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迷っているのは自分自身

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「モシモシ、おたく、水子、やってくださいます?」
―?!(ナンノコッチャ)
「近頃、体の調子がおかしくて困ってましたら、知り合いが、みてもらえっていうんです。それでみてもらったら、私には何か迷った霊がついているとかで、それをなんとかしないかぎり、不幸がつづくといわれましたの。それで、もし、おたくのお寺でお経読んで下さるんでしたら、わたし、これからうかがおうかと・・・」
―あなた、いま、どちらから?
「東京なんですけど」
―アホかいな。宇奈月の温泉につかりにくるのならまだしも、わけのわからんことで私のお経を聞きにきても、なんにもなりませんよ。それより、体の調子が悪いのなら、お医者さんへゆきなさい。病気になったら医者へ行け、とおしゃか様もいっておられます。
「でも、みてくれた人が・・・」
―ほれ、またはじまった。みてくれた人がっていったって、その人一体どんな人なの?あなたのことをあなた以上に知っている人なの?なに?なんでもよく当たる人?バカおっしゃい。クイズの王さまでもあるまいし。いまの日本中の女性のほとんどが、その水子の霊とかいうと、思い当たることになっているんでしょ。あなたそんなもの信用してどうしようというの?
「ですから、このなにかモヤモヤしたものをスッキリさせたくて・・・」
―バカタレ!(面と向かってならいいにくいが、電話だと、つい、こういいたくなっちゃう)あんたのモヤモヤをスッキリさすために、水子の霊をしずめるなんて、因果の道理に合わんじゃないですか。私は浄土真宗の坊主だから、ハッキリいいますがね、あなたの気持ちもわかるような気はするが、いま世間でいう水子供養なんてものは、ほとんどがインチキだよ。何万円かでコケシみたいなの売りつけて、あんなもので浮かばれたとかなんとかいうのかね。冗談じゃないよ。自分の責任を上手にすりかえて、水子に押しつけ、おまけに、その供養を坊主にたのむとはいったいどういうこと?あなた何もしてないじゃないの。ただ自分のモヤモヤをスッキリさせたいため、迷っている子供を・・・なんていってる。子供は迷っていません。ええ、ゼッタイあなたが思っているような迷い方してませんよ。いいですか。迷っているのは、奥さん、あなた自身なんですよ。他人のせいにしちゃいけないよ」
「・・・やっぱり・・・そうなんですね」
―?
「じつは、私もそうじゃないかと思ってたんですが、やっぱりそうだったんですね」
―なんだ、わかってるんじゃないの。
「ええ、でも、そういうふうにいってくれる人はいなかったんです。だれに聞いても、たたりだとかついてるとか、ひどいことにはお医者さんでも、おはらいしてもらえなんていう人いるんです。それで、もう、わたし、わからなくなって・・・」
―あなたも悪いが、まわりも悪いなあ。
「ハイ、子供の命の分までなんとか精一杯がんばります」

そう、迷っているのは、霊とかなんとかいういいかげんなもんじゃなく、じつは、わたしたち自身だってこと、気づかなくっちゃあね。


「お茶の間説法」(37話分)
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ゴメンだネ・・・祈とうにおはらい

