無量光-共にかがやく-/天岸浄圓

「阿弥陀経」に、お釈迦さまは、阿弥陀さまの尊さを讃えんとして、お弟子の舎利弗尊者にこのように問われました。「舎利弗よ、どう思うか。なに故に彼の極楽世界の仏さまが、阿弥陀、と名のられたかを」と。問いつつ、自ら答えられます。

舎利弗よ、彼の仏さまの光明は無量であって、十方の世界を照らしたもうに、いかなるものをも碍りとせず、いきとしいけるすべての人々に光りをとどけてゆかれる仏さまなのだ。故に、阿弥陀(無量光仏)と名のられたのだ

一般に無量光の名は、仏さまご自身の、量り知れないさとりの徳をあらわす名のりでありました。ところが「阿弥陀経」には、仏さまは、自身の光りを十方にあまねかせて、暗闇に生きる人々を碍りなく照らし、光りを共にするといわれたのです。すなわち、「無量光仏」とは、無量の人々と共に輝こうとされる仏さまだったのです。人々が光り輝くことがなければ、自分も輝くことはないといわれたのです。たとえば、親子の間で、親だけがいくら幸せになっても、子どもが不幸な生活を送っているようならば、親は決して自分一人で幸せを感じることができないのと同じです。

そして、この仏さまは、南無阿弥陀仏のお念仏となって無量光を実現されます。お念仏となって人々の人生の一こま一こまにとどき、老いのなかに、病のなかに、そして死までをも「闇」とせず、「苦」とさせないとはたらかれるのでした。だから老いのなかに光りが、病の上にも光りが、そして死までに光りがとどきます。生・老・病・死がむなしく終わらないのです。

生・老・病・死は無くなりませんが、その一々が、仏さまの光りを味わう場となれば、生・死は決して不幸ではなく、まさに輝く仏道と転ぜられます。念仏申すことは、阿弥陀さまがお念仏となられて、私の人生をご自分の生き場とされていることであり、私はお念仏によって、仏さまの光りをうけて輝いてゆきます。お念仏を通して、仏さまと私が共々にとけあった世界が開かれてゆきます。

寺報76号(平成7年7月1日)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

ある救援活動/利井明弘

阪神大震災で、友人知人の寺の多くが被災した。消息を知りたくても、電話が通じない。名簿を見ながら、おちこち連絡してみた。そんな中に住職坊守も行信教校を卒業している兵庫区のお寺があった。毎年の彼岸会にご法話に行く寺で、あの大震災で丸焼けになった長田区の隣の区である。その寺に偶然のように電話が通じた。

「先生ですか、家族も寺も無事でした。わざわざお見舞い電話有難うございました」

住職の元気な声が耳に飛びこんできた。そして、彼の寺のすぐ近所のもう一人の知人の寺が全壊全焼したことを教えられた。彼の寺は無事だったが、檀家の人たちが、30人ほど彼の寺に避難しているということだった。突然電話の声がいつも明るい、坊守さんに代わった。

「先生、お見舞いの言葉だけではないでしょうね」

ギクッとした。ボランティアの活躍が報道されていたが、私は行っても却って邪魔になるだけだと思ってテレビを見ては、ひたすらお見舞い電話をかけていたのである。何か緊急に必要なものがあるのかと聞くと、水・下着・ウエットティッシュ・手袋・靴下・生鮮食料等々が必要だと云う。品物を揃えて、三日後に自動車の前に「救援物資搬送車」と赤字で書いた紙を張り、彼の寺に行くことにした。大阪を過ぎると、テレビで報道されていた被災地が生で目に飛び込んで来た。とてもここでは書けないような惨状であった。車で普通なら3、40分で行ける距離に6時間もかかった。車がギッシリと並んで大渋滞である。しかし、いくら時間がかかっても、SFのゴジラ映画の中に入ってしまったようで、目を見張るばかりだった。その時、私の心に沸いてきた気持ちを正直に言葉にすれば「観光ドライブ」である。6時間たっぷりイライラも退屈もしなかったのである。

目的の寺について、ダンボールの箱やポリバケツを運び下ろしながら、車の前に張っていた「救援物資搬送車」の紙をムシリ取った。私の車が走ったおかげで、避難所への「おにぎり」を運ぶ車はきっと遅れたことだろう。

(寺報75号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
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俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

