煩悩はいくつある

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


ことしもあとわずか――大みそかになると、国民的行事といわれるテレビの歌番組があって、蛍の光の大合唱になり、それが終わると、ゴーンゴーンと除夜の鐘。これも一年のしめくくりと新しい年を迎えるためには、なくてはならない行事です。

わたしの寺では、これを除夜会(じょやえ)といって、午前零時かっきりに撞きはじめるのですが、むかしはこの数を勘定するのが楽しかった。イリ豆を百八つお盆にのせておいて、一つ撞くごとに、ポリっとやった。おいしいもんだから、ポリポリッとやると、数が合わなくなってくるんです。住職は百八つの珠のついた長いじゅずをくりながら、ときどきやってきて、イリ豆を見ながら「オヤ、少し足りないようなナ」。いたずら小僧が2,3人、かげにかくれて、ナンマンダブ、ナンマンダブ…。豆のあとはキャラメルになり、これはどうも終わるころには口の中がねばねば。そして近頃は便利なものが出来て、駅員さんなどが使ったりする数取機というんですか、カチカチと押せば数字がふえてゆく、あれを用意してあるんです。ゴーンでカチ、ゴーンでカチ。

ところが、一昨年のこと、自分で撞くのははじめてという中年の方がこられまして、神妙な顔つきでゴーンとやって、そのあと、
「あのォ、ちょっとうかがいますけど、この除夜の鐘というのは、どうして百八つ撞くんでしょう」
と聞かれる。娘さんに問われて、それは人間の煩悩には百八つあって、それを一つ一つ鐘を撞きながら洗い清めてゆくんだ、と、答えてはみたものの、体験がないからどうも説得力がない。そこで雪の中をやってきたんだといわれる。
「で、どうでした。一つ撞いて、心がすっきりしましたか?」
「いや、それが、あまり緊張しすぎて、どうだったか忘れました」
「では、もう一度、どうぞ」
そこで、順番を待つ列に、もう一度ならんで…ゴーン。
「どうでした?」
「いやあ、とてもとても煩悩が消えるどころか、今度こそ、うまくやろうと思うばかりで…こりゃ百八つじゃ足りませんなあ」
そんなことがあって、わたしの寺では、昨年から、除夜の鐘の数は煩悩の数に合わせて無制限ということにいたしました。

煩悩――悪い心のはたらきのこと。その根本は、欲しいなあというむさぼり「貪」、ハラ立つなあといういかりの「瞋」、しまったなあというおろかしさ「癡」の三つです。この三つが渦巻いて、他人を軽視する「慢」、人をうたがう「疑」、知的迷いの「辺見」「邪見」、勝手気ままの「掉挙(じょうこ)」、自ら恥じる心のない「無慚(むざん)」、他に対して恥じる心の無い「無愧(むぎ)」、プリプリふくれる「忿(ふん)」、罪をかくそうとする「覆」、物を惜しむ「慳(けん)」、ねたみの「嫉」、人を傷つける「害」、うらみの「恨」、へつらいの「諂(てん)」、人をまどわす「誑(おう)」、おごりの「憍(きょう)」、もの忘れの「失念」、誤解の「不正知」、精神を乱す「錯乱」…などなど、人間の煩悩は果てしなくわき起こるものなのであります。

そして、その一つ一つが、悪い心のはたらきだと、わかっているけどやめられない。だから、せめて、大みそかの晩に寺のつり鐘をゴーンとやって、自分の煩悩を洗い流そうなどと考えるのはムシがよすぎるわけで、さっきの中年の方のように、鐘を撞き、あるいは鐘の音を聞きながら、まずはわが身を省みて、あらあら恥ずかしいと、心を痛めるのが先でありましょう。

さて、あすは御用納めの日。自分はこの一年、満足できる仕事をしたのか、どうか、そして、満足できる生き方をしたのか、どうか―—ひとつ静かに反省してみてはいかがでしょう。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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