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「ごめん下さい!」
朝の6時に玄関に元気のいい青年が立っている。パリッと背広にアタッシュケース。(セールスマンかな?うちの門徒さんにこんなカッコいいのいなしなあ・・・)
―どなた?
「ハイ、私、今、東京から汽車で着いたばかりの、こういう者でありまして・・・」
名刺を見れば、東京証券取引所とある。(ははあ、株屋さんで、何か売りつけようというんだな)と、逃げ腰になりかかったら、いち早くそれを察知して、
「いえ、商売の話じゃないんです。先日、ちょっと調べてみましたら、ウチの3代前の本家がこの寺の門徒だということがわかりまして、一度、親代々の法事でもしていただかねばと思いまして、突然伺ったようなわけなんです。で、私、すぐまた汽車で東京へ引き返さなくてはなりませんので、とりあえず、お経の一巻でもと・・・」
―それはまたずいぶんとお急ぎなんですね。じゃまあ、お上がりなさいませ。と、部屋へ通してお茶をすすめて、お話をうかがってみると、これがビックリ。
「ええ、私、仕事の方はうまくいっているんですけど、親戚の者が最近、相ついで3人も交通事故起こしまして、どうもすっきりしませんので、ちょっとある人にみてもらいましたら、なんか迷った霊がおるとかで、お寺で法事をした方がいいと聞きまして、さあ、それからあちこち調べて、やっと、ここのお寺が檀家寺だということがわかりましたんで飛んで来たわけなんです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
―あのォ、申しわけないけど、ウチの寺は、そんな法事はしないんです。
「エエッ?!法事をしない寺なんですか」
―いえ、法事はしますが、ここは浄土真宗のお寺で、深く因果の道理をわきまえて、現世祈とうやまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらないことをモットーにしてますから、あなたのいうような法事はしないってことです。
「そんなこといわずにお経一巻・・・」
―浄土真宗では、お経を祈とうやおはらいの道具にはいたしません。
「弱ったなあ、ちょっとやって下さりゃいいんだけどなあ」
このちょいとってところがムカッときたんですが、相手の方は東京から夜汽車でやってきて、もっとムカッときているだろうから、とりあえず心落ち着けて、お経のかわりにお話ししたんです。
―あなた、みてもらったっていうけど、だれにみてもらったの?どんな考えを持った人で、その人はあなたのことを本当によく知っている人なの?
「さあ・・・」
―さあってずいぶんいいかげんだね。だれだかわからん人物に、それこそちょいとおどかされたぐらいで、よく富山の山寺まで来ましたね。親戚に事故がつづいたって、それには原因があるはずです。警察行って聞いてごらんなさい。そしてついでに、ひょっとしたらことわたしももうすぐ事故を起こすでしょうかって聞いてごらん。アホかっていわれますよ。あなた、自分の欲で、なんかこうサッとやってもらったら、いいことくるように思ったんじゃないの?現代の標本みたいなカッコしてるけど、頭は原始人だね。いやご無礼!


「お茶の間説法」(37話分)
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心にJISマークを

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


借金の証文に押す印鑑の証明がいるというので、先日役場の窓口へ行きました。
「ずいぶん年期の入った印鑑ですねー。まわりがひどく欠けていますよ」
窓口の女子職員の方、笑いながらこうおっしゃる。そういえば、水晶のハンコでいたみがひどく、周囲の丸がほとんどなくなっている。
「ほんとだ。こりゃボツボツ新しいのにしなくちゃいかんなあ」
「そうですよ。いまどき、こんな印鑑持ってる人、少ないですよ」
「へー、そんなもんですか」
「ええ、そりゃもう立派なものばかり。ホラ、あの・・・開運っていうんですか、みんな縁起かついで、一年に二度も三度もっていう人もいるんですよ」
「なんと!」
「おたくお坊さんだから、聞いてみるんですけど、やっぱり印鑑ひとつで運が開けるなんてことあるでしょうか?」
「あなたは、どう思います?」
「さあ、そんなこと、ないと思いますし、ひょっとしたら、あるのかなあ、なんて・・・」
「で、あなた、印鑑をかえられたの?」
「いいえ、まだ・・・」
「それなら、かえないほうがいいでしょ。いや、いいも悪いもないけど、少なくとも印鑑を新しくして幸運がくるのは、その印鑑屋さんだけじゃないかなあ」
「ハハハ、そういえばそうですね。わたし新しくするのやめとこ。もうかっちゃった。ハイ、証明書できました」
というわけなんです。いや、ほんとにすごいんですって。まったくバカバカしいことだけれど、わが町へ、印鑑のセールスマンが来たとたん、役場の窓口までがいそがしくなるくらいに、実印の変更が相次いだというんです。

