寺報巻頭」カテゴリーアーカイブ

洗面器の底のさくらの絵/森正隆

私は善巧寺様の若院さんでした、故雪山隆弘氏の実父興弘氏の従兄弟に当る者でして、興弘氏の母親が姉、私の母が妹の関係。こう申せば、少しは輪郭が浮かんで来ましたかナ。故興弘氏は従兄弟頭(いとこがしら)で、私が一番末で十五歳違い。若院さんは昭和十五年生で私より十五若く、私を呼ぶのに、オッチャンと呼ぶか、兄ちゃんと呼ぶか、その時次第でした。

昭和十七年春、私は龍谷大予科へ入学、父の薦めで一年間、既に厳しい寮生活を送りました。一年を無事に終え、サテこれからどうするかと、思索していました処へ、ヨスミの常見寺の叔父から電話がかかり、その内容とは、ウチの息子三人とも召集で駆り出され、皆外地や。寺は無人なので、あんたとこの息子を、用心棒代りに、ウチから学校に通わせたらどないや……?と。

本人には何の相談もなく、両者は一瞬で了解したとか。その春、私は行李担いで先ずはご挨拶に参上です。“今日からお世話になります。どうぞよろしゅうに。”

常見寺には、可愛い目玉のヤンチャ小僧が二人で、兄貴の明弘は八歳で、弟の隆弘は四歳位でしたかナ。実は、ここで、世にも不思議なことに出会うたんですナ。叔父は新参の私のために、洗面器を新調してくれました。翌朝、まっ白な洗面器のぞいたらその底に、一本の桜の小枝が画かれ、余白には

散る桜 残る桜も 散る桜

の一句が添えてあったのです。私はこれで洗面すること一年半、海軍へ入隊、外地へ出たんです。

時は流れて四十余年、平成二年の秋頃でしたか、若院さんの遺稿集の扉で、この画と句を見た途端に、五十年昔の常見寺の井戸端が目に浮かび、思わず絶句!!

(寺報105号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

善巧方便/騰瑞夢

不思議な因縁によりて人間として生まれてきて、我執煩悩に執われて、生死や老病や愛憎や損得にかかずらって、いたずらに苦悩しつつ、地獄に沈みつつある身でありながら、そのことを知らず、大きな夢を見ているようにただのほほんと暮らしている、悲しむべき存在である我等に、いつからとも知らぬ間に、その悲しさ恐ろしさの実態を知らしめて、その苦しみを抜き薬を与えようとされる大きな悲しみがありました。その大悲心が念仏の願いとなって我等に与えられているのであります。

わが名号をとなうる者をば
極楽へむかえとる

と誓われている念仏往生の大誓願でありました。我等は今日この仏の誓願に信順して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏している身に、仏はその功徳の宝をひっさげて、法性一如の世界から来生して下され、我等が身に滲み込んで、この煩悩の身を転じて菩提の身に育てあげ、娑婆の世界から浄土の世界に転身せしめつつあるのが、南無阿弥陀仏の願力の功徳なんです。

しかも人と生まれて誰でも「父さん、母さん」と親の名を呼びながら、その親に育てられてきたように、ただ口に南無阿弥陀仏〱と仏さまの名を呼ぶだけの、た易い行業によって、仏にして下さるなんて、誰も信ぜられんことでありますのに、仏さまのお計らいによって、仏に仕上げて下さっているなんて、そんなこと全く知りませなんだ、それが他力不思議ということよと聞かされて、それはそれは何と仏さまの善くも巧みなお手段(てだて・方便)をいただいているものよと目覚めて、何と何とうれしや願力(南無阿弥陀仏)さま、あら有難や阿弥陀さまよと仰ぐばかり尊とむばかり。

(寺報104号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
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前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

抜けるような青空のもと/山本摂叡

コンピューターを開くと伊勢にいる兄からメールが入っていた。「悲報」と題してある。「抜けるような青空のもと、猫が死んでしもうた」と書かれてあった。ペットを飼っていると、ある意味、家族以上の愛着がわいてくるものである。家にもいま、ともに九年を過ごした柴犬がいる。

