法話」カテゴリーアーカイブ

わかってはいるけれど

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画像は善巧寺門徒会館の外壁です。光っている文字は、今回の話に出てくる「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行 (しゅぜんぶぎょう)」のサンスクリット語です。

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


上品な人といわれるために心がけなくてはならない条件を、お経には第一「慈心」、第二に「不殺」と説いてありました。人のためを思い、いのちを大切にする-なるほどそんな人は間違いなくりっぱな上品な人であります。

そして、もうひとつ、りっぱな人は「具諸戒行」なのだとある。グショカイギョウってなんだといえば、もろもろの戒律を守るということ。でその戒律とは身体と心をコントロールしてよい習慣をつけることでありまして、それは単に宗教的な戒律にとどまらず、法律や経済やさらにはからだの健康面にいたるまで、その理想に反することのないように努力することなのであります。

まあ、かんたんにいえば、この世の中の、いろんなルールをキチンと守って、なるべく悪いことはしないようにし、よいことはすすんでするようにしましょう-という戒めであります。
「なーんだ、そんなことか。そんあことなら小学校、幼稚園、いや、三歳のこどもだって知ってることじゃないの」
あなたも、わたしもそう思う。いや、われわれだけじゃなくて、いまから千年もっと前の中国でも、われわれと同じことを思った人がいるんです。お酒が大好きな詩人、白楽天(はくらくてん)がその人。

当時、西湖という所に、道林という和尚がいて、この坊さんなぜかいつも松のしげにも中に、鳥の巣ごもりのように棲んでいる。アダ名も「鳥窠(ちょうか)」といわれる変わりものだったそうです。この噂を聞いた白楽天が面白い遊び友達だとばかり、道林和尚をたずねていわく-
「和尚さん、あなたM、ずいぶん、危険なところに住んでいますなあ。松の木の上なんて」
すると道林ー
「そういうあなたも安住の地ではなく、ここよりもっと危険だと思わぬか」
ご両人、ジャブの応酬というところ。そして、白楽天、本題にはいる。
「ところで、仏法とはそも何ですか」
すろと道林、たったひとこと、
「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」
悪いことはしないようにして、よいことはすすんでするようにする-これ仏法とやったわけです。
そしたら、ほれ、さっきの私たちのように白楽天さんも思ったわけで、
「そんあこと三歳のこどもでも知っている。わかりきったことを!」
とことばを返した。そしたら道林、答えていわく-
「三つの子供でも知っとることじゃが、八十になっても出来んことじゃ」
これでには白楽天、二の句がつけず。以後、長く道林の教えをうけたということであります。

知っていることだけど、出来ないこと-そういえばたくさんありますね。日常生活の中でも、例えば、健康のため、吸いすぎに注意しましょうとか、食べすぎに注意しましょうとか、危険防止のため、交通ルールは必ず守りましょうとか、おとしよりを大切にしましょうとか、まあ、いいこといっぱいあるけれど、なぜか、わかっちゃいるけどやめられない。そう、そのわかっちゃいるけどやめられないのは、なぜなのか。なぜ、上品になれないのかを見つめてゆくのが仏法なんですね。


「お茶の間説法」第一巻(37話分)はこちらからどうぞ。
>> https://www.zengyou.net/?p=5702

ニワトリのいのち

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


上品な人、りっぱな人になる第二条件は「いのちを大切にする」ことだといわれます。(第一の条件は前回紹介しましたが、世のためにつくし、ものをいつくしみ、はぐくむ心と説かれています。)生命の尊重は人として生まれて当然のことだとおっしゃるかもしれないけど、その当たり前のことが、あまりよくわかっていないのが私達のようであります。

たとえば、ほら、もうすぐ、愛鳥週間がはじまりますよね。10日からでしたっけ。日本の野鳥は全国で424種とかで、その愛らしい姿や鳴き声で、人の心をなぐさめてくれる小鳥たちをやさしく守ってあげましょう-というのがこの週間のココロのようです。けっこうなことであります。殺生をするのはよくない。いのちは人のいのちばかりではない。小さな鳥たちにもいのちがある。だからこの週間をご縁に大いにかわいがって、ヒマがあったら、木の枝に巣箱をかけてやったり、庭に小米をまいてやったりなさる・・・あの・・・悪いといっているんじゃありません。大いにやるべきことだと思います。しかし、こういうことも考えておかねばいけないんじゃないかしら。愛鳥週間に、ニワトリは含むのか、含まないのか、どっちなんだろう?