ゾッとしませんか。冗談じゃないよっていいたい。いや、これは、私が浄土真宗のお坊さんで「深く因果の通りをわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」という教えを身につけているからいえるわけで、ちっともゾッとせず冗談どころか、本当に信じきっちゃってる人もたくさんあるんだから、あんまり、そういう人を傷つけたくないんですが、やっぱりちょっとおかしいなあと思ったほうがいいんじゃないかと思う。

だってそうでしょ。ハンコはあくまでハンコであって、あなたではない。そしてハンコの字は、ハンコ屋さんが彫るのであって、その人がいくら先生と呼ばれようが、字は字であって、あなたの運命とかを変えたりするものじゃないはずです。それが、因果の道理というものでしょ。じゃないですか?

運が開けるとか、幸福がやってくるとかいって売り込んでくるのも、ハンコだけじゃなくて、いろいろありますね。表札とか、掛け軸とか、なんとか、かんとか、そういうものをお買いになるときは、ぜひ、因果の道理に照合してみて下さい。それでうなずけるものならかまわないけど、アーラ不思議なんて道理に合わないものがあったら、なるべく近寄らないほうがおトクかと思います。キャッチフレーズ風にいうなら、因果の道理は、あなたの心のJISマーク、ということになりますか。年末は特に心の戸締まりをお忘れなく。


「お茶の間説法」(37話分)
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みんな賢くなりすぎて

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


ツーといえばカー、QといえばA。近頃、世の中、親切な人が多くなって、電話一本、ハガキ1枚で、どんなことにでも答えてくれる時代のようであります。人生相談、もめごと相談、心配ごと相談、人権相談、教育相談、育児相談、お料理相談、冠婚葬祭なんでも相談といった具合で、まあ、本当に便利な世の中ですね。

私もそのあおりをうけて、ひょいと遠くから、電話で質問されたり、手紙をいただいたり、なかには、うちの寺へこられたり・・・なんてことがよくあるんです。で、結果はうまくいくかといえば、これがまるで話にならない。Qとくれば、A、となればいいんだろうけど、私のはそうはいかない。Qと問われた問題を、さらにややこしくして、Qのまま返してしまうということが多いんです。Q&Aじゃなくて、Q&Q、になっちゃうんです。

こないだも、こんなことがありました。
電話の奥さん「モシモシ、あの、雪山さんですか?私、サンケイ新聞で拝見しているものなんですけど、ちょっとおうかがいしたくって・・・」
―どんなことでしょう?
「それが、じつは、娘の結婚のことなんですけど・・・私は賛成だし、相手も乗り気だし、うまくまとまればと思いまして、ついこの間あるところで見てもらったんです。そしたらなんと、この縁談はダメだ、不幸になるに決まっている、なんておっしゃいまして、私、どうしていいかわからなくなりまして・・・」
―それで?
「ええ、ですから、そんな占い師のいうことなんか信じなくていいかどうかと・・・」
―あなたはどうしたいんです?
「ですから信じたくないんですけど・・・」
―じゃあ、それでいいじゃありませんか。
「でも、占い師のいうことですし・・・」
―それならもう一度その占い師のところへ行って「あなたのいったこと信じたくありません」といってらっしゃいよ。私はあなたの顔も見てないし、娘さんのことも知らない。相手の男性がどんなハンサムかも知らない。電話一本で聞かれたって何もわからない。もちろん占いなんてものは、バカみたいなもんだけど、それを私があなたにいったら、あなたは、先の占い師を捨てる道具に私を使うでしょう。どっちにしてもバカバカしい。そんなことより、ご主人と娘さんと、みんなでよく相談なさったらいかがですか?

