ご文章について/梯實圓

蓮如上人といえばすぐに連想するのが「ご文章」ですが、上人がはじめて浄土真宗のご法義を伝えるために、信者にあてたお手紙の形式の「ご文章」をお書きになったのは寛正2年(1461)、47歳のときでした。宛先は近江国(滋賀県)の金ケ森に住んでいた道西であったといわれています。

この年は、上人が本願寺第八代の宗主となられてから4年目でしたが、ちょうど宗祖親鸞聖人の200回忌にあたっていました。このときの「ご文章」は、「お筆初めのご文章」とよばれていますが、浄土真宗の教えの中核である信心正因、称名報恩のいわれが、まことにやさしく説き示されていました。

このようにお手紙をもって信者にご法義を伝えたり、あるいは異端邪説を批判したり、あるいは念仏の行者の日常生活を指導されたのは、遠くさかのぼればすでに法然聖人のうえにも見られましたが、とくに親鸞聖人には晩年、関東の門弟たちにあてられた多くのお手紙があります。おそらく蓮如上人はこうした両聖人の先例にならわれたのでしょうが、現在確認されているものだけで250余通にのぼる「ご文章」が残されています。

とくに越前の吉崎御坊にご滞在中のものがおびただしい数に上がっています。それは文明3年(1471)から、文明7年にいたる4年間で、上人の57歳から61歳のときでした。実は本願寺教団の勢力は、この4年間に爆発的な進展をとげ、それまでは見るかげもない弱小教団であった本願寺が、北陸一円から日本全土にひろまっていったときだったのです。

「ご文章」は、そのときいわば蓮如上人の分身となって、在々所々の僧侶や門徒に語りかけ、信仰と生活を指導するという役割をはたしていったのでした。年月はへだたっていますが、「ご文章」を聞くことは、じかに上人のご教化にあわせていただいているのだということを忘れてはなりません。

寺報71号(平成6年4月1日)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)