彼はそのとき「生きていること自体が不健康なことなので、ボクには健康法なんてものありません」といった。よいことをつづけることが出来ない自分というものをよく知っていらっしゃる、と思ったものであります。

精進といえば、精進料理というのがあります。生ぐさいものを使わない料理のことで、その心は、ものの生命を大切にするというところにあります。わたしたちはあらゆるものの生命を奪って生活しています。ですからせめて、親の命日ぐらいは、なるべく生き物の生命を奪わないようにしようということで、精進日というものを各家庭で決めていたわけです。

先日、門徒のある家庭にうかがいましたら茶の間にこどもが描いた絵がありまして、そこにサカナとトンカツが描いてある。そして、それに赤いクレヨンで×印がうってある。で、その横にこんなことが書いてあるんです。
「こんな日はこんなものを食べないようにしよう」
こんな日とは、おばあちゃんのなくなった日、おじいちゃんのなくなった日、お姉さんのなくなった日…であります。いまや、こういう家庭はまれですね。お葬式の日でも刺し身やカマボコが出てくるのがあたり前のようになっている。

こんな話をしていると、ある青年が、
「いいじゃないですか。生き物といえば何もサカナや牛ばかりじゃない。米だって野菜だって、みんな生き物。結局われわれは殺生しなきゃ生きてゆけないんだから、生ぐさいものとかなんとか区別する必要ないんじゃないですか」
といいました。どうでしょう。わたしには居直りとしか思えない。いってることはたしかに正しいのですが、その受け取りようが違います。あらゆるものの生命を犠牲にして生きているわたしなのだから、せめてそういったものに感謝をする心がなくてはなりません。わかっちゃいるけどやめられない、と居直る前に、心の片すみにほんの少しの痛みも感じることがない自分はじつは何もわかっちゃいないんだ。ということをわかっていただきたいのです。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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ようこそ、ようこそ

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


わたしが新聞社に勤めていたときの上司にとてもコワイのがおりまして、とにかく、毎日カミナリを落とすんです。新聞のゲラ刷りをデスクにバシンとたたきつけて「バカヤロー!」とくる。これがとてもサマになっていて、わたしなどはいつもほれぼれとみとれていたのですが、あるとき医学の本を読むと、ハラを立てると内蔵出血が起こると書いてあった。で、気になって、上にいったんです。例によってゲラ刷りか原稿をたたきつけて怒っている最中に、
「あのォ、あんまりハラを立てると内蔵出血して、体によくないそうですよ」
といったら、またまた
「バカヤロー!好きで怒っているんじゃないんだ!」
ときた。こうなると、ハラを立てるのも仕事のうちということになるわけですが、お互い仕事場でも、家庭でも、ハラを立てるのはあまりよくないと思うんです。なんたって、お経にもあるように「ハラを立てたらスマートにならない」のですからね。

彼岸に至る修行の第三課は「忍辱(にんにく)」つまりハラを立てないことであります。むかし、山陰の鳥取に、源左という男がおりまして、この人はなかなかこの忍辱ということにたけた人でありまして、あるとき母親に「おい源左よ、畑にいってイモを掘ってきておくれ」といわれる。「はいよ」と源左はクワを持ち、自分の畑へ出かけてゆく。そしたらなんと、だれか他の男がいて、イモを掘っている。早くいえばイモ盗人です。ふつうならここで「コラーッ」となるわけですが、この源左さん、そうはいわなかった。くるりと方向転換し「ようこそ、ようこそ」とつぶやきながら家に帰った。
「おや、源左よ、イモはどうした」
と母親に聞かれた源左さん、たったひとこと、「うん、きょうは、おらの番じゃなかった」

落語のような話ですが、本当にあったことなんです。この人のエピソードはたくさん残っていて、本にもなっているのですが―。あるとき、女房がかたい飯をたいた。すると源左は「ようこそ、ようこそ、かたい飯はようかむと味があるでのう」とよろこび、おかゆのような飯をたくと「ようこそ、ようこそ、おらおかゆがええがやあ」風呂の湯加減が熱いときは「ようこそ、ようこそ、しっかりとしてええがのう」ぬるいときは「ぼんやりとしとってええがやあ」とよろこんだといわれます。