とまあ、こんな具合になっちゃって、相手の奥さんの聞きたいこともわかるんだけど、ごめんなさいって電話切ったんです。ずいぶん不親切な男だと思われたかも知れないけど世の中には親切な人がたくさんいるんだからやさしい答えがほしい方は、そちらへどうぞといっておきましょう。

ところで、このとき、ふと思ったんですけど、近頃の相談ブーム、こりゃあいったいどういうことかと考えるに、どうやら、日本中だれもかれも、かしこくなりすぎちゃったんじゃないか、と思うんです。つまり、そこら中からおだてられて、私達みんなうぬぼれのかたまりになっちゃって、ちょっとわからないことや、困ったこと、まわりの人にちょっと頭下げて聞けばいいのに、わからないということ知られるのがはずかしくって、こっそり電話やハガキで見ず知らずの人に聞いて、あとくされなくして、すましているんじゃないかしら。ねえ、そうじゃなあい?


「お茶の間説法」(37話分)
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笑ったあとに本当の顔が

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


大口あいて笑ってると、笑ってる本人のお人柄が知れちゃって、逆さまに笑われてしまうこともありうるわけですけど、何ていうんでしょ、フフっとか、ホホとか、ニコッとか、そういった、ほほえみ程度の笑いというのは、大切にしたいですよね。

いつだったかなあ、もう20年以上前だったと思うんですけど、劇作家の内村直也さんの講演を聞いたことがありまして、そのときに、最も魅力ある笑い方というのを披露していらっしゃった。それは、どんなのかといいますと、フと笑って、もう一度、フッと笑う。こういうのがなんとも素晴らしいなんておっしゃっていました。

フ・・・フッ あなたもお試しになってはいかがですか?
そう、お試しといえばもう一つ。写真を撮ってもらう時、あなたはどんな顔なさいます?だいたいは、チーズ!ですよね。ところが、近頃はこのチーズではうまくゆかないことが多いんです。なぜって、ほら、VTRなんてのあるでしょ、ずぅっと撮られっ放しということもあるわけです。そんなときにチーズ!というと、まあ、チーのときはいいけれど、ズッのときは、あんまりいい顔になりませんよね。で、最近は、チーズじゃなくて、ウィスキー!というんですって。これならいいですよね。キーと長々とほほえんでいられますものね。

ところで、うちのお寺の日曜学校には、ことばの教室、雪ん子劇団がありまして、ここでは、ことばの体操とか、顔の体操なんてのをやっているんです。で、いつだったか、子供たちに「さあ、みんな、ニッコリ、いい顔で笑ってみよう!」というとそれこそ、みんな思い思いの笑顔を見せてくれたんです。でも、正直いって、あまりいい笑顔がないんです。口に手を当てたり、はにかんでいるだけだったりで。こんなこといったら、しかられるけど、お母さんのコピーなんですよね。子供の笑顔や表情のほとんどは育てるお母さん、たまにお父さん、そして先生の表情そっくりなんです。

で、みんな笑顔がよくないということは、どういうことなんでしょ。いいにくいけど、お母さん、うちであんまり笑ってないんですよね。「早く起きなさい!」からはじまって「いいかげんに寝なさい!」まで、ニコッとか、フフッとか、ホホなんてことめったにないんですよね。そう、お母さんが笑ってるときというのは、近所の奥さんとのおあいそ笑いとか、お客様相手のお上手笑いとか、テレ笑いとか、そんなときしかないんですよね。

ですから、うちの劇団では表情豊かに-と、大いに顔の体操をとり入れて、目も口も鼻もガバッとあけたり、ギュッと閉じたり、唇をとんんがらせたり、ほおをふくらませたり、なんてのをやるんです。そして、写真を撮るときは、ちょっとまぶしそうな顔をして、声をそろえて、ウィスキー!とやるんです。いやほんとに、びっくりするほど、いい顔になりますよ。是非お試し下さいませ。

そして最後にもう一つ。人間の本当の顔は笑っているときの顔ではなくて、笑い終わった時の顔だということも覚えておいて下さい。その人が一番よくあらわれるのは、フフっ、ホホと笑った、その直後の顔なんですって。これはもう飾りようがないんでしょうねー。

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何を笑ったかで器量がわかる

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


笑いとは突如として起こる相手に対する優越感のあらわれである-というマルセル・パニョル氏のことばは、グサリと私の心を突き刺します。私が何気なく、大口あいて笑ったことが、相手をどれほど傷つけるか、ということを、私はあまり気にしていなかったようであります。