九年という歳月は大きい。父はこの犬を知らない。当時中学一年だった男の子は、もう大学生である。この子にせがまれて、迎えた犬であった。二人で犬を抱いて帰った日のことは、鮮明に覚えている。感情にまかせて怒ってしまうことも、しばしば。何を怒られているのか解らず、悲しい目をしている。悪いことをしたといつも反省する。犬や猫は、死を恐れることがない。また、生に迷うこともない。「ある意味、人間より偉いのかもしれない」そんなことを書いて、返事しておいた。

横川法語の「身はいやしくとも畜生におとらんや」というのは、単純に犬猫より人間がすぐれているということを言ったものだろうか。仏法にあうということを離れて、この言葉を理解してはならない。我々がいう「優れている」「劣っている」という評価は、つきつめると自分中心の虚妄の判断でしかない。

猫は、一週間ほど獣医に見てもらい、最後は病院で息を引き取ったという。心臓も、腎臓も悪かった、糖尿病であったという。そんな人間の小賢しい判断とは別に、おそらく、猫は超然と死んでいったことであろう。

「荼毘所ではにわか坊さんの職員が、般若心経をあげてくれた。本来笑うべき光景かもしれないが、スギ花粉が眼にしみた」とメールは結ばれてあった。

(寺報103号)

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香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
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篤く三宝に敬え/天岸浄圓

「安らかなれ」との期待を背負ってスタートした新世紀は、世界的な混迷のなかでその初年を閉じた。長びく争乱の序曲か・・・。今、一人ひとりが自らの生き方の再確認を迫られているのではなかろうか。

親鸞聖人が「倭国の教主」と仰がれた聖徳太子は「十七条憲法」の冒頭に「和をもって貴となす」と述べられた。「和国」の響きに太子の切なる願いが感ぜられる。その和を実現する道を「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり・・・三宝に帰りまつらずは、何をもってまがれるを直さん」と示されている。

永遠の真理を覚られた仏陀(ブッダ)、その仏陀が人びとを導かれる教法(ダルマ)、その教法に依り自らの人生をもって、教えの真実なるを証しせんとする修行者の和やかな集いである僧伽(サンガ)、これらを三宝といい、これを宝と仰ぐ者を仏教徒という。

宝とは、元来それを持つ者に安らかな幸せをもたらすもののことである。もし、それをみぐって争いや憎しみが生ずるならば、それは宝と名づくべきものではない。私たちは何を宝としているだろうか。多くは宝といえないものを宝と誤って、かえって真の宝を見失っているのではないだろうか。

また、「帰依(きえ)」とは、脆弱な依存主義でなく、人間の最も尊厳な生き方をあらわす言葉というべきである。何故なら、我執に対して無批判に生きようとする人間が、自らを超えた真実を価値判断の基準として思考し、行動し、発言することである。そこには厳しさの中に生じる、崇高な喜びと深い慚愧がある。それが人をして輝かしめてゆくからである。

寺報102号(平成14年1月1日)

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不自由ということ 不幸ということ/高務哲量

不自由ということと不幸であることは意味が全く異なりますね。不自由を望む人はいないでしょうし不幸を願う人もないでしょう。だからといって、不自由と不幸は同じかというと、そうではないはずです。

私事ですが、私の父は晩年失明し、眼の不自由を抱えてその生涯を終えました。眼の不自由は隠しようのない事実ではありましたが、不幸であったかというと話は別です。こんなことがありました。

ご門徒の法事に出かけた折、お斎(おとき)の席で隣に座られた、元校長であったという親戚の方がこんな質問をされました。

「お見受けした所大分眼がお悪いようですね」

「はい、今ではほとんど見えません」

「そうですか。それはご不自由なことですね。でもあなたはお坊さんなのだから、信仰の力でそれは何とかなりませんか?」

校長まで勤め上げられた教養人であるはずのこの方の質問の意図が、どこにあるのか明らかです。信仰の力でその不自由な眼が自由に見えるようになってこそ信仰のご利益であり、それが宗教のすくいなのではないかということでしょう。しばらく考えて父はこう問い返したそうです。