「いのち」の風光/梯實圓

お釈迦さまの弟子のなかでも、とくに多くの人々から尊敬されていたのが十大弟子といわれる方々でした。その人たちはいずれも、智恵第一の舎利弗(しゃりほつ)、神通第一の摩訶目犍連(まかもっけんれん)、頭陀第一の摩訶迦葉(まかかしょう)、多聞第一の阿難(あなん)というふうに、みな第一という尊称をつけてよばれています。

舎利弗は仏弟子の中でも、智慧がとくにすぐれていたから智慧第一といい、摩訶目犍連は神通力(超能力)でもっともすぐれていたから神通第一とよばれ、摩訶迦葉は頭陀(厳格な生活態度)にかけてはその右に出るものがいなかったから、頭陀第一というのです。また阿難は、いつもお釈迦さまのおそば近くにつかえ、お説きになった教えを細大もらさず記憶していたので多聞第一とたたえられたのです。

このようにお弟子の一人一人が1番であったということは、お釈迦さまの教育方針が、みんなを同じ規格にはめて、割一的な人間を育てようとされなかった証拠です。粘土細工のように人間を規格どおりに造りかえることなどできませんし、無理にしようとすれば、必ずおさまりのつかない混乱におちいってしまうにちがいありません。

人はみな一人一人ちがった個性をもっており、その人しか生きようのない人生を送り、その人しか死にようのない死を迎えていくのです。その意味で、他人と代わりようのない、文字通り「かけがえのないいのち」なのです。その人しか生きようのない人生を、他の人と比較して、善いとか悪いとか、上とか下とか評価することは許されないはずです。

そうした一人一人の「いのち」のかけがえのなさにめざめ、与えられた「いのち」の火を、自分しか生きられない生き方で燃やしつくしていった人たちだったから、仏弟子たちはみな第一と讃仰されたのです。「青い蓮華は青いままで輝き、白い蓮華は白いままで光る」と説かれた浄土のすがたこそ、まことの「いのち」の風光をあらわしているのです。

寺報74号(平成7年1月1日)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

報恩講をむかえて/利井明弘

すこし前まで、私は二十貫を越す巨体だった。もっと前の二十歳前後は、十六貫位で水泳の選手をしていた。水泳をしていた頃には、駅の手前でホームに進入してくる電車を見つけると、長い階段を一気に三段づつ位上り、改札所を定期を見せながら走り抜け、また、階段を駆け降りてギリギリ電車に間にあった。しかし、たまには目の前で電車のドアが閉まってしまうこともあった。ドアの向こうの乗客と目があったりして、そんな時のバツの悪さは誰でも知っている通りである。大体、階段は真っ直ぐついておれば、一気に走れて良いものを、途中に踊り場なんかがあるから、あそこでタタラを踏まなければ充分間にあったのにと、悔しまぎれにそんなことを思ったりした。

ところが、体重が二十貫を越えて、年も取ってくると、遠くに電車が来るのが見えても、次の電車にしようと、急ぐどころかかえって歩みをゆるめるようになった。そして、階段を重い身体を支えながら、フウフウ云いながら上って、途中の踊り場のところで一息入れるのである。そして、始めて踊り場が足を休めるために造られていることに気がついた。若いころ邪魔だった階段の踊り場が、造った人の親切であったと気づきて見れば、コンクリートの粗末な階段に、ちゃんと手すりまでついているのである。元気な時や、有頂天になっている時には一つも感じない、人の親切やご恩は、自分が苦しかったり悲しい時に、身にしみて受け取れるようである。

孤独とは、孤は幼くして親と別れ、独は老いて子と別れるという意味であるが、親鸞聖人のご一生は、孤独そのものであったと思われる。九歳で親と別れて叡山に上り、八十四歳の年にご長男の善鸞さまを勘当されている。しかし、この孤独の中から大きなご恩をかみしめて、喜びの人生を味わっておられるのである。阿弥陀さまの救いが、どのように大きく、親鸞聖人が喜ばれたお念仏が、どれほど深いご恩であったかを、この報恩講に味わいたいものである。

(寺報73号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

前を訪(とぶら)へ/高務哲量

親鸞聖人は畢生の著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を結ぶに当たり、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の「安楽集」から御文を引かれます。

前(さき)に生まれん者は後を導き、後に生まれん人は前を訪へ、連続無ぐうにして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海をつくさんがためのゆえなり


