お茶の間説法

昭和52~53年にかけてサンケイ新聞婦人面に掲載された「お茶の間説法」の文章です。末尾には、著者本人による録音音声があります。


オヤ、いらっしゃい。さあさ、ここは座敷と違うんだ。むずかしいあいさつは抜きにして、もうちょっと火のそばへお寄りなさいよ。いまちょうど、おいしいお茶でもと思っていたところなの。…で、お元気?そう。いいね、みんな元気で。うん、うちも、ホラ、この通り。健康で、ほがらかなだけがとりえだよ。

エート、何か甘いものは…と。あ、そうそう、金平糖がありました。どうです。ひとつやりませんんか。「えーことことこと、こんぺい糖」っていってね。いや、こどものころ、じいさんがね、茶の間にわたしが顔を出すと、ちょいちょいと手招きしてね。ヒザの上にこいという。で、そこへいくと、「おい、お前、ええ子にしとるか。おじいちゃんは、いつもお前を見ておるぞ」なんていう。わたしがウン!というと、「よーし、それでは一つ、ごほうびをやろう。ええことことこと、こんぺ糖」といって、長火鉢の引き出しから、これを一つとり出してくれたものです。亡くなって33年になるけど、まだこの味が忘れられなくてねえ。

さあ、お茶がはいった。番茶だけど、うまいよ。そうそう、金平糖といえば、わたしが東京で新聞記者をしていたころのこと。ほか、この婦人面で、”あしたのデザイン”を書いてられる森英恵さん、あの方のパーティーに招かれたことがあってね。原宿だったかのブティックが出来たときの開店祝いだったと思うんだが、とにかく2、3人の友だち連れて、行ったのよ。で、お店にはいったら、いろんな人が来ていてね。今宵はシャンパンパーティーだっていうの。うれしくなってね。わたしはいやしいから、さあ、シャンパンと何が出てくるかと楽しみにしていたの。そしたら、森さんと、パリ暮らしの松本弘子さんの2人が、ガラスのボウルに、なんと塩豆と、金平糖を山盛りにしてやってきて、「これ、おいしいわよ、いただかない?」っていうの。おどろいたね。食べるものはそれだけなんだ。ちょっとがっかりしたけど、ポイと一つ口に入れて、ポリポリやりながら、シャンパンをなめながら、お話ししていると、何だか、とっても楽しくなってきてね。そのとき、やっとわかったね。パーティーの主役は出てくる料理でも、お酒でもなく、そこにあつまった人たちのおしゃべりが主役なんだということが。

わたしたち、ずいぶんムダなことしてるんだよね。もてなしといったら、何が何でも、ありったけのものを出さずには気がすまない。とくに田舎は、ちょっとしたもてなしに、三日かかっても始末しきれないほど出てくるものね。森さんの塩豆と金平糖はそういう意味で、忘れられないうれしいもてなしだったなあ。

お茶、おかわりしましょうか。金平糖、もう一つどう?じつはこれ、きのうの日曜学校のおやつのあまりなの。うちでやってる日曜学校には、おやつの時間があるんです。おつとめと、おはなしや紙芝居の間に、おやつを出すんだけど、その時に、この金平糖を2個ずつ出したの。「なーんだ、これっぽっちか」って、こどもたち最初はバカにしたけど、そこでひとことお説教したの。おい、きみたち、たったこれっぽっちとバカにするけど、この金平糖1個をだれが作ったか知ってるか?「お菓子屋さん!」ホー、お菓子屋さんが作ったのか。じゃあ材料は?「お砂糖!」それはどこでだれが作った?そしてこれをつくる機械はだれがつくった?…こなると、もうたいへん。たった1個の金平糖に何千人、何万人という人たちが汗水流しているんだ。そういう人たちのおかげで、いまようやく、わたしたちの口の中を甘くとろかしてくれるんだ。こどもたち、ようやくわかってね。合掌して、よろこんでたべたよ。そして、あとで「おいしかったね」といい合っている。ものの味というものは、お金じゃないんだよね。それに一緒に食べると、おいしさが何倍にもなるんだよね。奥さん、あなたもおひとついかが?


雪山隆弘
昭和15年生まれ。大阪・高槻市の利井常見寺の次男として生まれ、幼い時から演劇に熱中。昭和38年早稲田大学文学部演劇専修を卒業後、転じてサンケイ新聞の記者、夕刊フジの創刊メンバーに加わりジャーナリスト生活10年。されに転じて、昭和48年に僧侶(浄土真宗本願寺派)の資格を取得し翌年行信教校に学び、続いて伝道院。同年より本願寺布教使として教化活動に専念する。善巧寺では、児童劇団「雪ん子劇団」をはじめ永六輔氏を招いての「野休み落語会」など文化活動を積極的に行う。平成2年門徒会館・鐘楼建設、同年往生。

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