例えば、前回も申しあげたように、私達は自分の健康をよろこんで、ついニッコリ笑うことがあります。ところが、これが、健康な者同士なら問題はないだろうが、病人の前ではやはり考えなくてはならないことでしょう。そういえば、ある女流作家で、体の弱い方が、こんなことをおっしゃていたのを聞いたことがあります。
「わたしは、心臓が弱く、いつ発作が起きるかわからないというとても不健康な人間です。そのわたしが、本当に腹立たしく思うのは、世間の人の会話の中の、健康に関するものです。なんといっても健康第一とか、体が悪くないのが一番の宝とか、元気であることが財産ですとか、そんな会話を聞くたびに、どうして世の中の人は、健康のことばかりいうんだろう、と思うんです。だって、不健康なものにも、人生はあるんですよ。不健康なものの人生にもよろこびはあるんですよ」

ハッとさせられました。本当にその通りだと思いました。それなのに、そんなこと気にもかけず、これまで、どれほど、笑いで人を傷つけてきたことでしょう。考えただけでもゾッとします。で、そんなことが気になり出してから、うちの子供を見ておりますと、長男が理由もなくワンワン泣いているときがある。ケンカもしていないのにどうしてだろう、と聞いてみると、「お姉ちゃんがぼくを見て笑うから」だという。バカバカしいと思ったんですが、じつは、これなんですよね。突っ張ってる相手から笑われただけで、もう泣きの原因は十分に成立するわけなんです。

さて、マルセル氏の説の結論でありますが、彼曰く「何を笑うかによって、その人の人柄がわかる」-。
「仮に、人間的な価値の段階が一から百まであるとして、私が61という価値を自分に与えたとする。すると、27乃至34の価値の人間が不幸な目にあっても私は哄笑する気になれないであろう」-と、彼はいうんです。なぜなら「私は彼らにたいして自分の優越性を証明する必要を感じないし、そんなことはずっと前からわかっていたし、その点に関しては、私はつゆいささかも疑ったことはないからだ」とおっしゃる。そして、反対に12乃至14の連中は、31の人間が失敗したりへましたりすると大喜びするだろうし、42の人間が大失態を演じると、この上もない快感を味わう。だが、61の者にとっては、そんなことは面白くもおかしくもない、というのであります。

だから、笑いというものは、笑い手の尺度に応じたものであることは疑いの余地のないことであって、これを吟味すれば、笑い手の人柄や器量といったものを正確に算出することはいとも簡単なことである、とマルセル氏はのたまうのであります。

さてさて、奥様、どうしましょう。あなたの笑い声は、相手を傷つけると同時に、あなたが何を笑ったかで、あなた自身のお人柄があさましくもバッチリ知れてしまうわけでありまして、ますます、大口あいて笑うわけにはゆかなくなってまいりましたねー。

「お茶の間説法」(37話分)
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大口あけて、不用意には・・・

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


笑いは健康によろしい、というけれど、ふと、思うに、私達、一体、どうして笑うんだろう?何がおかしくて笑うんだろ?何がうれしくて笑うんだろ?どんなことを笑いのタネにしているんだろう?

じつは笑いについては、お経にはあまり説かれていないんです。おしゃかさまがにこやかに笑われたときは、お弟子の方々が上手な質問をされたときでありまして、ようこそ、ようこそ、弟子達よ、ようこそ良い質問をしてくれた。じつは、そのことに関して、私はいま、話をしたいと思っていたところなのだ-といってほほえまれたぐらいでありまして、それ以外、笑いについては、何を、どう笑うかは説かれていないようなんです。

そこで、他の方に聞いてみなくてはならないわけで、遠くフランスのマルセル・パニョル氏の「笑いについて」という本に聞いてみますと、なんと!笑いとは-
「そう、笑いとは、相手に対する突如として発見された優越感のあらわれである」
ですと。おわかりですか?私達が何をタネに笑うかといえば、相手に対する優越感-「ばっかだなあ」とか「それみたか!」とか「ざまあみろ」とか「わかってないなあ」とかいった気分が、フッとわいたとき、ハハハ、アハハとこみ上げてくるものなんですと。

