篤く三宝に敬え/天岸浄圓

「安らかなれ」との期待を背負ってスタートした新世紀は、世界的な混迷のなかでその初年を閉じた。長びく争乱の序曲か・・・。今、一人ひとりが自らの生き方の再確認を迫られているのではなかろうか。

親鸞聖人が「倭国の教主」と仰がれた聖徳太子は「十七条憲法」の冒頭に「和をもって貴となす」と述べられた。「和国」の響きに太子の切なる願いが感ぜられる。その和を実現する道を「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり・・・三宝に帰りまつらずは、何をもってまがれるを直さん」と示されている。

永遠の真理を覚られた仏陀(ブッダ)、その仏陀が人びとを導かれる教法(ダルマ)、その教法に依り自らの人生をもって、教えの真実なるを証しせんとする修行者の和やかな集いである僧伽(サンガ)、これらを三宝といい、これを宝と仰ぐ者を仏教徒という。

宝とは、元来それを持つ者に安らかな幸せをもたらすもののことである。もし、それをみぐって争いや憎しみが生ずるならば、それは宝と名づくべきものではない。私たちは何を宝としているだろうか。多くは宝といえないものを宝と誤って、かえって真の宝を見失っているのではないだろうか。

また、「帰依(きえ)」とは、脆弱な依存主義でなく、人間の最も尊厳な生き方をあらわす言葉というべきである。何故なら、我執に対して無批判に生きようとする人間が、自らを超えた真実を価値判断の基準として思考し、行動し、発言することである。そこには厳しさの中に生じる、崇高な喜びと深い慚愧がある。それが人をして輝かしめてゆくからである。

寺報102号(平成14年1月1日)

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