一度、ラジオでこのことを聞いてみたことがあります。そしたら、聞いていた奥さんからスタジオへ電話がかかってきました。
「あのォ、放送聞いていたんですけど、バードウィークにはニワトリはふくまないんじゃないですか?」
「どうして?」
「だって、ニワトリは家キン類で、食べるものでしょ」
「食べるものはかわいがらなくっていいって、だれが決めたんですか?」
「さあ-」
電話の奥さんもわからなくなったようです。で、こんな話をしていたら、ナチュラリストの方が気にされたのか、生番組のスタジオへお越しになりました。
「クルマの中で聞いていたんですが、あまり考えてもみなかったことなので、ひっかかりましてねえ」
富山では、有名な、すてきな野鳥保護の会のおじさんでした。そこでもう一度聞いてみました。
「どうなんでしょうねえ」
「むずかしい問題ですね。うちで保護しているフクロウのヒナは毎日かしわのすり身をたっぷり食べて元気に鳴いていますが、考えてみれば、これもいったいどういうことなのか…」
先生、ずいぶん複雑なお顔なさってました。

もちろん、スカッとした答えは出ないかもしれないけど、少しは考えてみてもいいんじゃないですか。ニワトリにもいのちがある。それを勝手にパックにつめて、安いの高いのうまいのまずいのといっている。ニワトリのいのちなんて、ちっとも考えていない。ニワトリだけじゃなく、ハトだって、以前は平和のシンボルだなどとかっこいいこといってたけれど、近頃はフン害で、どこでもきらわれもので、所によっては空気銃で撃ってもよしという常例もあるとか。人間ってずいぶん勝手ですね。

なにもニワトリを食べるなといっているんじゃありません。ただ、ニワトリにだっていのちがある。そのいのちを忘れて、かわいい声の野鳥にだけ片寄るのは、ちょっとヘンだったなと思っていただきたいのです。


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命日より誕生日

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか。きのうは天皇誕生日。うちの寺では毎年、この日は「慶びの春」と称して、いろんな方の誕生をお祝いするんです。普通は寺の法事というと、なにかしめやかな感じですけど、誕生祝いなんだから、パアッとハデに楽しくやろうじゃないか、というわけで、近くのチューリップ畑から球根を太らすためにつみとった満開の花を、10数万個もいただいてきて、境内いっぱいにこれおを飾って、文字通りの花まつりをやるんです。

おしゃかさまの誕生、しんらんさまの誕生、日が日ですから天皇さまもようこそ、そして親代々、あなたの、わたしのさらに子供の誕生までよろこぼうじゃないか、というわけです。お坊さんというと、どうも誕生日より、命日の方に偏っちゃてる風ですが、私はやっぱり、命日よりも誕生日だと思うんです。死んだ親の日に仏だんで手を合わせるのもステキな習慣ですが、それより生きている間に誕生パーティーをやっといた方がいいんじゃないですか。

そう思って、うちの寺ではここ数年、門徒の方の中で、明治生まれのおじいちゃん、おばあちゃんに、誕生祝いを贈ることにしているんです。たいしたものじゃありません。仏様のお話しを書いた小冊子と、それに誕生カードが1枚、それだけです。

「おばあちゃん、おたんじょう日おめでとう。おばあちゃん、あなたのたんじょうがあればこそ、お父さん、お母さんも生まれたんですよね。そして、そのお父さん、お母さんのたんじょうがあればこそ、お孫さんも生まれたんですよね。いのちの尊さ味わいながら仏様に手を合わせましょう」
カードには、こんなことを書きました。目のうすくなったおばあちゃんにこの頼りが届きました。以下はそばにいたおじいちゃんの話でわかった宇奈月(富山)弁の、おばあちゃんと孫の対話です。