そういえば「笑いは勝利の歌である」などということばもあるくらいで、とりあえず、相手が失敗したり、自分が相手を超えたと思ったときにこみ上げてくるものなんですね。

で、問題なのは、その「相手」であります。相手というのは、ただの相手ではない、いわゆるライバルなんです。(あいつには負けたくない)(あの野郎にはゼッタイ先を越されたくない)と思っている相手であります。そういえば、こんな相手、たくさんいますよね。(ウチの若いものには負けたくない)(お隣さんには負けたくない)そう思うでしょ。そういう相手が、どういうわけか、ひょいと失敗したりしたら、これはもうおかしくって、うれしくって仕方ないものなんだ。だってそうでしょ。自分の子供が、バナナの皮を踏んでころんだら「ああ、かわいそう」と、思いこそすれ、アハハと笑う親はいないでしょ。ところが、同じバナナの皮でも、突っ張てる相手が、すべってころべば、これはもうおかしくって仕方ない。アハハ、と笑って、ハラの中では(ザマアミヤガレ)ということになっちゃう。笑いってものは、そんなものなんですね。だから、あんまり、大口あいて笑えないんですよね。

例えば、病院のロビーで。「アハハ、なんたって人間、健康第一、おかげで毎日ピンピンしてます」と、笑ってごらん。下手すると、ブンなぐられますよ。ね、だから、もう一度考え直していただきたいの。私がアハハと笑う時その笑いのむこうには、笑われて泣いている人がいるということに気付いていただきたいの。

人間だれしも、二度や三度は他人に笑われたことってあるでしょ。そしてそのときのハラの中は(チクショー、今に見ておれ、いつか、見返して笑ったるから)という気持ちだったでしょう。それなんですよ、この世の中に多くの差別や、争いを生んでいるのは。

おしゃかさまのほほえみは大いにけっこうだけれど、あなたの、私の、不用意な笑いはどれほど相手を傷つけているかということをどうぞ、どうぞ、お忘れなく。

「お茶の間説法」(37話分)
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幸せだから、健康だから

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


こだわるようだけど、笑う門には福来るってのは、順序が逆で、福が来たから笑えるんだと思いますね。幸福でもないのに笑っていられるなんてことゼッタイにないんじゃないかしら。

こんなこといったら、うちの近くのおばあちゃんが「そうともいえませんよー」とおっしゃる。「私なんか、戦争で主人失って、5人の子供かかえて、そりゃあもう苦労の連続。何度、死のうかと思ったか知れないけれどそのたびに、いや待て待て、と笑顔をたやさずがんばってきましたよ。幸福なんかどこの国のことか知らないぐらいだったけど、ちゃーんと笑ってましたけどねー」
ホラホラ、おばあちゃん、そりゃ世間から見れば不幸の標本みたいだったかも知れないけれど、あなたが笑顔を絶やさなかったのはやっぱり、それなりに幸福だったからじゃないですか。もし、あなたが笑うことが出来たのなら、それがどんなにドン底であっても幸福のあかしなんですよ。

はき捨てたくなるような人生の中でも、ふと顔がほころぶなら、その瞬間の幸福を味わっておかなくっちゃね。そう「笑いは人の薬」なんて言葉もありますよね。これはどうやら正解みたいで、お医者様も大いに推奨していらっしゃる。笑うとまず血管がやわらかくなって、血圧も下がるんですって。それに、胸の筋肉や心臓の筋肉もやわらげて、内分泌をよくして、若返りの薬にもなるんだって?!ちょっと待った、お医者さまの受け売りしてたら、若返りなんてことばが出てきちゃった。こりゃ、お坊さんのいうことじゃない。だって若返るなんてことは、因果の通りに反することで、ゼッタイにありえないことだものね。年は年なりにとってゆく、生老病死なんですから、生まれて生きて、年とって、病気して、死んでゆく。これを逆さまにして、年がだんだん若くなるなんてことがあったら、世の中ひっくり返っちゃう。

