仏法を主(あるじ)とする/梯實圓

蓮如上人に、「仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよ」という法語があります。上人の生き方の基本を述べられたものです。

仏法とは、釈尊のみ教えにしたがって、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏もうしつつ、愛欲も怨憎も超えた安らかな涅槃の浄土をめざす生き方のことです。それに引きかえ世間とは、名誉欲と財産欲に振り回されながら生きる世俗の生き方のことです。つまり煩悩が支配する私どもの日常を世間というのです。

蓮如上人は、このような仏法と世間とに主客を立てられたわけです。仏法を主人とし、世間を客人とするということは、仏法、すなわち如来のみ教えを基準として世間を生きようとすることです。それは世俗の日常生活を、念仏の縁として生きることであるともいえましょうし、この世を仏法の真実を確かめる道場とみなして生きることであるともいえましょう。それは念仏のなかで営まれる生活を意味していました。

反対に世間を主人とし、仏法を客人とみなすような生き方とは、この世をうまく生きるための手段として仏法を利用しようとするものです。仏法を主とし、世間を客とみなす生き方は、世間を仏法化していきますが、世間を主とし、仏法を客とするような生き方は仏法を世俗化してしまいます。世俗化した仏法には、もはや人を救う力はありません。

浄土真宗は在家仏教であるといわれます。たしかに親鸞聖人も蓮如上人も家族をもった在家的な生活をされていました。その意味で在家仏教といえましょう。しかしそれは、決して仏教を世俗化するものではありませんでした。むしろ世俗の生活に仏道としての意味をもたせていく仏教であったというべきでしょう。それが親鸞聖人の「非僧非俗(ひそうひぞく)」という言葉のもつ意味でもありました。

寺報90号(平成11年1月1日)

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