「寺から何かきたけど、ばあちゃん読めんが。たのむこっちゃ、読んで聞かしてくたはれ」
「うん、読んだけるっちゃ。”おばあちゃん、たんじょう日おめでとう”?!へー、ばあちゃん、たんじょう日あったがけ?」
「しゃあ、あるもんじゃ、おらもわすれとったけど。でで、それだけけ?」
「まだあるわ。”あなたのたんじょうあればこそ、お父さん、お母さんも生まれたんですよね”・・・ふーんそーか。”そのお父さん、お母さんのたんじょうがあればこそ、おまごさんも生まれたんですよね”・・・あれ?おまごさんちゃ、わたしのことけ。なら、ばあちゃん、ばんちゃんが生まれなんだら、わたしも生まれんかったんやな」
「そら、そういうことになるわいね」
「しゃあ、だいそうどう!なら、今日はばあちゃんの誕生パーティーやらにゃあ!」
といって小学3年のそのお孫さん、自分の小遣いにぎりしめて、お店に走って、何と、おばあちゃんのために、大きなデコレーションケーキを買ってきた。おばあちゃん胸いっぱいで、ケーキ食べられなくなったんですって。

おばあちゃんの誕生日を知らない子に育てたのはだれなんだろう…なんて、ことはこのさい抜きにして、とりあえず、いのちの尊さ味わいながら、おばあちゃん、おじいちゃん、なくなった先祖の誕生祝いをやってみようじゃないですか。


「お茶の間説法」第一巻はこちらからどうぞ。
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上品 中品 下品

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


自分が上で、他人は下-いつも上でありたいと願ってやまないのが本当の私なのですが、他人に問われると、なかなか正直にそうはいえない。ちょっぴりテレて「いえ、わたしなんか…」と引き下がる。

お経にこんなのがあります。人間を上、中、下にわけて、上品、中品、下品という。そう、良い子、悪い子、普通の子ですね。で、さらに、上品にも上、中、下、中品にも上、中、下、下品にも上、中、下とわけて、合わせて九品-一番りっぱな人間は上の上、最低を下の下というわけで、まあこの中に、すべての人間がふくまれているというんです。

さて、あなたはいったい、どのあたりの人間でしょうか?
むずかしいですね。答え方が。うちのお寺にくるおばあちゃんに、これと同じことを聞きますと、
「そりゃあ、仏さまからみりゃ、私なんぞ下の下でございましょう」
答えはりっぱだけど、本当にハラの底からそう思っているかといえば、そうでもないみたい。(下の下だという反省のある私は、あの人よりは、ちょっと上・・・)という心がどこかにうごめいている。

若い方に聞くと、軽い気分で「そうだなあ中の上ぐらいかなあ」とおっしゃる。日本人の生活意識もそれぐらいのところだというデータがありましたよね。でも、これだって、中の上なんていってるけど、となりに比べればもうちょっと上、と思っているんじゃないかしら。まあ、正直にいって、どんな生き方してようと、自分は自分、ちゃんと二重丸、三重丸をつけて、内心ひそかに、上の上だと思っていなきゃ、生きてられない・・・てなところじゃないですか。

ではいったい、りっぱな人間、上品な人間、上の上というのはどんな人のことをいうのか、ということをさっきのお経に聞いてみたいと思うんです。そうして出来ることなら、努力して、本当にりっぱな人になってみようと思う。上品な人、上の上の人の第一条件は、というと-世のため人のためを思い、世のため人のためにつくし、ものをいつくしみ、はぐくむ心をそなえた人-と説かれてあります。

いま流行のボランティア、福祉の問題にとりくむことも、りっぱなことなんだと、仏さまもおっしゃるわけです。大いにがんばりたいですね。ただね、がんばったからって、慢心をおこしちゃいけません。そこのところを、自分で実践しながら得た結論として、永六輔さんがうちの寺の本堂でこう話して下さった。
「みなさん、ボランティアとか福祉とか、めぐまれない人たちに愛の手を、なんて近頃とてもよく使われる言葉ですけど、いいですか、愛の手なんてだれも持っていないんですよ。持っているのは右手と左手だけ。もし人のためを思うなら、その手を求められれば貸せばいいの。愛の手なんて飾りたててさしのべて、相手がしあわせになるなんて考えていたら、それこそ大間違いです!」

胸にズシンとこたえました。この私がやってる世のため人のためはひょっとしたら自分の好みの押しつけで、人べんに為-つまり「偽」なんじゃないかと気付かされたことであります。


「お茶の間説法」第一巻はこちらからどうぞ。
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お説教好きですか?