満員電車でハラを立て、不景気だとハラを立て、昼食に注文の品が来るのが遅いとハラを立て、物でも盗まれようものなら、それこそカーッと頭に血がのぼるわたしたち、とてもじゃないが、源左さんのようにはゆかないかもしれませんが、せめてそのまねごとぐらい…。そう、とわたしの同年輩の友人は、いま職場で家庭で、その実践をしています。

「部下の無能にハラが立つとき、上司の命令にハラが立つとき、いままでなら、すぐにそれが顔で出、口をついて出たんだが、最近は源左さんを思い出して、まず、ようこそ、ようこそとつぶやいてみることにしてるんだ。それでもハラの立つときは、もう一回、ようこそ、ようこそとやる。2,3回くり返すと、不思議にスーッとさめるんだ」。

この男、近頃、おかげで持病の胃痛も治り、寝つきもよくなったといっています。
「ようこそ、ようこそ」——相手に対する感謝とねぎらいのことばでありますが、立腹の特効薬でもあるようです。ぜひお試しを。そして、どうしてもダメとおっしゃるあなたには源左さんがカンシャク性の男にいった次のひとことを。
「旦那さん、なんとあんたはええもん持っとんなすんなあ。カンシャクはカンシャク玉って、宝ですけなあ。宝はめったに人に見せなはんすなよ」


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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天上界は二分半

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道輪廻の話が長引いてしまいました。でもまあ、いどばた会議というのは話が長引くところによさもあるわけですから、お許しを願うことにして、今日は、六道の一番上の段、天上界についてお話することにいたしましょう。

この天上界というのは、あらゆる存在者にとって最高の境地なのでありまして、存在、つまり”有”の頂点ということで、有頂天ともいうわけです。この有の頂点という世界は、どんなところかと申しますと、まあ、われわれの想像をはるかに越えた、よろこびの世界のことであろうと思うのです。ですから、この世界に住むことができたら、さぞかしすばらしいであろうと思うわけですが、よくよく聞いてみると、あまりよろこんでばかりんもいられない世界のようであります。なぜならば、六道というのは輪廻している。車輪のようにぐるぐる廻っているのですから、天上界に生まれかわったとしても、またドスンと地獄の世界に落ち込んでしまうという危険性をはらんでいる。ずいぶんぶっそうなことろでもあるわけです。

さて”六道の辻はいずれぞ それそこに 明け暮れ胸に起こる煩悩”でありますから、わたしの心の中に、この天上界を見ることにしましょう。例えばあなたが、いま、とっても欲しいハンドバッグがあるとする。イタリア製、それともフランス製?どちらでもよろしい。とにかく欲しい。そこで、ご主人にちょっとねだってみた。
「ねえ、いま持っているハンドバッグがだめになったんで、新しいの一つ、買わなきゃならないんだけど…今度のボーナスで買っていいかしら」
欲しいと直接いわないところが奥ゆかしいわけですが、ご主人はそれをすぐに察知する。たまたま機嫌がよくて「よし、オレが買ってきてやる」となった。奥さんそれこそ有頂天。「うちのパパって、思いやりがあって親切で、頼りになるわあ」とよろこんだ。

買ってもらったハンドバッグ、なかなか上等で、3万5千円もしたそうです。奥さんさっそくこれをさげて、次の日のPTAの会合に出た。ふと隣をみると、これまたステキなハンドバッグ。「まあ奥さん、ステキね」まずは相手をほめてみる。するとお返しに「あら、あなたのもステキ」となる。で、本物のフランス製で時価33万円。エルメスのジョンケリーバッグとかいうあれ。こちらはフランスの会社と提携した日本製。グッと差をつけられた奥さん、これまでの有頂天から、ストンと地獄へ。(うちのパパは海外出張もないし、背のびして買ってくれたのが、せいぜいこれどまりか。たいした男でもないのよねー)

次なるは、わたしの体験。寺で毎月2回、お講というのがあって、門徒の方がたくさん集まって下さる。そこでお説教をするのですが、ちょうどこの六道輪廻の話をし終わって、みんな寺から出ていった。「アラエカッタヤー、若ハン(わたしのこと)にええ説教聞かせてもろうた。こんどもまた参りますゾー」とよろこんで下さった。ところが、このエカッタヤーのよろこびが持続した時間はわずか二分半。寺から出て駅までゆくと、電車が目の前を出ていったあとだった。ローカルだから次の電車まで一時間半待たなくてはならない。エカッタヤーのほれぼれするような顔は一転して、駅に出向いたわたしをにらんで、うらめしそうに「若ハンの説教もう一寸短こうしてくれたらよかったのにィ」となったのです。

