仏だんの意義

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


きみはなぜ、タバコを吸うのか―と、インディアンに聞いた。するとインディアンが答えた。
「オレのおやじタバコ吸ってた。オレのおやじのおやじ、タバコ吸ってた。オレのおやじのおやじのおやじ、タバコ吸ってた。だからオレ、タバコ吸う」
アチラのジョークにこんなのがあるそうですが、これと同じようなことが、先日、わたしの寺でありました。法座の席で、お参りにきたお年寄りに、こう聞いてみたのです。
「おばあちゃん、あなたの家には、お仏だんがあるよね」
「ハイ。ちゃーんとあります」
「それは、けっこう。ところで、おばあちゃん、そのお仏だんというものは、なぜお宅の座敷にあるのかしら?」
なぜあるのか、と聞かれて、おばあちゃんは困ってしまった。そして返ってきた答えはいまのインディアンのタバコです。
「そりゃあ、あなた、お仏だんというのは親の代から、そのまた親の代から、ちゃんとあったもんです。だから、いまもある…」
どうもわかったようで、わからない。そこで今日は、なぜ仏だんがあるのか、仏だんとはいったい何なのかとう、そんなことを、今日的に考えてみたいと思うのです。

結論から申しておきますと、仏だんというものは、じつは浄土のまねごとなのです。ではその浄土というのは一体何かと申しますと、仏―つまり悟れるものが、その悟りの内容である真実を、あらわさんがために説かれたもの。真実、まことの国のことであります。

お坊さんの読むお経には、そのまことの国のことが、長々と説かれてある。たとえば、この世には、地獄や餓鬼や畜生と変わらぬものがうごめいているが、まことの国には、そうしたものはいない。
この世は、肌の色や身分によって、いろいろな差別や区別の世界があるが、まことの国とは、そういった差別のない国である。
この世には、きたない水が流れ、魚も住めなくなっているが、まことの国を流れる水は8つの功徳―つまり清く、冷たく、甘美で、軟らかく、潤沢で、和らかで、飢餓を除き、あらゆるものを豊かにするはたらきがある。
そしてまことの国には、疑惑を破り、邪心を破り、煩悩を破り、懈怠を破り、邪念を破り、真実の智恵の目を開かせる、妙なる音楽が流れている…。

などなど、数えあげればきりがないほどの、いたれりつくせりの国であることが説かれています。そして、その浄土を浄土たらしめる条件は3つある、といわれる。その1つは、まず浄土には悟れるもの―仏がいなくてはならない。じつは仏だんのまん中に字や、絵や、木像で安置してあるのは、その仏さまをあらわしているわけです。あのような姿をしていらっしゃるかどうかはわからないけれど、経にあることばを具体的に形にあらわしたのが、あの仏さまです。次に第2は、浄土には仏様だけがコロンと宙に浮いているのではない。その環境が必要である。さきほどいいました、いたれりつくせりの国を、あの金ピカの仏だんがあらわしているわけです。

ところで、浄土の条件の第3は、仏1人では浄土といえない。その仏の悟りの真実を聞いてうなずき、実践してゆく諸仏、菩薩がいなくては意味がない。となると、お宅の仏だんのどこにそんな方がいらっしゃるのか…。まわりをキョロキョロしても見当たらない。そう、それはあなたなんですよ。真実なるものを仰いで、それを実践してゆくあなたがいなくては、生きた仏だんとはいえないわけです。金持ちのまねごと、政治家のまねごと、盗人のまねごと…世の中には、いろんなまねごとをする人がいますが、わたしたち仏教徒は真実なるもののまねごとをさせていただくわけで、仏だんの意義も、そのあたりにあると思うのです。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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