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


「コレッ!なにやってんのよ。さっさとしなきゃ、ダメでじゃないの」
あなたのこんなお説教を聞いて
(そうか、ボクは間違っていたんだな。それでお母さんは、ボクをしかって、正しい道を歩ませようとしているんだな。ああ、親なればこそだ。お母さん、ありがとう!)
などと、子供が思ったりするだろうか?
「いいかいキミ、僕はキミの為を思っていうんだよ。キミの将来を考えればこそ、こんなこともいわなきゃならないんだ」
こんな上役の説教を聞いて、素直に
(ハイ、反省します)
といえますか?
「ねえ、あなた、わかってちょうだい。わたし、あなたがイヤで、こんなこというんじゃないのよ。ただ、この家には二人の女がいて、これから仲良くやってゆかなきゃならないから、心を鬼にしていうんですよ」
姑さんのこんなお説教を聞いて、あなたは
(ああ、お母さん、ありがとう。わたしがいけなかったんだわ。鬼どころか、ほとけさまだわ!)
なんて思えますか?

お説教-かたくるしい教訓的なお話で、上のものが下のものへ、正しいものが間違っているものへ、お前はダメなんだ、ということを再確認させるようなところがあって、できることなら、そんな押しつけの説教は死ぬまで聞きたくない、というのが、私達の本音のようであります。つまり、人間はいつも自分を認めて生きている。自分に丸をつけて生きています。自分が上で他人が下と考える、これを「慢」といいます。その慢にもいろいろありまして、「やったア!勝った勝った」と、単純に有頂天になるのを「我勝慢」。「へー、あいつ、とうとう局長になったか。おや、こいつ校長か…ハハハ、こいつらみんな、オレの同級生だ!」ー同級生だからどうだって聞かれるととても困るんですが、とにかく、えらくなった人と、自分がどこかでつながっているということで自慢するのを「我等慢」といいます。そう、金田正一さんの口ぐせに、こんなのがありました。
「ハハ、大臣も女優さんも、ワタクシもメシ食って、出して、寝る、同じやねー!」

さて、三つ目の慢は、「我劣慢」
「困ったわぁ、どうしましょ。わたし、奥さんに負けちゃった。ほーんと、かなわないわ」なんて、負けた負けたといってるけど、本心、ちっとも負けたと思ってない。ほんの一部はあなたに劣っているけれど、あとの大部分は、わたしの方が上、と自慢するのを我劣、あるいは「卑下慢」というんだそうです。

ところで、こんなエグイもの、だれが持っているのかと申しますと、生きとし生きるものみなすべて、だと、仏様がおっしゃる。あなたも、わたしも、煩悩具足であります。具足というのは、一つとして欠かさずに持っているということでありますが、これに気がつかないのがあわれ凡夫のわたしなんです。

で、つまりは、私達は他人に「お前はペケだ」なんていわれるのは大嫌いなのでありますが、逆にお説教する方はというと、これはもう大好きで、そういう人間は、私をふくめてあなたのまわりにもゴマンといるんじゃないですか。いや、ひょっとしたら、あなたもふくめてかな?


「お茶の間説法」第一巻はこちらからどうぞ。
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テレビでやっていた

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。


育てる側だと思い込んでいた自分も、やっぱり育てられて生きている-って前回申し述べました。で、じゃあ、いったい、この私は、何に育てられているのだろう、ということを、すこし考えてみなくてはならなくなりました。

あんまり深く考えると、眠れなくなっちゃいますから、そこはまあ、軽く考えてみる-すると、ふと気付くのが「テレビ」です。私達の日常生活のほとんどは、このテレビの「お育て」をうけているんですよね。
「テレビでいってたけど明日は雨だって」
「やっぱり、子供にはきびしくんきゃいけないわねえ。ホラ、テレビであの先生もいってらしたわよ」
「ほらほら、これよ、新500円玉!テレビのニュースでやってたでしょ」
なにもテレビでやってなくったって新500円玉は出回っているんですけれど、とにかくテレビということばをくっつけないと話がおさまらないみたい。現代の気付かざる流行語は「テレビでやってた」じゃないかしら。いえ、なにも悪いといってるんじゃないんです。けどやっぱり、ちょっとヘンだと思うんです。