そうそう、そういえば不老長寿の薬なんてのもあるけど、あれもいけない。不老はないでしょ。生から老なんだから、老いないなんていったら誇大広告といわれたって仕方ないよね。

エー、で、話をもとにもどして、とにかく笑うというのは、健康にいいそうでありまして、消化、吸収、排せつもよくなるから、笑いはどんなビタミン剤よりも効きめのたしかな保健薬だ、などといわれています。そんなわけで、落語や漫才は、その笑いの保健薬の注射をしてくれるようなものですから、たまには寄席に足を運んだり、うちのお寺へきたり、永さんがナントカアメの広告でやってるお寺へ出向いたりして、大いに笑ってみるのもいいと思いますね。

しかし、どうなんだろう。これもやっぱり順序通りじゃないみたい。先日の若手落語会で、扇好さんがいってました。
エー、こないだはある老人センターのお呼びで一席うかがったんですが、トンと反応がない。こりゃ、芸が未熟だからかと反省してましたら、そこのお世話方「気にしない気にしない。半分は聞こえてなかったんだ」じゃあ、あとの半分はって聞くと「もう笑う気力もない」-ここでみんなは大笑い、となったんだけど、笑いは保健薬なんてのも、どうやら逆で、健康だから笑っていられる。そのうち笑いも出来なくなる時がくるって・・・ことなんでしょうなー。

「お茶の間説法」(37話分)
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幸福だから笑える

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


永六輔さんの肝入りで、お寺の本堂で落語の会を催すようになってから、もう、6年になります。毎年、春と秋の2回、江戸の落語家に来ていただいて、お説教の高座をそのまま使い、大ローソクを2本立て、お代は一席ごとに、おさい銭集めのザルを回していただくという趣向で、これがなかなかおもしろく、近頃はご常連もふえて、毎回それなりのにぎわいをみせています。

ところで、この、寺と落語という関係は、永さんにいわせると、前座、高座、という言葉にもある通り、深いものでありまして、寺のお説教で、とても上手におもしろく語った部分が落語へと育ち、節をつけて語った部分が浪曲になっていったといえるところがあって、お寺で落語をやるというのは、いわば本家帰りということになるんじゃないか、というんです。

で、年に1、2度、本家へ帰って、テレビや寄席の細切れ落語ではなくて、じっくり語るというのは、落語家の精神衛生上も悪くないこと、というわけで、柳家小三治、入船亭扇橋といった師匠連が春の会、扇好、朝太といった2つ目の若手が秋の会でご機嫌をうかがってくれることになっているんです。

いつだったか、その落語の打合せで、永さんとご一緒したとき、たまたまそばに、秋山ちえ子さんがいらっしゃって、とても不思議そうにご覧になってる。袈裟をかけた坊さんが、袈裟をかけない坊さん(そう、永さんは浄土真宗お東のお寺の次男坊)と、落語の話かなんかではしゃいでいる。ローソクをどうしようとか、ザルでおもしろ代とか・・・。
「あのォ、ちょっとうかがいますけど、お寺で落語会をなさるの?本堂で?」
秋山さんがこうおっしゃったので、永さんがさっきの話をもう一度なさって、ようやく「へえ、そういうものなんざんしょうかねー」ということになったんです。

いや、じつは、ここんところがちょっと気になることがありまして、秋山さんだけじゃなく、ほとんどの人が、お寺、というとなにかこう、法事、お経、持戒、精進、禅定・・・というイメージをあてはめて、笑いとか、遊びとか、だれもがやっていることはやらないものとか、決め込んでしまってるところ、ありますよね。こういうのは、お経をまじないの道具に使い、坊さんを祈祷師みたいにして雇っていた律令時代の考え方とちっともかわらない。おそろしいなあ、と思うんです。親鸞聖人という方も、このあたりをずいぶんと歎かれたようでありますが、とにかくイメージの貧困というか、宗教的無知というか、ひどいなあと思います。

