「阿弥陀経」に、お釈迦さまは、阿弥陀さまの尊さを讃えんとして、お弟子の舎利弗尊者にこのように問われました。「舎利弗よ、どう思うか。なに故に彼の極楽世界の仏さまが、阿弥陀、と名のられたかを」と。問いつつ、自ら答えられます。
舎利弗よ、彼の仏さまの光明は無量であって、十方の世界を照らしたもうに、いかなるものをも碍りとせず、いきとしいけるすべての人々に光りをとどけてゆかれる仏さまなのだ。故に、阿弥陀(無量光仏)と名のられたのだ
一般に無量光の名は、仏さまご自身の、量り知れないさとりの徳をあらわす名のりでありました。ところが「阿弥陀経」には、仏さまは、自身の光りを十方にあまねかせて、暗闇に生きる人々を碍りなく照らし、光りを共にするといわれたのです。すなわち、「無量光仏」とは、無量の人々と共に輝こうとされる仏さまだったのです。人々が光り輝くことがなければ、自分も輝くことはないといわれたのです。たとえば、親子の間で、親だけがいくら幸せになっても、子どもが不幸な生活を送っているようならば、親は決して自分一人で幸せを感じることができないのと同じです。
そして、この仏さまは、南無阿弥陀仏のお念仏となって無量光を実現されます。お念仏となって人々の人生の一こま一こまにとどき、老いのなかに、病のなかに、そして死までをも「闇」とせず、「苦」とさせないとはたらかれるのでした。だから老いのなかに光りが、病の上にも光りが、そして死までに光りがとどきます。生・老・病・死がむなしく終わらないのです。
生・老・病・死は無くなりませんが、その一々が、仏さまの光りを味わう場となれば、生・死は決して不幸ではなく、まさに輝く仏道と転ぜられます。念仏申すことは、阿弥陀さまがお念仏となられて、私の人生をご自分の生き場とされていることであり、私はお念仏によって、仏さまの光りをうけて輝いてゆきます。お念仏を通して、仏さまと私が共々にとけあった世界が開かれてゆきます。
寺報76号(平成7年7月1日)
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