私のお寺で日曜学校というのをやっていまして、その子たちにある時、「おいしいものってどんなもの?」と聞いてみたことがあります。そしたら、100人いた子供がまずそろって「高いもの!」っていうんです。ガクッときて、「ほかに何かないのか、もっとおいしいものは」といいますと、ちょっと出来のいい子が「ハイッ!」と手をあげる。ホッとして「いってごらん」というと-
「それは、みんなが食べているものです」
「なるほど、みんあが食べてるものがおいしいか…そうだな、やっぱりごはんだな」
「あのぉ、違います」
「ん?」
「みんなが食べているものといえば、テレビのコマーシャルでやってるものに決まってるじゃないですか」
あの…何も悪いといってるんじゃないですが、おふくろの味よりフクロの味…お母さん、ちょっとがっかりしませんか?

いや、がっかりしているお母さんにしてからが、テレビ、テレビ、なんだから仕方ないんでしょうかねえ。で、テレビでやってなかったことにぶつかったりしたら、どうするんでしょ。けなげにも、パパに相談なさるのでしょうか。そんなことないですよね。「わたしにわからないこと、亭主にわかるわけないでしょ。一度テレビの相談コーナーに聞いてみなくちゃ」なんてことになっちゃう。極端かもしれないが、そんなとこ、あなたにもあるでしょ。

でもね、そのテレビだけどね、あんまり頼りすぎちゃいけないよ。それこそ、ほら、ついこの前、番組をやめた、小川宏さんがテレビでいってたよ。
「テレビというのは、まったくのウソというものではないのですが、すべてが真実というものでもありません。そういったつかみどころのなさが、われわれ情報をお送りする側にとっても、もどかしく感じることが、よくありましたねえ」

「人と人との間を流れる小川のようでありたい」なんて名セリフをのこしてやめていった小川さんだけど、17年間あのショーをやってのホンネがチラッとみえたみたいでした。流れる小川を頼りにしていたら、自分もいつのまにか流されてしまう。動かないしっかりしたものを見つめてみようよ。


「お茶の間説法」第一巻はこちらからどうぞ。
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続・お茶の間説法

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善巧寺のYOUTUBEチャンネルで「続・お茶の間説法」をスタートしました!
「お茶の間説法」は、昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された文章です。 いつでもどこでもあなたの心に仏さまの心を。5分ほどの音声法話です。 朝起きた時、クルマの中、夜寝る前などにご利用いただけると幸いです。1冊目は著者本人の音声でお送りしましたが、それ以降の音源はないため、2冊目以降は著者の息子、現住職が朗読を担当します。 このシリーズは当面5/6までは毎朝一話ずつ公開予定です。

「続・お茶の間説法/雪山隆弘」
良い子 悪い子 普通の子
縁によって育つ

「良い子 悪い子 普通の子」見てますか?不思議なのは、良い子でありまして、あの子だけが、まるで存在感がない。良い子ぶりっ子で、本物の良い子じゃない。みんなで笑いものにしている感じであります。もちろん、あの番組はお笑い番組だから、それなりにけっこうなのでありますが…。

さて、それはさておきだ、TVじゃなくて人生本番、子育て本番で、お母さん、あなたは自分の子を、どんな子に育てようと考えていますか。良い子にですか?普通の子でたくさんですか?それとも悪い子にですか。まさか、自分の子を悪い子に育てようなんて思っていませんよね。そりゃあ、わかる。ところが、おそろしいことに、良い子はなかなかいなくって、悪い子が世の中にはとても多い、ということであります。これは一体どういうことなんでしょう?