かくてわたしたち、毎日毎日の生活の中で六道をぐるぐるぐるぐる回りつづけるわけであります。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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二河白道のたとえスライドショー

浄土真宗本願寺派の研究機関「総合研究所」より、阿弥陀如来の救いを説いた「二河白道(にがびゃくどう)」のパワーポイントスライドショーが公開されました。ゲーム調にドット絵を使用し、「改変・再配布は自由 」という、教団としては珍しいアクションです。音声付きのファイルも公開されていますので、詳しくは下記のサイトをご覧下さい。

浄土真宗本願寺派総合研究所
「二河白道のたとえ」PowerPointスライドショー
http://j-soken.jp/download/10808

動画バージョン

スライドバージョン

この世はあなたのままになるか

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


六道の辻は いずれぞ そこそこに
明け暮れ 胸におこる煩悩

地獄や餓鬼道や、畜生道というものを、遠くに見るだけではなく、わたしの心の中で、刹那刹那にわき起こる煩悩のそのままが、六道をぐるぐるとめぐっているのだということを、先週からお話しているわけですが、今週は、五番目の、人間世界について考えてみようと思います。

人を裁き、人を責める地獄の世界。もうちょっと、もうちょっと、とむさぼりつづける餓鬼道、人に迷惑をかけてもすまないとも思わないご恩知らずの畜生道、あいつには負けられない、と目をつり上げる修羅道…といずれをとっても、わたしたちの毎日の生活の中に見られるものでありますが、では五番目の人間界というのは、いったいどんなものかー。

覚者仏陀は、ズバリ、人生は苦である、とおっしゃっている。こういうと、あら、そんなこともないわよ、とおっしゃる方もいらっしゃる。だって近頃はずいぶんと恵まれていますから、欲しいものは何でも手に入るし、生活だってけっこう楽になった。人類は楽の追及にあくなき努力をしていますから、まだまだ楽になることは確かでありましょう。

ずいぶん昔のことですが、中国のある識者が「最近、便利な道具が出来て、生活は楽になったが、これは人間の堕落だ」となげいたという。その便利な道具とは、水を汲む”つるべ”だったそうですが、それから考えると、本当に現代は極楽かもしれません。

しかし、いろんなことの手間がはぶけたり、楽しむ材料はいくらでもあるけれど、基本的なところは、ちっとも変っていませんね。人間は生まれて生きて、年とって、病気して死んでゆく。人間の死亡率は100%だとわかっていながら、このパーセントを下げてくれる人はだれもいない。不老長寿の薬といったって、ちょっとおかしい。長寿に効きめはあるかもしれないが、不老なんてことはまず不可能です。人間の生、老、病、死というものは、どうにもならないものなんですよね。さらにいえば、愛しい人とは必ず別れねばならないという事実、いやな人とも会わなきゃならないという現実、欲しいものが手に入らないというつらさ…そう考えると、わたしたちの人生は、そのまま、わたしたちの思いのままにならないということになってくる。

これを仏陀はまとめて四苦八苦、人生は苦であるとおっしゃったわけです。つまり、苦とはままならないこと、人生とはわがままにならないものであるということであります。ですから、悟れる者から見たならば、人間世界はそのままが、悲しみの世界であるということになる。ところが、これがわたしたちにはわからない。少しぐらいは、わがままになると思っている。いや、思いたいんですよ結局は。そこでまあ、いろいろと努力するわけです。いつまでも若くありたいとか、好きな人とは離れたくないとか、いやな人とは会いたくないとか、欲しいものはトコトン求めるとか…で、結果はどうか。ダメなんですよね、これが。千年も万年も生きていたいと思ってもムリな話。あなたとならばあの世まで、と思ってみても別れるときが必ずくる。

で、そのとき、フトもらす。あーあ、世の中ってままならないものなのねー。これがグチというヤツです。グチとは無智のことでありまして、世の中をありのままに見る智恵の目を持っていないものからこぼれでるもの、それがグチなんだそうです。グチは女につきものなんていうけれど、インドではこれをモーハといい、中国でマーカとなり、日本にきてこれがバカとなったという。いどばたで、あまりこぼしちゃみっともないね。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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六道はいずこに

