この世はあなたのままになるか

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


六道の辻は いずれぞ そこそこに
明け暮れ 胸におこる煩悩

地獄や餓鬼道や、畜生道というものを、遠くに見るだけではなく、わたしの心の中で、刹那刹那にわき起こる煩悩のそのままが、六道をぐるぐるとめぐっているのだということを、先週からお話しているわけですが、今週は、五番目の、人間世界について考えてみようと思います。

人を裁き、人を責める地獄の世界。もうちょっと、もうちょっと、とむさぼりつづける餓鬼道、人に迷惑をかけてもすまないとも思わないご恩知らずの畜生道、あいつには負けられない、と目をつり上げる修羅道…といずれをとっても、わたしたちの毎日の生活の中に見られるものでありますが、では五番目の人間界というのは、いったいどんなものかー。

覚者仏陀は、ズバリ、人生は苦である、とおっしゃっている。こういうと、あら、そんなこともないわよ、とおっしゃる方もいらっしゃる。だって近頃はずいぶんと恵まれていますから、欲しいものは何でも手に入るし、生活だってけっこう楽になった。人類は楽の追及にあくなき努力をしていますから、まだまだ楽になることは確かでありましょう。

ずいぶん昔のことですが、中国のある識者が「最近、便利な道具が出来て、生活は楽になったが、これは人間の堕落だ」となげいたという。その便利な道具とは、水を汲む”つるべ”だったそうですが、それから考えると、本当に現代は極楽かもしれません。

しかし、いろんなことの手間がはぶけたり、楽しむ材料はいくらでもあるけれど、基本的なところは、ちっとも変っていませんね。人間は生まれて生きて、年とって、病気して死んでゆく。人間の死亡率は100%だとわかっていながら、このパーセントを下げてくれる人はだれもいない。不老長寿の薬といったって、ちょっとおかしい。長寿に効きめはあるかもしれないが、不老なんてことはまず不可能です。人間の生、老、病、死というものは、どうにもならないものなんですよね。さらにいえば、愛しい人とは必ず別れねばならないという事実、いやな人とも会わなきゃならないという現実、欲しいものが手に入らないというつらさ…そう考えると、わたしたちの人生は、そのまま、わたしたちの思いのままにならないということになってくる。

これを仏陀はまとめて四苦八苦、人生は苦であるとおっしゃったわけです。つまり、苦とはままならないこと、人生とはわがままにならないものであるということであります。ですから、悟れる者から見たならば、人間世界はそのままが、悲しみの世界であるということになる。ところが、これがわたしたちにはわからない。少しぐらいは、わがままになると思っている。いや、思いたいんですよ結局は。そこでまあ、いろいろと努力するわけです。いつまでも若くありたいとか、好きな人とは離れたくないとか、いやな人とは会いたくないとか、欲しいものはトコトン求めるとか…で、結果はどうか。ダメなんですよね、これが。千年も万年も生きていたいと思ってもムリな話。あなたとならばあの世まで、と思ってみても別れるときが必ずくる。

で、そのとき、フトもらす。あーあ、世の中ってままならないものなのねー。これがグチというヤツです。グチとは無智のことでありまして、世の中をありのままに見る智恵の目を持っていないものからこぼれでるもの、それがグチなんだそうです。グチは女につきものなんていうけれど、インドではこれをモーハといい、中国でマーカとなり、日本にきてこれがバカとなったという。いどばたで、あまりこぼしちゃみっともないね。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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