と。「とぶらう」とは、現在多く用いられている「弔う」と同じ意味であり、問いだずねるということ。前に生まれた人は、後に続く者に、道を教え、導いていって下さい、そして後に生まれた人は、先人に進むべき道を問い訪ねていきましょう。そしてその営みがあい続いて、途絶えることのないように。なぜなら、一度きりの掛け替えのない苦悩のいのちを生きる者どうしなのだからと。

お浄土のお法(みのり)が、今日の私に伝えられるために、どれほどのいのちの歴史があったのか、ということに想いを馳せましょう。それは私のいのちに連なる祖先の方々は無論のこと、まさに無数ともいうべき有縁の方々のいのちの歴史。人は、人なるが故のいのちの不安ともいうべき苦悩を引き受けねばなりません。私はどこから来てどこへ行くのか。この私のいのちにどういう意味があるのかと。

幸いにして私たちは、お浄土のあることをお聞かせにあずかりました。必ず仏となるべきいのちを生きるものであることを知らせていただきました。このいのちの帰るべき方向と、如来様からそのいのちは掛け替えのないいのちと願われ続けてきたことを、先人は永代に伝えるために、このご本堂を私たちにまもり残して下さいました。阿弥陀様のご本堂があり、ここで浄土のお経が読まれ、説かれ続ける限り、後に生まれるものも、この苦悩の人生を空しく終えることなく、同じ一つのいのちの世界に帰って行けるのでしょう。

永代祠堂会(えいたいしどうえ)。後に生まれた者として、先人のお心を訪ねつつ、前に生まれた者として後に続く人に、そのいのちは阿弥陀様から願われたいのち、お浄土に変える尊いいのちですよと伝え残してゆく大切な大切なご法縁。

寺報72号(平成6年7月1日)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
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「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

ご文章について/梯實圓

蓮如上人といえばすぐに連想するのが「ご文章」ですが、上人がはじめて浄土真宗のご法義を伝えるために、信者にあてたお手紙の形式の「ご文章」をお書きになったのは寛正2年(1461)、47歳のときでした。宛先は近江国(滋賀県)の金ケ森に住んでいた道西であったといわれています。

この年は、上人が本願寺第八代の宗主となられてから4年目でしたが、ちょうど宗祖親鸞聖人の200回忌にあたっていました。このときの「ご文章」は、「お筆初めのご文章」とよばれていますが、浄土真宗の教えの中核である信心正因、称名報恩のいわれが、まことにやさしく説き示されていました。

このようにお手紙をもって信者にご法義を伝えたり、あるいは異端邪説を批判したり、あるいは念仏の行者の日常生活を指導されたのは、遠くさかのぼればすでに法然聖人のうえにも見られましたが、とくに親鸞聖人には晩年、関東の門弟たちにあてられた多くのお手紙があります。おそらく蓮如上人はこうした両聖人の先例にならわれたのでしょうが、現在確認されているものだけで250余通にのぼる「ご文章」が残されています。

とくに越前の吉崎御坊にご滞在中のものがおびただしい数に上がっています。それは文明3年(1471)から、文明7年にいたる4年間で、上人の57歳から61歳のときでした。実は本願寺教団の勢力は、この4年間に爆発的な進展をとげ、それまでは見るかげもない弱小教団であった本願寺が、北陸一円から日本全土にひろまっていったときだったのです。

「ご文章」は、そのときいわば蓮如上人の分身となって、在々所々の僧侶や門徒に語りかけ、信仰と生活を指導するという役割をはたしていったのでした。年月はへだたっていますが、「ご文章」を聞くことは、じかに上人のご教化にあわせていただいているのだということを忘れてはなりません。

寺報71号(平成6年4月1日)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

ご意見承りましょう/利井明弘

大瀬戸幸子さんは、善巧寺の門徒の家に生まれた。縁あって広島の呉に嫁いで五十年になる。嫁ぎ先の呉の広というところは安芸門徒と呼ばれる人たちの在所が集まっている。善巧寺の僧鎔師とならび称される学僧であった、石泉派の僧叡師もその昔この広に生まれていた。その遺徳であろうか、瀬戸内海に面したこの地方で、平成の今でも、毎月十六日の親鸞聖人の御命日は「お逮夜」と称して、漁師も魚屋も休みになるのである。幸子さんは、その在所の有難い大瀬戸ミエさんというお同行に乞われて、大瀬戸家の嫁になったのである。

昭和二十年、幸子さんは二十二才だった。新婚第一夜、姑となったミエさんが幸子さんに頼んだことがある。夕方の正信偈のお勤めが終わった後、お導師の席に幸子さんを座らせて、下座に座った姑のミエさんが、頭を下げてこういう。