で、その・・・まあいいや。今日はそんな話じゃなくて、笑いについてでありました。そこで、まあ、ひとつ、お笑いを一席・・・ということになりますと、なんと申しましても、笑う門には福来る、なんて申しまして、笑ってりゃあ、幸福になれる。ハラを立てりゃ地獄へ落ちるってことになるわけですが、このハナシのマクラに出てくる「笑う門には福来る」というのは、本当なんでしょうかね。わたしはどうもこりゃ、順序が逆のような気がするんです。つまり、幸福だから笑えるんであって、笑ったからって幸福になれるわけはないと思うんですが、どんなもんでしょう?


「お茶の間説法」(37話分)
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行動に移してチエがつく

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


名人、達人になる方法のおしまいは「チエの目を開け」ということであります。事に臨んで智慧がなく、正しい判断ができないようでは、いくら力があってもうまくはゆかない。

で、この智慧の目を開くにはどうすれば良いかといえば、聞(もん)、思(し)、修(しゅ)の三段階があるといわれていて、耳で聞き、思索し、それを修得してゆくわけです。これはなかなか味のあるところで、聞いただけでは智慧とはいわず、考えただけでも智慧とはならず、これを身につけて行動に移してこそ、はじめて智慧ある人と呼ばれるんです。

いつだったか、将棋の大山名人の名人談義を聞いたことがありますが、将棋で1番むずかしいのは、自分の負けを自分に納得させるときだそうで、なるほどなあと思った。ね、ホラ、いまわたしは、名人の話を聞いて、なるほどと思ったといったでしょ。聞いて思ったんですよね。ところが、3番目の「修」つまり体で覚えるというところが抜けているから、大山さんの智慧が身についたわけではない。それどころか、相変らず、負けを負けと知らず、負けるはずがない、そんなはずはないと、浅ましくもハラを立てたり、グチをこぼしたりの毎日です。

まあ、それはさておき、その大山さんの名人談義-ある時、名人戦の対局で、ある旅館へ出向いた。そして、いよいよ勝負がはじまり、それこそ、全神経を集中させ、智慧をしぼっての対局となった。

序盤戦。局面の展開を見ないまま休憩となった。名人たちが席を立つと、そこへ1人の男がはいってきた。ジッと部屋の中のある1点を凝視して、すぐに引き下がった。そして、この男がつぶやいた。
「部屋にはいって右側の人が勝ちだな」
勝負は始まったばかりで勝ち負けは本人にもわからないときなのに、こういってのけた。で、勝負はズバリ、右側にすわっていた大山名人が勝った。

対局のあと、この話を知って、大山さんはびっくり。部屋をちょいと見ただけで、どうしてわかったのだろうと旅館の人に聞いてみた。そしたら、なんと、この人はフトン屋さんで、将棋は素人。たまたま、対局用の座ぶとんを新調して、それに名人がすわられるというのを知って、どうしても現場を見てみたいといいだし、休憩中にこっそり・・・ということになったのだという。

でも、なぜ名人の勝ちとわかったのか、といいますと、このフトン屋さん、盤面で判断したわけでなく、自分のつくった座ぶとんでわかったのだといいます。左側の座ぶとんは前の方に重みのかかったあとがあり、これはあせりの証拠と見てとり、一方の右側をみれば、後に重みがかかったあとがある。これは落ち着いている証拠だから、右側の勝ち、といったのだそうです。将棋の名人はふとんの名人に1本とられたと大いに感嘆した、ということであります。

智慧の目-それは、多くの「聞」と、深い「思」と、きびしい「修行」の中から生まれる迅速適切な判断、的確妥当な処置や行動をなすことができる能力であります。われら凡人に1番欠けている目ではありますが、なんとか少しでも身につけたいと願わずにはおれません。

あぁ、また、やっちゃった。修行抜きの願いなんて、何の役にも立たないのにねー。やっぱり、程遠いか、名人、達人は。


「お茶の間説法」(37話分)
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