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


仏教の世界観に、六道輪廻(ろくどうりんね)というのがあります。わたしたちは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの迷いの世界をぐるぐるとまわっているものだという考え方です。こんなことをいうと、最近の若い人たちは「科学的な証明もないのに、そんなものあるなんて信じられない」といいます。なるほど、死んだあとの世界なんて、わたしたちに想像もつかないことでありますし、あっちから帰って来た人の話も聞いたことがないので、わからないのは確かです。しかし、この六道という世界は、遠くの方で回っているのではなくて、じつはいま、このわたしの心の中ででも、ぐるぐると回りつづけているのだとしたらどうでしょう。

六道の辻はいずれぞ それそこに
明け暮れ 胸におこる煩悩

こんなうたがありまして、じつは、六道というのは、あっちの方にコロンとあるのではなくて、わたしたちの現実の心の中にもあるじゃないかというのです。まさかと思われる方は、次を聞いていただきたい。

まず、地獄ですが、よく新聞の見出しに、さながら地獄絵図、などというのが出てくる。大事故の惨状をあらわすときに使うわけですが、あればかりが地獄じゃない。交通地獄、受験地獄などというのもある。しかし、これもなんだか、このわたしというものを抜きにして客観的にながめているような感じです。六道の辻はいずれぞ、それそこに、ですから、わたしの心の中にあるんです。では、どんな心を地獄というのか、といいますと、人を責める、人を裁く心、これが地獄だというんです。

この夏、わたしも37歳にして、自動車の免許をとるために、教習所に通ったんですが、地獄だね、あれは。教習が終わった若い女の子の話を聞いていると、すごいですよ。
「あーあ、また、あの先生にしかれた。ひどいのよ。足で蹴るんだから。もうイヤ、あんな先生、死ねばいい」
責めるだけじゃない。心の中で先生を殺してしまうんですからね。いや、人だけじゃない。コースの中で信号を無視して注意されると「もォ、あんな信号なきゃいいのにィ」とこうですからね。ちょっとはオノレのことも考えろといいたいね。ま、教習所ばかりが地獄じゃない。わたしたちは毎日毎日、目が覚めてから寝るまでに、自分の都合で、何十人という人を責め、裁いているんじゃないでしょうか。

次に、餓鬼道。これはもうよくご存じ。このガキ、なんてよくいいますが、要するに、もうちょっと、もうちょっとという心、あれですよ。人間の欲望はとどまるところを知らず、あれも欲しい。これも欲しい、もうちょっと、もうちょっと、とむさぼりつづける。そのままが餓鬼道だというんです。

三番目の畜生道。コンチクショーとわたしたちは、よく人にいうけれど、じつはそのことばは自分に返ってくる。ご恩知らずは犬畜生です。おかげさまということを知らないものは、人間のかっこうはしているけど、本当の人間じゃないという。考えさせられますね。

そして四番目は修羅道です。修羅場、修羅の巷とかいうように、ケンカの世界でしょう。ここ2,3日をふりかえって、あなたはケンカはしませんでしたか?してません、と答えた方は、修羅道だけは素通り…かと思えばそうじゃない。<あの人には負けられない>という心のままが修羅道に落ち込んでいる姿なんですから。

地獄-餓鬼-畜生-修羅-と、六道の中の四つの世界までを、わたしの心の中でながめてみたわけですが、どうでしょう。わたしたちの毎日の生活というものは、これの連続ではないでしょうか。いどばた会議の話題にしたって、ひょっとしたら、この四つの世界のつつき合いかもしれませんね。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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浜美枝さん

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


日本国語大辞典によりますと「井戸端会議」とは、(元来、共同井戸の回りで)水くみ、洗たくなどをしながら、女たちが人のうわさや世間話に花を咲かせることをからかい半分にいった語で、現在は、主婦たちが、家事のあいまに集まってするおしゃべりをもいう―—とあります。からかい半分というところがちょっと気になるわけですが、要するに、奥様方がベチャクチャやるのを総称して、いどばた会議というらしい。で、その話し合いの場なんですが、昔は共同の井戸があって、それを囲んでということだったが、近ごろはずいぶん変わってきまして、団地ならば”公園会議”一戸建ちなら”門前会議”アパートなら”階段会議”買い物途中の”道端会議”…とまあ、いろいろ見受けられるわけですが、最近では、家事のあいまもずいぶんあるとみえて、わざわざテレビ局まで出かけて”スタジオ会議”というのが流行しているようであります。

