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横超のおしえ/高田慈昭

親鸞聖人は他力真宗の教えを横超のおしえとしめされました。横超とは、阿弥陀如来の本願力によって横ざまに生死の大海を超え、すみやかに浄土のさとりへいたるというみ教えです。

城端町出身の横道善蔵さんは、ながく大阪や西宮で浴場を営む有難い念仏者でした。ある時、「あんたの名前は横道という変な名前ですな。でも仏法に遇えて人生の横道にはいらずよかったですね」というと、

わたしの横道はそんなつまらぬ名前ではない。横超の直道をあらわす尊い名前じゃ。ついでにいうが善蔵の名も善をつめば金の蔵がたったという俗っぽい意味ではないぞ。私のいのちは、如来さまからいただいた南無阿弥陀仏の善根功徳がおさまって(蔵)いるという意味じゃ。


教行信証をくりかえし読まれた人だけって味わいがふるっています。
スイスのブゾンサンさんは仏蔵を彫刻する真宗僧侶です。彼はいう。

フランス革命以後、ヨーロッパではだんだん宗教が弱まっていって、現在の若い人は、どこに自分の思想、自分の精神の依りどころを探してよいか模索している状態なんです。

私もそんな状態の中でいろんな宗教を見て今のヨーロッパに一番適した宗教として見出したのが浄土真宗です。今のヨーロッパ全体がその状態に適した教義を「横超」の中に見出すことができます。

二十一世紀は親鸞聖人のみ教えがヨーロッパにひろまる気配がたしかに感じられます。本家の日本人私どもこそ一層誇りを持って聞法につとめ味わいをふかめたく思います。

(寺報94号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

香積寺のことなど/山本攝

この八月、十二日間かけてシルクロード各地を回ってきた最後に、西安に二泊した。その折、善導大師ゆかりの香積寺(こうしゃくじ)を訪ねることができた。これは大師没後の神龍二年(七〇六年)、その遺徳を偲んで建てられたもので、三十三メートル十二層の塔だけは、創建当時のものであるという。さまざまな事情で訪れたのは五時を回っていたが、日はまだ高い。

ナーモアミダブ
ナーモアミダブ…。

奥の部屋から念仏の声が聞こえてきたのは思いがけない出来事であった。単調な旋律に乗って、素朴な、懐かしいような律動にそれはくり返している。そっと部屋をのぞくと、十数人の男女が、壁に向かって座ったまま唱和している。それは始めて聞く者でも唱和できるような、いやむしろそれを誘うかのようななつかしい旋律である。実際、同行の何人かが、小さな声でそれに合わせて念仏しているのは、不思議な光景であった。

今現在、彼の地で行われている念仏がどのような内容のものであるのか、おそらく私たちの教えとは大きな隔たりがあるにちがいない。それにしても、生きた念仏の声を聞くとは、予想もしない出来事であった。

念仏の 涼風吹くや 香積寺

帰り際、軒先で年老いた猫が昼寝しているのを、そっと近づいて私は写真に収めておいた。

(寺報93号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
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住持/高田慈昭(寺報85号)
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かがやき/山本攝(寺報88号)
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横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
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必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
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不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

生死出づべき道/高田慈昭

人間の欲や願いはかぎりありません。けれども、いのちにはかぎりがあり、知識がゆたかであっても、財力や権力がどんなにあっても、老病死や愛憎の苦悩を解決することはできません。欲望がみたされて一時的な快楽がえられたとしても長つづきするものではなく、むしろ欲望があるために苦悩をうみ争いを生じるものなのです。このような現実の人生を、すなおな眼ざしでみつめることが大切であって、それには、現実の人生を高くこえはなれた立場から、人生を見直してみるということが要求されます。

たとえば、宇宙飛行士がロケットで地球の外へでて、宇宙から地球をながめると、円い地球の表裏がみえ、ニューヨークとオーストラリアが同時にみることができると語っています。つまり、この地上では決して経験することができない次元がひろがってくるわけです。私どもは、円い地球に住みながら円い地球をみることができません。まして地球のうらおもてがみえるはずもありません。つまり、地球上の視点と宇宙からみる視点とは次元がちがうのです。私どもの常識をこえた次元が存在することをあらわしています。

