千々に乱れてグチばかり

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


電車の運転士をしている友人がいうんです。「いいのかなあ、これで…」「何が?」と聞くと、「いやね、オレは毎日、ハンドル握って、レールの上を走っているんだけど、あの運転席というのは孤独な場所でね。いろんなことを考えてしまうんだ」「例えば?」「うん、例えば、信号ヨーシで青を確認したとするだろ。するとその青から青いみかんが浮かんだり、踏み切りを通過するときに見た車の中に家族連れが乗ってたりすると、オヤ、どこへ行くんだろう、あの方向ならデパートへ買物かなとか、そのすぐあとで、ああオレもウチの連中つれてってやらなきゃとか、いや、オレ1人であしたは釣に出かけようとか、こんなに天気がつづくと、庭に水やりしなきゃいかんなとか、そんなこと考えてて、ふと手をみると、ああツメを切らなきゃとか、とにかく気が散るんだよ。もちろん、後には大勢の命をあずかっているんだから、緊張はしているんだけど…。何か気の散らない方法はないものかね」

友人のことばに、わたしは即座に答えました。「あるもんか」。友人はがっかりして「坊さんのお前だから、座禅でもしろといってくれるかと思ったのに」という。もちろん座禅も結構だが、だまって坐ったぐらいで、われわれの本性が変わるわけがない。友人も、わたしも、そしてあなたも、みんな同じようなもので、毎日毎日、心を静めて一つのものに集中するなんてことはまるでなく、朝から晩まで気の散りっぱなし。そばから見ると、一心不乱に仕事をしているように思えても、当人の心の中は千々に乱れているのであります。

で、友人に「彼岸に至る第五の修業は禅定といって、精神集中の修練なのだが、とてもわれわれにはできるもんじゃない。だからといって居直らず、いいのかなあ、いいのかなあ、いいわけないよなあ、と、せめて1日1回ぐらいはオノレを省みる。さっき思ったその心を忘れるな」と、いったものであります。

さて、至彼岸、六パラミツの最後は「智慧」であります。智慧とは、事物の実相を照らし、惑いを絶って、さとりを完成するはたらき。物事を正しくとらえ、真理を見極める認識力、これであります。で、この智慧には四つの分別がありまして、一に生得のチエ。生まれながらに持っているもので、母親の乳を飲むとか、泣き声でもって親をこきつかうとか。二に、聞慧。聞くことによってつくもの。三に思慧。思索から生まれるもの。そして四に修慧。それを実践して体得するものであります。

こう考えてまいりますと、わたしたちはどうやら一の生得、二の聞慧どまり。それも見上げたものじゃなく、聞きっかじりの浅智慧で、せいぜい働くのが悪智慧ぐらい。三、四の思索し、実践するなどは思いもおよばぬことであります。

では、智慧の反対はどうかといいますと、無知でありまして、これならお手のもの。無知の語源はインドのMOHA=愚かなこと。これが中国に渡って音訳され「慕何(ぼか)」あるいは「莫訶(まか)」となり、なぜかこのボカとかマカがなまって、日本語の「ばか」になったといわれます。そしてその、ばか=無知なるものからこぼれ出るもの、それが愚痴というものであります。

「よわったなあ」「まいったなあ」「しまったなあ」「ままならないよなあ」「いやんなっちゃうよなあ」・・・職場で、家庭で、街角でとめどなくあふれ出ているのが、このグチであり、それそのままが、ばか丸出しということになるわけで、じゃあよせばよいのにと思うのですが、なかなかこれがとまらないんですよね。しかし、これまた居直らないで、ポロリとこぼれたグチのなかから、自分の智慧のなさを知る。本当のわたしというものを思い知らされる、という受け取り方も大事なことかと思うのですあ、いかがでしょう。


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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