ところで、その”スタジオ会議”でのことなんですが、以前、小川宏ショーのアシスタントをしていた女優の浜美枝さんに、こんな相談を受けたことがあります。ちょうど、世間で子殺しが連続して起きたころのこと。ニュースショーで、この話題をとりあげることになったそうです。そこで、スタッフが集まって、打合せをした。浜さんは主婦の立場から発言してほしいということになった。そのとき、彼女は考えた。いったいこの問題について、主婦であり、母親である私が、どのようにいえばよいのか、と。ずいぶん深く考え込んでしまったんでしょうね。あまりだまっているので、スタッフの一人がいったそうです。
「ですから、浜さん、あなたは母親なんだから、自分のこどもがかわいい顔をして眠っている姿を見たりすると、とてもじゃないが、その子を殺そうなんて思いもおよばない。子殺しの犯人は鬼のような人だ、とかなんとか…」
このことばに、また彼女は考え込んでしまったというんです。<本当に犯人は鬼のような人なんだろうか。そしてまた、わたしは、慈母観音のように、やさしくあたたかい母親なんだろうか…>とうとう本番になっても、ことばが出なかったそうです。そして、それからしばらく、このことが頭にこびりついて離れない。
「ええ、どうなんでしょう」と浜さんがいう。
「そりゃあね、私にもこどもは3人いて、みんなそれなりにかわいいわよ。寝姿を見えれば、抱きしめたくもなりますよ。この子たちのために、がんばろうとも思いますよ。でもね。たとえば、わたしが夜遅くまで仕事をして、明くる日また、朝早くから出かけなくてはならない。寝不足でとっても眠いときに、夜中にこどもがギャーッと泣く。そんなとき、ああよしよしなんて思えないわ。正直いって、コンチクショーですよ。わたしにとって都合のよいときや、こどものきげんがとてもいいときはいいけれども、もしも両方が悪いときだったら、ひょっとしたらわたしも、あの子殺しの犯人たちと、同じような気持ちになるのかもしれない。そう思うと、人間って、とてもこわい生き物のように思えてきて、ゾッとするの。こんなこと考えるなんて、わたし間違っているかしら」

考えさせられますね。もちろん、犯人の行為は悪い。しかし、もし、わたしたちが犯人と同じ立場になったらどうなのか、そういう縁にふれたらどうなのか、それでも鬼のようなことはできない、といい切れるのかどうか。たまたま、わたしたちにはチエがある。都合のよい性教育も受けている。だから、犯人のような結果としてあらわれない前に、多くのこどもたちを葬ってしまっている。そんなわたしたちに、鬼のような犯人と決めつけることができるのか、どうか。きょうのいどばた会議で、この問題を、ひとつ話し合ってみてはいかがでしょう。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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いどばた説法

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


悲しいことは奥歯をかみしめてガマンすることが出来ますが、うれしいことというのはなかなかガマンしにくいものです。ところが、世の中はサカサマで、悲しいこと、人の不幸は聞きたがるが、しあわせな話なんて、まるで聞いてくれません。

わたしの日曜学校で、この夏、こんなことがありました。5,60人のこどもが集まって、楽しく遊んでいたんです。ところが、その中にたった一人、しょんぼりした子がいる。みんなその子をチラッと見るのだが、すぐにソッポを向いてしまう。ヘンだなあと思いながら、じっと観察していました。すると、その子は、わたしの視線に気がついた。とたんにスッと身をすり寄せてきた。どうしたの?と聞いてみた。間髪を入れず、
「センセイ、バーベキューって知ってる?」
ときた。何のことだかわからないけど、とにかく返事をしました。
「うん、知ってるよ」
すると、その子はニコーっと笑って、
「あれ、おいしいだろう」という。
「うん、そうだね、ジュージュー焼いて食べたらおいしいだろうね」と答えた。そしたら、その子は、さっきの3倍ぐらいニコニコーッと笑って
「ぼくねえ、きのう、うちで、みんなで、バーベキューを食べたんだ!おいしかったよォ」と叫んだ。
「よかったなあ」といったら、もうその子は、わたしからその日1日、離れなかった。