仏陀の教えは、そのように人生をこえた立場から人生を見直していくところにあるというべきでしょう。後生の一大事、生死出づべき道とは、常識的な50年100年の生命だけでなく、過去現在未来の三世の生死の迷いから解きはなたれた永遠の浄土のさとりへいたる道を阿弥陀如来の本願力によって救われていくことなのであります。

(寺報91号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

仏法を主(あるじ)とする/梯實圓

蓮如上人に、「仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよ」という法語があります。上人の生き方の基本を述べられたものです。

仏法とは、釈尊のみ教えにしたがって、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏もうしつつ、愛欲も怨憎も超えた安らかな涅槃の浄土をめざす生き方のことです。それに引きかえ世間とは、名誉欲と財産欲に振り回されながら生きる世俗の生き方のことです。つまり煩悩が支配する私どもの日常を世間というのです。

蓮如上人は、このような仏法と世間とに主客を立てられたわけです。仏法を主人とし、世間を客人とするということは、仏法、すなわち如来のみ教えを基準として世間を生きようとすることです。それは世俗の日常生活を、念仏の縁として生きることであるともいえましょうし、この世を仏法の真実を確かめる道場とみなして生きることであるともいえましょう。それは念仏のなかで営まれる生活を意味していました。

反対に世間を主人とし、仏法を客人とみなすような生き方とは、この世をうまく生きるための手段として仏法を利用しようとするものです。仏法を主とし、世間を客とみなす生き方は、世間を仏法化していきますが、世間を主とし、仏法を客とするような生き方は仏法を世俗化してしまいます。世俗化した仏法には、もはや人を救う力はありません。

浄土真宗は在家仏教であるといわれます。たしかに親鸞聖人も蓮如上人も家族をもった在家的な生活をされていました。その意味で在家仏教といえましょう。しかしそれは、決して仏教を世俗化するものではありませんでした。むしろ世俗の生活に仏道としての意味をもたせていく仏教であったというべきでしょう。それが親鸞聖人の「非僧非俗(ひそうひぞく)」という言葉のもつ意味でもありました。

寺報90号(平成11年1月1日)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
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「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
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一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
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住持/高田慈昭(寺報85号)
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かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

無量寿のいのち/藤沢信照

いじめによる少年少女の自殺や殺人事件など、悲しい出来事が起きるたびに、「命の重さ」を真剣に考えようと盛んに叫ばれます。そんな時、「たった一つの命だから」とか「一度きりの人生だから」とよく言われるのですが、私はそれだけでは、計り知れない「命の重さ」を知ることはできないのではないかと思うのです。というのも、私の命は、私を取り巻く過去・現在・未来の無数の命に支えられてこそ存在し得る、ということを仏教では教えているからです。

親鸞聖人は、その過去・現在・未来の無量の命に満ち満ちて、今ここに生きる私を支えてくださるもの、それが阿弥陀さまの「無量寿(むりょうじゅ)のいのち」なのだとお示しです。「正像末和讃」に、

超世無上に摂取し
選択五劫思惟して
光明・寿命の誓願を
大悲の本としたまへり

とあるように、阿弥陀さまの大悲の根本は、「光明無量、寿命無量の仏になろう」との願いにありました。その願いのとおり、過去・現在・未来を貫いて、数限りない命に宿り、迷いの根本である我執の殻を破ろうと、「南無阿弥陀仏」の声となってはたらき続けてくださる仏さま。その仏さまの声が、ようやく今、私の心の耳に届いて、私の我執の殻が破られるのです。東井義雄先生は、そのことを

死にながら、死なないで生き続けるいのち
自らも生き、他を生かし続けるいのち

すなわち「無量寿のいのち」をもらうということだとおっしゃいます。こうして「無量寿のいのち」をたまわり、おかげさまで、今ここに、かけがえのない、ただ一度きりの命を生きることができますという感謝の心にこそ、計り知れない「命の重さ」を実感できるのだと思います。