「わたしは不幸な人間に見えますか」

「いや、目はご不自由なようですが、不幸を背負ったような暗さは感じられませんね」

「あなたにそういっていただけたのなら、もう何とかなっているんですよ」

不自由であっても、不幸ではありませんと言い切れる世界を頂いていればこそでしょう。お念仏は逃れがたい厳しい事実の中に、意味と喜びを見出す智慧のはたらきとなって、私の上に躍動していてくださいます。

(寺報99号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
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「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
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雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
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永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
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非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
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生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

お念仏の世界観/高田慈昭

十七世紀の天才的数学者ニュートンが、木の枝からおちるリンゴをみて万有引力の法則を発見した。中学校で習った微分積分という数理も彼が解明したという。そんな大科学者が熱心なキリスト教信者だったというが、どうして神や天国の存在を信じていたのだろうか。彼はいう。こんな法則ではたらく宇宙を創ったのが神である。私は宇宙をつくった神の秩序の中で科学研究しているのだと。

なるほどそういえば、現在でも西洋のすぐれた科学者のクリスチャンがいるが同じ思いで科学されていることを聞いたことがある。それを思うと、私共仏法者もまた、仏さまのさとられた法=無我縁起の法則の中で人生生活をいとなんでいるのである。如来の本願大悲の中で日々の人生のいとなみがあることを味わうのである。

六連島(むつれじま)の妙好人、お軽(かる)さんのうたに、

鮎は瀬に住む
小鳥は森に住む
わたしゃ 六字の うちに住む

このうたを最近とくに有難く味わわれてならない。この私はどこに住んでいても、どんな境遇の中に日ぐらししていても、いつも如来さまのお六字の中に、本願のお慈悲の中に住んでいるのである。

わたしの人生生活のいとなみはいつも如来の智慧慈悲の法の中にある。如来大悲のお念仏の中に人生のすべてのいとなみ、政治も経済も化学も教育も文芸も労働も、如来の本願の法の中でのいとなみである。そこに念仏の世界観が存するのであろう。

(寺報101号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
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報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
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不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
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季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

非常の言/高田慈昭

ロケットにのって地球をながめた宇宙飛行士が、ニューヨークとオーストラリアが同時にみえたといっています。それは地球上に住む私たちには到底みられる光景ではありません。常識をこえた次元というべきでありましょう。

私たちは丸い地球に住みながら、丸い地球を絶対みることができません。しかし、ロケットにのって地球の外へでて、無限の宇宙の世界からみると丸い地球をみることができ、地球の裏表がみられるのです。それは地球上の視点による次元とは異なる宇宙からの視点による常識をこえた次元であるといわねばなりません。

仏陀のみ教えは、このような宇宙的な次元から人生をとらえ、私たちのいのちをみつめているというべきでしょう。

非常の言は、常人の耳に入らず(論註)

ということばがありますが、仏法は常識の次元、すなわち政治、経済、科学技術等の文明をこえた出世間の世界をみているのです。したがって、常識の世界だけに浸っている者には、非常のことば(仏陀の教言)は耳に入りにくいのです。

私たちは、生死といえば此の世に生まれて五十年、百年の生涯をおくって死んでいく存在だけをみていますが、それは地球上だけの視点と同じようです。しかし、もっと広い視野、宇宙的視点からみれば、生まれるまでに無限の過去からの生と死をくりかえしてきたのです。そして人間の生涯を終えてもまた無限の未来に生死をくりかえていくいのちなのです。つまり、過去、現在、未来の三世の生死の流転のなかに存在する今のいのちなのです。救いとはこの生死流転が破られ、浄土への道を今あたえられる身になったことです。

(寺報98号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

報恩講/若林眞人

何年前のことだったでしょうか。新聞の投書欄に目をやると「おとりこし」というテーマが目に入りました。三十代の女性の投書だったと思います。記憶を頼りに要約すると、次のような内容でした。

私の故郷の北陸では毎年「おとりこし」という仏事が行われます。近隣の方々や親戚など、それに嫁いだ娘たちも里帰りをしてお仏間に集うのです。皆がいっしょになって「しょうしんげ」というお勤めをします。