サテ、質問。この子は、なぜさっきまで1人ぼっちだったのでしょう。じつは、わたしもはじめはわからなかった。ところが、ふと思い出したんです。日曜学校がはじまる前、寺の境内で、その子がいろんな友達に話しかけている姿をです。あっそうか。この子は、きのうバーベキューを食べたうれしさを、みんなにいいたかったんだ。それで、早くから来て、それを実行したんだ。ところが、どうだろう。こどもはみんな正直で、うらやましい話を聞かされたとたんに、
「フン、あんなもの、ぼくだって食べたけど、おいしくないよ」と、ソッポを向いてしまった。仲間はずれの原因は、きのう食べたバーベキューだったんです。うれしいことって、なかなか人は聞いてくれないものなんですよね。そして、もっとショックなことは、自分だけのよろこびだったものを、人に話したとたんに、そのよろこびが、悲しみに変わってしまうということです。

それでも、こどもはまだいい。あしたになったら、どちらも忘れてしまいますから。ところが、大人はそうはいかない。顔に出さないから始末におえない。
「ねえ、奥さま、わたしんち、こんど娘にねだられてね、とうとうピアノを買わされちゃったの。それもね。安いチャチなのはだめだ。一生使うものなんだから、とびきりいいのっていうんでしょう。困っちゃったわ。ほんとに…」
「あーら、いいじゃないの。娘さんのためなんだから…」
とかなんとかいってるけど、相づちを打った方は、ハラの中でコンチクショーと思ってる。”なによ。わざわざ安物のピアノも買えないわたしに、そんなこといわなくたっていいでしょ。この人、ちょっと神経がおかしいんじゃないかしら。覚えてらっしゃい”ということになる。そして、しばらくすると、ピアノ殺人…とまではいかないまでも、くだんの奥さん、一発バシンとくらうことになるわけです。

わたしのよろこびは、わたしだけのよろこびであって、他人のよろこびにはならないことを、よくよく心得た上で、いどばた会議に出席しないと、そのよろこびは、必ず悲しみに変わってしまいます。お気をつけあそばせ。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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ひとりよりもふたり

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


ひとりより、ふたり
これをこれを わすれたもうな

――サトウハチローさんのことばに、こんなのがありました。いいことばですね。とてもあたたかい。心の通い合った家族、そしてお友達、1人より2人、2人より3人、たくさんいれば、それだけよろこびがふくらみます。

ところで、これと対照的なことばに、こんなのがあります。

独生 独死 独去 独来

お経の文句ですが、世の中をありのままにみると、人間は、ひとり生まれ、ひとり死に、ひとり来たりて、ひとり去ってゆく、ということであります。ひとりぼっちで、おるす番のあなたには、さびしすぎる話かもしれませんが、大切なことなので、もう少し続けることにいたします。要するに、わたしたちは、生まれてから死ぬまで、たったひとりなのですが、そのたったひとりのわたしが、生きている証しを求めて、だれかと、何かと関わり合ってゆく――

これが存在すれば あれも存在する
これが生ずれば あれも生ずる
これが存在しなければ あれも存在しない
これが滅すれば あれも滅する

このように、お互いに関わり合い、存在しあって存在しているという関係が、仏教の根本思想である「縁起」というものの考え方なのです。縁起というのは祝ったり、かついだりするものではありません。すべては縁によって起こるということなのです。で、こういう考え方の上にたってみると、奥さんがいま、奥さんと呼ばれるようになったのも、あなたが1人で奥さんになったのではない。それこそ、縁談というものがあって、ご主人ができたから、奥さんと呼ばれるようになった。ということは、夫がいて、はじめて妻という名がついたのだから、夫婦は同い年ということですよね。結婚式の日が、つまりは夫婦の誕生日なんだ。

さらにいえば、あなたが、お母さんと呼ばれるようになったのは、お子さんが生まれたおかげでしょう。こどものないお母さんというのは、ありえないんですから。すると、親と子というものも同い年ですね。わたしたちは、こうしてまたとない縁によって、ふれ合いの輪を広げ、そしてみんな同い年の仲間になってゆく…とてもすばらしいことだと思うんです。ひとりよりもふたり、本当にこれは忘れたくないですね。生きている証しなのだから。