(寺報89号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
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永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
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抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
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夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
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あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

あなたの往生は間違いないか/利井明弘

いよいよと云うか、とうとうと云うか、今年は蓮如上人の500回忌のご遠忌がきてしまった。善巧寺にも新しい住職が誕生して、これから住職門信徒共に力を合わせて、善巧寺を本物の聞法の道場にする決意が必要である。

近頃はお寺参りの人が少なくなったと云ったら、友人の歯医者が、「寺に参らなくても、痛くも痒くもないからなぁ」と云った。歯医者には痛くなると夜中でも患者が飛び込んでくるというのである。現代人には、こころの痛みはないのだろうか。新興宗教の現世利益を求める人たちは、後世はどうするのだろう。

阿弥陀さまは、私のことを罪悪深重の凡夫と診断して下さり、放っておくと必ず地獄に堕ちると云われている。身内の不幸に遭った人が、弔問客にこう云っているのを聞いた人は多いだろう。「生前はお世話になりました」生前とは何時のことだろう。生まれる前は少しおかしくないだろうか。死ぬ前はお世話になりました、と云うのなら判るのだが。実は、この言葉は「往生する前」という意味なのである。だから、お浄土に往生された人にはこの言葉は使えるが、死んだ後の往く先が判らない人には、適当な言葉ではないのである。蓮如上人は「ご文章」80通の中に、今生のことより後生は解決しているのかと、42回も後生の一大事について、繰り返し、繰り返し説かれている。

さて、貴方の往生は間違いないと云いきれるか。今年を機に、新住職と共に、命がけで聴聞して頂きたい。

(寺報86号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

かがやき/山本攝

「産経抄」を書いておられる名コラムニストの石井英夫さんが、ある雑誌に「蛙の遠めがね」という題の随筆を連載されている。最近この欄に「二つの歌集」と題して印象深い内容の歌が紹介されていた。その一つが東京都青梅市にある特別養護老人ホーム九十九園の老人たちがうたった作品を集めた「九十九園歌集」である。

「激動の時代を生きてきた人びとのたくましい生命力と、物事の的を射ぬくするどい眼力に感嘆しないではいられない。」と前置きして、いくつかの作品を紹介されている。

三河島四丁目に46年住んだ
主人は植木屋 私は駄菓子屋をした
働きぬいてここまで私はやってきたけれど
針めどが通らなくてとてもくやしい
青木きく 94歳

「針めど」は俗にいう針の耳、針の穴のこと。何も説明はいらない。名前と年齢、そして作品をじっくり見るだけで充分である。老人は、場所と手段さえ手に入れば、驚くほど新鮮で豊かなことばの語り手なのだということがわかる。次は、好きな作品のひとつである。

夏が来た鎌倉の海 おもひ出す
波打ちぎわで 桜貝ひろった
猿丸こま 78歳

仮に私が78歳になった時、一首に凝縮すべき人生の一こまは何なのであろうか。人生の光りと影はだれにもある。だが、その影の部分までも含めて、不断にかがやきあらしめんと働きつづけてある世界、それを宗祖は、「仏智の不思議」と仰せられた。

(寺報88号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

生死の帰依処/騰瑞夢

私達は知らぬ間に人間としてこの世に生まれ、いや応なしに死んでゆく身を与えられて、そかもそれをわが生命(いのち)と執じて、思いのままにならないと、たよりのない不安におののく生活をしているのではありませんか。

その当てたよりにならぬ、よるべなき不安の私達に依り処を与え、支えになろうとするのが阿弥陀仏の浄土であります。だから浄土は私達の生の依る所、死の帰する処であるといわねばなりません。

しかし一般には浄土とは死んでから授けられる所としか心得ていない人が多いようですが、そうではありません。私達の生きていくのに大いなる力となり、たよりとなって下さるのが浄土なのであって、生きている内に大いなる仏力を得させて、浄土へ帰らしめ給うのが阿弥陀仏のお救いなのです。

お浄土は、私の知らぬ時から常に、「我が名を称えつつ帰り来れ」と呼びかけて下されているのです。それが南無阿弥陀仏の名声であります。この名声には、三世を徹(とお)して絶(た)ゆることなく(無量寿)、衆生を救けとける仏の生命力(智恵の光明)をこめて働きかけて下さる響きであります。