名古屋の久徳先生、ほら「母源病」などという本を書いている、あの方が、こんなことをおっしゃっています。
「みなさん、あのね。これはいま世界の一つの結論なんですけどね。人間は育てる側によって育つんです。間違いなくそうなんです」
と、あのインドの狼少女の例を引きながらお話なさっていた。人間は育てる側によって育つ―仏法ではこれを「縁によって育つ」といっていますが、とりあえず、学者のいうことの方が信頼性がある世の中ですから、久徳先生のおっしゃったことばを、よくかみしめていただきたい。とってもこわいことだけど、本当なんですね。人間は育てる側によって育つんです。

大阪で生まれ育った人は「なにいうてんねん」だし、わたしのいる富山県なら「なにいうとんがじゃ」だし、東京なら「てやんでェ」ということになっちゃ。これみんな、親やまわりがそのように育てたんでしょ。ことばだけじゃなくて、良い子を育てるのも、悪い子を育てるのも、普通の子を育てるのも、みんな育てる側によるわけです。

で、ここにちょっとしたデータがあるのですが、近頃の子供は、どういう具合に育っているかというと-
まず「約束を守らない」
次に「感謝の心がない」
三つ目は「失敗したら他人のせいにする」
そして最後は「美しいものに気がつかない」ーのだそうであります。いやあ、ひどいもんですな。ウチの子もまったく同じですよ、なーんて笑ってる場合じゃないわけでして、このデータにかぶせて、もう一度久徳先生のことばをくり返してみると…なんだかゾォーッとするんですが、そういうふうに育てているのは、育てる側のこのわたし、ということになってくる。

さあ、そこで考えなくてはならないのは、育てる側だといっているこのわたしは、いったい何によって育てられ、何を仰いで生きているのか、という問題であります。「人間は育てる側によって育つ」という久徳先生のことばを、ただ、育児のハウツーとして聞くのではなく、育てる側だとふんぞりかえっていた自分が、約束を守らず、感謝の心もなく、失敗したら他人のせいにし、美しいものに気がつかなくなってしまっていたのではないかということに気付き、おどろくべきなんじゃないでしょうか。


「お茶の間説法」第一巻はこちらからどうぞ。
>> https://www.zengyou.net/?p=5702

ウィルスの次にやってくるもの

善巧寺では、3月16日からほっこり法座(お講)を休止し、花まつりや清掃奉仕も中止の運びとなりました。寺報4月号も先の見通しが立たないため、必要最小限のこのような案内になりました。先が見えない状況に翻弄されていますが、よくよく考えると、経典にあるように、コロナ以前から私たちには明日の保証がありません。それを幻想を描くようにあるものとして生活していたことを実感させられます。

不安や恐怖は、他人への怒りや憎しみに変貌することがあります。他人事ではなく、くれぐれも攻撃的、あるいは自虐的にならぬように気を付けたいものです。静かに手を合わせる生活に立ち返りましょう。 (寺報号外より)

https://youtu.be/rbNuikVDrN4

こちらは日本赤十字社が公開した動画です。とても大事なメッセージなのでどうぞご覧ください。お互いに気を付けましょう。

お茶の間説法 -目次-

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」は、昭和54年に書籍として出版。病気で自宅や病院から出られない人のために、本人の音声で朗読している。ニフティ主催のポッドキャスティングアワード2006で審査員特別賞を受賞。

「お茶の間説法」
著者:雪山隆弘/印刷所:百華苑/昭和54年8月15日発行
お目覚め説法
いい天気ってどんな空?
カガミよかがみよ鏡サン
心のファウンデーション
決めた!はヤメタのはじまり
だいどこ説法
スプーンはおいしさを知らない
ひとりいきいき
いただきます、してますか?
おかげさま?おカネさま?
るす番説法
あなたのダンナは本当の旦那か?
ベルの音いろいろ
長屋とマンション
ひとりよりもふたり
いどばた説法
浜美枝さん
六道はいずこに
この世はあなたのままになるか
天上界は二分半
●オフィス説法
ようこそ、ようこそ
居直るか、痛みを感じるか
千々に乱れてグチばかり
煩悩はいくつある
チャンネル説法
生きがいと死にがい
名CMその後
ストーブで心は暖まらない
ハウツー説法
お布施は出演料じゃない
焼香は何のために
仏だんの意義
ありがとう、さようなら
お茶の間説法
焼きイモの味
女のよりどころ
男は富貴

連続再生プレイリスト

雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

チャンネル説法

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昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


現代は情報過多の時代である、といういい古されたことばがあります。テレビ、新聞、ラジオ、週刊誌、雑誌…どれをとっても情報満載で、わたしたちが知りたいことや知りたくないことまで、すべてわかる仕組みになっているという。しかし、本当にそうなんでしょうか。ある学者がこんなことをいっています。
「現代は情報不足の時代である。人間がいかに生きるかという情報に欠けている。わたしがどう生きるかという情報を与えてくれる場がない」
と。