しかし、しかしです。経典にはまた、こんなことが書いてある。

「愛別離苦(あいべつりく)」

世の中は、自分の思うままにならないもので、縁によって結ばれた愛しい人たちとは、いつまでも一緒にいたい、同い年のままでいたいと思ってみても、必ず別れなくてはならない、それが世の中だというのです。とてもつらい、さびしいことだけれど、これも事実です。ひとりよりもふたり、といっていても、そのぬくもりはすぐにさめてしまい、結局、またわたしたちは、ひとりぼっちになってしまう。

そこで、わたしたちは、はじめて気付くんですね。ひとりよりふたりではなく、ひとりでもふたりと思える何かがないものか、と。じつはこれが宗教の出発点というものでありましょう。たったひとりで生まれて生きて、老いて、病気して、死んでゆくわたしたちが永遠に変わらない心の支え、ひとりでもふたりだと思える心のよりどころを求める――それが宗教というものを主観的にとらえた、本来の姿だとわたしは思うんです。

さて、そろそろ時間です。ご縁があったらまた来週――。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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長屋とマンション

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


東京で新聞の仕事をしているときのことでした。ブン屋長屋とでもいうんでしょうか。横浜の日吉にモルタル塗りの二階建て、一棟八戸というアパートに住んでいたんです。

朝起きて「さあ、そろそろ出かけるか」と茶の間でいうと、両隣の健サンと六サンが「よおし」「あいよ」と返事をする。とにかく、カベ一枚ですからね。お隣さんというよりも同居人という感じ。寺で生まれたわたしも女房も、このアパートには感動いたしまして、なるほどコミュニケーションとは、かくあらねばならないと思ったものです。

るす番していても心強いんですよね。押し売りが来たって、横の連絡が早いから、女房も安心です。ところが、そのブン屋長屋の健サンが、新婚早々でありまして、やっぱり、この…カベの厚いマンションに移るということになった。長屋中があつまって、健サンをマンションに送る会をやりまして、とにかく彼は引っ越していった。しばらくたって、会社で会うと、彼、浮かぬ顔をしている。
「どうしたの?」
「どうもこうもないよ。いやだねえ」
とこうです。さらに聞いてみると、彼いわく。
「いやね。マンションに引っ越したからというんで、ウチの女房、やっぱりお隣さんにもごあいさつをしなくてはと、引っ越しソバがわりに何か手みやげをもって行ったんだよ。そしたら、中の一軒で、こんなことがあったんだ」
どんなことかといいますと、彼の奥さん、手みやげ持って、あるお宅へ行ったわけです。
――ポンピーン
「どなた?」
「あのォ、わたし同じマンションに引っ越してきたものなんですけど…」
と、手みやけを差し出そうとしたらその奥さん。
「あら、そんなの関係ありませんわよ。お宅はお宅、うちはうちですから、なにもあいさつなんて」ときた。「そんなことおっしゃらずに、そでふれ合うも他生の縁とかで…」といっても「いいえ、関係ありません」とシャットアウト。健サンの奥さん、これにはガックリときた。関西の旧家に育った奥さんは、「東京って、こんなに冷たいところだったのかしら」と頭をかかえ込んでしまった、というのです。

長屋とマンションの違い――あなたはどう思われますか?わたしは、この話を聞いたとき<ナルホド、漢字と横文字の違いだな>と思ったんです。漢字とは、つまり東洋的なものの考え方で、仏教をベースにしています。健サンの奥さんがおっしゃるように”他生の縁”という受け取り方です。仏教の根本は”縁起”の世界です。縁起とは、よって起こる。世の中は、相より相まって共に生じている。おたがいが助け合って、おかげさまで生かされている、という考え方です。

ところが、マンションの奥さんは横文字文化できた。つまり、キリスト教をベースに培われてきた西欧の合理的なものの考え方です。これはひとことでいうと”創造”の世界であり、すべて、神が造りたもうたという世界です。”他生の縁”ではなくて、このわたしが中心になる。だから、アチラの人へ手紙を書くときの書式を思い出してみると、まず名前、そして名字、それから番地、所、町名、市名、県名、国名となっているでしょう。日本はこの反対で国―県―市―町―番地―名字―名前―とこうなる。まったくサカサマなんですよね。

近ごろは、長屋も横文字になりつつあるわけですが、サテ、どうなんでしょう。わたしたちはものの考え方や心の中まで、そう簡単に横文字文化になり切れるものなんでしょうか?


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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