私は記事を読みながら思わず「うんうん」と頷きました。投書は続きます。

「おとりこし」は「ほんこさん」とも言います。

私はまた「そうそう」と頷きました。ところが投書の最後には、

おとりこしとは、ご先祖のお祭りなのです。

私の頭はガーンと鳴りました。親鸞聖人のことが忘れられてしまったのです。
永仁二年(一二九四)親鸞聖人三十三回忌の折、二十五歳の覚如上人は親鸞聖人の遺徳を讃えられて『報恩講私記』という書物を書かれました。この時から親鸞聖人のお仏事を「報恩講」と言うようになったのです。また、一般の寺院やご門徒のご家庭ではご正忌に先立ってお勤めをするから「お取り越し」とも申すのです。

親鸞聖人を浄土真宗の開祖と仰ぐ歴史は覚如上人によって始まったと言っても過言ではありません。覚如上人のご一生は親鸞聖人のご一流を護り抜くことに貫かれたものでした。

今年は第三代覚如上人の六百五十回忌に当たります。何とぞ報恩講をお勤めなさる折には、覚如上人のご苦労も心に留めて頂きたいのです。報恩講は覚如上人によって始まったのですから。

(寺報97号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

必ず煩悩の氷とけ/藤澤信照

最近、大平光代さんの「だからあなたも生き抜いて」という本を読みました。
著者は中学二年の時に、いじめを苦にして自殺を図り、その後、非行に走って、十六歳の時には極道の妻となり、背中に刺青を入れてまで、その世界で生きていこうとします。しかし、結局そこでも自分の生きる場所が見つからず、離婚してスナックで勤めることになります。

どん底まで落ちた彼女の人生に光が差すときがやって来ました。それは後に養父となる大平浩三郎さんとの出会いでした。それからの彼女の努力は並大抵のものではありません。なにしろ、中卒の身ながら司法試験に一発合格という快挙をやってのけるのですから。しかし、その努力は、どんな時でも優しく包んでくれたお祖母ちゃん、それから大平さんはじめ、たくさんの人たちの温かい心に支えられてのものだったのです。

無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる

と親鸞聖人は『高僧和讃』に示されています。温かい心が通わなければ、人の心は凍ってしまいます。しかし、凍った心が溶けさえすれば、素晴らしい悟りの水となることを見抜かれた阿弥陀さまは、私たちをお慈悲の心で温かく包んでくださるのです。

人は皆、お慈悲の温もりに触れたとき、どんな状況の中でも、喜びと感謝の心を持ちながら、力強く生き抜いていくことができるということを、大平さんの本を読みながら、深く心にかみしめさせてもらいました。

(寺報96号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

永遠のとき/高務哲量

昨年十二月、十九年ぶりにインド仏跡参拝の旅に出させていただいた。今度の旅の目玉のひとつが、アジャンタ・エローラの石窟寺院群の訪問である。ボンベイから内陸部に入った都市オウランガバード郊外にそれはある。岩山をくりぬいて作られた石窟寺院の数々。ことに圧巻はエローラのカイラーサナータ寺院である。岩山をノミと金槌だけで削りだして作られたまったく継ぎ目のない一つの彫刻ともいうべき建築物である。その大きさたるや、奥行き八十一㍍、幅四十七㍍、高さ三十三㍍、というとてつもないもの。屋上・内外壁などに精緻な装飾をほどこしてある。これが岩山を削りだして作られているのである。八世紀半ばに着手し百年以上の歳月を経て完成したもの。七世代にわたる職人の手になるという。こうした建造物を目の当たりにしたとき、この世がすべて、人間は死んだら終いという考え方がいかにちっぽけなものであるかと感じずにはいられない。少なくとも、永遠の時というものを事実として受け入られる人のみが携わられる事業であろう。

法蔵菩薩の五劫の思惟の説。四十里四方の大岩を、三年に一遍天女が羽衣でひと撫でし、その繰り返しのはてに、大岩が磨り減って無くなってしまうに要する時間を一劫とし、その五倍の時間をかけて私を救い遂げる方策を思惟されたと無量寿経は説く。そんな大岩があるはずがないとインドでは通用しない。デカン高原自体が大きな溶岩台地の岩山なのだから。

釈尊が歩きになった同じ台地に立たせていただき、無量寿という桁外れにスケールの大きい「時空」というものをインドは感じさせてくれた。

(寺報95号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)