なるほど、そういわれればそうですね。テレビのチャンネルを回してみると、地球の裏側の出来ごとまでわかりはするけれど、では、いったい、このわたしはいかに生きるべきなのか、ということはあまり語りかけてくれない。もっとも、テレビとはギリシャ語で「遠く」の意味で、ビジョンは「見る」。つまり遠くのものを近くでみるだけで、テレビの使命はこと足れりなのかもしれませんが…。

でもね、そんなテレビの番組の中にも、ときどき、キラリと光るものはあるものです。最近、わたしが感動したのは「母と子のスキー教室」という番組でした。1メートルも滑れない親子が、先生の指導で日一日と上達してゆく。その姿を見せながら、あなたもどうぞ…とやるのだが、そのとき、岸英三という先生がおっしゃったことばに、わたしは思わずヒザを打ちました。
「あのね、みなさん、スキーというのはね、ちゃんと、まっすぐ滑るものなんですよ。ただ、それを人間が曲げてしまうんだ。板にさからわず、おとなしく乗っていなさい」

いかがですか?たとえスキーがうまくならなくても、このひとことで、わたしはあの番組は大成功だと思う。だって、この先生はスキーのことじゃなく、人間いかに生きるべきかをわたしたちに語りかけてくれたんだもの。「あのね、みなさん、世の中というものはねm、ありのままに動いているものなんですよ。ただ、それを人間が、わがままにしようとしているだけなんだ。自分の人生にさからわず、心を広くもって、それを受けとめてごらんなさい」——お釈迦様の時代なら、このひとことでパッと悟りをひらく人が何人もいたでしょうに…。

こんなテレビを見て、とてもうれしい気分になりながら、雪の中を、門徒の家にお参りに行きますと、その帰りぎわ、そこのおばあちゃんが、表に出てゆくわたしの背中にむかって、
「おしずかに やわやわと…」
といってくれました。「やわやわと…」いいことばですね。雪道というのは、それこそ人間の煩悩と同じで、積もれば積もるほど道がなくなるものなんです。そこで、わたしの住む宇奈月の方では、大通りに出るまでの道を、家の人が踏みかためておくのです。やわやわと…というのは、その雪道を歩くときに力を入れずに、ソッとお歩きなさいませよ、ということばなんです。

雪国でないとこれはわからないでしょうけど、とにかく力を入れてグッと踏むと、ゴボッとヒザまで沈んでしまう。人の踏みかためた道ですらそうですから、右へそれれば腰まで落ち込み、左へ踏み込むと長ぐつから着物の中まで雪でグショグショです。だから、やわやわと…なんです。

わたしたちの人生も、また、この雪道と同じようなものですね。この世に生をうけて、せめて一つぐらいは…と、若いときはとかく力がはいります。これぞ男の生きる道…とか、なんとかいって、グッとふんばると、ゴボッ。右へ寄れば道なくて沈み、左へ傾けばまたしかり。シャクなことかもしれないけれど、まずは長い間かかって先人が踏みかためてくれた道を、静かに、踏みしめ、かみしめ、やわやわと…。表は冷たい雪が積もっていましたが、わたしの心は、またまた、ポカポカと暖かくなりました。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。


<-目次-「お茶の間説法」>
お目覚め説法
いい天気ってどんな空?
カガミよかがみよ鏡サン
心のファウンデーション
決めた!はヤメタのはじまり
だいどこ説法
スプーンはおいしさを知らない
ひとりいきいき
いただきます、してますか?
おかげさま?おカネさま?
るす番説法
あなたのダンナは本当の旦那か?
ベルの音いろいろ
長屋とマンション
ひとりよりもふたり
いどばた説法
浜美枝さん
六道はいずこに
この世はあなたのままになるか
天上界は二分半
ようこそ、ようこそ
居直るか、痛みを感じるか
千々に乱れてグチばかり
生きがいと死にがい
名CMその後
ストーブで心は暖まらない
ハウツー説法
お布施は出演料じゃない
焼香は何のために
仏だんの意義
ありがとう、さようなら
お茶の間説法
焼きイモの味
女のよりどころ
男は富貴
煩悩はいくつある
チャンネル説法