親鸞聖人は、帰命無量寿如来、南無不可思議光と、阿弥陀仏の勅命(おおせ)に帰依信順され、浄土からの願力に安住せられてあったのです。仏の勅命に相応(こたえ)して念仏していることは、智恵の光明の中に摂(おさ)められて、仏の生命(いのち)をわが生命(いのち)とたまわり、支えられつつ、浄土へ導かれ、帰らしめられている堂ちゅうにある身の喜びの声であったのです。

(寺報92号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

洗面器の底に・・・/森正隆

私は、雪山隆弘さんのお父上、利井興弘さんのイトコに当る。興弘さんはイトコの男仲間で最年長、私は最年少で、その差15歳。昭和18年3月のこと。興弘さんのお父上興隆さん(ヨスミのオッチャン)から電話がかかった。
「3人の息子が、皆召集で外地へ出てしまい、寺が淋しくなったんで、お前が用心棒にウチから龍大へ通うてくれんか・・・」
早速父親に相談したら、ウンともスンもない、行け!の一言、行季担いで常見寺へ出向き、両手ついて、
「ご厄介に相成ります」
ヒゲポンのオッチャンの笑顔が今も忘れられん。広い境内に、老住職夫婦、若坊守と男児2名、そのチビッコが隆弘少年3歳、まるでまるこめ味噌小僧?!そのとき、申さるるに、
「お前専用の洗面器を用意したぁるんで、明日からそれで顔を洗えよ!」
居候君、第一日目の朝、ピカピカの洗面器と対面。その底に一枝の桜が画かれてあって、それに一句、
 散る桜、残る桜も、散る桜
とあった。この古句との出合いはこんな風だった。折しも、国家総動員の真っ只中で、お国のために、この桜花の如く潔く散れと。切ない思いで、一年間このお世話になり、私も海軍予備学生で鹿島立ち旅順へ。

あれから時は流れ、歳は移って40余年、元気そのものだった隆弘君が体調をくずした頃、一冊の近著を送ってくれた。早速、表紙を繰ったところに、見覚えのある例の洗面器の一枝の花と古歌が描かれてあった。半世紀50年・・・、私の意識下で眠り続けていたマグマが、突如、天空目指して噴き上げるのを見た。

(寺報87号)

住持/高田慈昭

住職とは住持の職分ということで、このことばは天親菩薩の「浄土論」にでてくる「正覚阿弥陀 法王善住持」の文によっています。安楽浄土は阿弥陀仏の善力のためによく住持せられるという意味です。住持ということは、住の字は不異不滅(変わらない、滅びない)をあらわし、持の字は不散不失(念持して失わない)のこころです。

たとえば、不朽薬(ふきゅうやく)を種子に塗ると、水の中にあってもくさらず、火の中にあっても焼け焦がされない。また、住持という意味を、「黄鵠、子安を持てば、千齢かへりて起る」とあり、子安にたすけられた鶴が、子安の死後3年間その墓の上で彼を思って鳴きつづけ、鶴が死んでも子安はよみがえって千年の寿命をたもった、という中国の故事をもって曇鸞大師が説明されています。それは、鶴がいのちの恩人である子安を思う心のつよさを住持にたとえられたものでしょう。

寺の住職とは、ただ寺に住居しているという意味ではなく、仏法(本願念仏)を中心に、聞法の道場である寺院本堂を護持し、寺を支えられる御同朋御同行とともに、どのような世間の風雪にあっても、よく如来の教法を念持していくという尊くもきびしく、有り難い法職のことであります。

このたび、善巧寺の新発意さんが、学行を身につけて新しく住職の任を継職せられることはまことに慶賀にたえません。亡き前住さま、前々住さまも、安養の浄刹よりいかばかりかおよろこびのことでありましょう。どうか、前住、前々住二師のご苦労をしのび、また、はるかに空華先師の御遺調をついで寺門につくされんことを念じてやみません。

(寺報85号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)