「ご意見たまわりましょう」

どうすればよいのか分からぬ幸子さんに、ミエさんは一枚の紙を渡した。そして、これを私に読んで聞かせて欲しいと頼んだのである。そこには、次のように書いてあった。

念仏行者のたしなみは
第一我が身をつつしめよ
なるべくアゴをば動かすな
《中略》
家に波風おこるのも
言葉が先で手がつくぞ
言葉の上より掴みあい
後には命も失うぞ
つつしむべきは口なるぞ
南无阿弥陀仏のみ仏が
出入りまします門なれば
戸口の締まりがかんじんぞ

聞き終わったミエさんは「ご意見有難う御座いました」と深々と頭をさげる。これが、ミエさんが亡くなる日まで、四十数年間、続いたのである。

意見を云って聞かせるのではなく、自分が聞かせて貰うというこの素晴らしさ。ミエさん亡き今、幸子さんは、暗記してしまったこの「ご意見」を頭の中で繰り返しながら、お念仏に会えた喜びを噛みしめている。善巧寺の若はんの法友でもあった幸子さんは、今年も浦山に帰る日を楽しみにしている。

(寺報70号)

空華忌に思う/利井明弘(寺報69号)
ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

空華忌に思う/利井明弘

思えば空華僧鎔和上の200回忌には、弟の隆弘も元気でありました。「若はん、若はん」と善巧寺の門信徒の皆さんに呼ばれて、あちこちと走り回っていた姿が目に浮かびます。早いもので、その弟が亡くなって、もう丸3年になります。弟が善巧寺にご縁を頂いたのも、僧鎔和上の冥護のたまものでありましょう。

私たち兄弟が育った高槻の常見寺には、行信教校という、創立以来百十余年になる宗学を学ぶ塾があります。この塾は私たちの曾祖父鮮妙が創設したものでありますが、実はこの鮮妙は僧鎔師の曾孫弟子に当たるのであります。現在も全国から集まった九十名余りの学生が、僧鎔和上が説いて下さった空華の宗学を学んでいます。その中には、次の善巧寺を背負って立つ俊隆君もいるのです。あと数年もすれば、僧鎔和上の教えを学んで立派なお坊さんになってくれるでしょう。

善巧寺に残る記録によれば、僧鎔師の百回忌には、行信教校初代校長の鮮妙がご招待を受けて参詣し、百五十回忌には、私たちの祖父興隆が、大阪から善巧寺に参っております。しかし、祖父の興隆にはご招待がなかったようで、自分から参ってきて、ご法話をさせて頂き、その時、善巧寺の満堂のお同行が感涙にむせんだと記録させているそうです。この話を二百回忌に父と共に参詣させて頂いた時に話してくれた隆弘も今はお浄土です。又、その時、参詣の記念にと桐谷先生、山本先生、それに父の三人が寄せ書きした軸が今も善巧寺の書院に掛かっていますが、ついこの間のことなのに、この世には一人も遺ってはおられないのです。何と人生は無常ではありませんか。しかし、私たちは幸いお念仏を聴聞させて頂いています。急ぐこともありませんが、お浄土で、この世では遇うことができなかった僧鎔和上や、鮮妙をはじめご縁あった人たちと、どんな風にお遇いすることが出来るのか、今から楽しみにしているこの頃であります。
(寺報69号)

ご意見承りましょう/利井明弘(寺報70号)
御文章について/梯實圓(寺報71号)
永代祠堂経―前を訪へ―/高務哲量(寺報72号)
報恩講をむかえて/利井明弘(寺報73号)
「いのち」の風光/梯實圓(寺報74号)
ある救援活動/利井明弘(寺報75号)
無量光―共にかがやく―/天岸浄圓(寺報76号)
おそだて/高田慈昭(寺報77号)
恩に報いる/三嵜霊証(寺報78号)
拝啓 寺報善巧様/大江一亨(寺報79号)
雪山隆弘師と明教院僧鎔師/若林眞人(寺報80号)
俊之さんの思い出/龍嶋祐信(寺報81号)
往還回向由他力/那須野浄英(寺報82号)
一人か二人か/梯實圓(寺報83号)
混迷と苦悩の時代こそ/高務哲量(寺報84号)
住持/高田慈昭(寺報85号)
あなたの往生は間違いないか/利井明弘(寺報86号)
洗面器の底に・・・/森正隆(寺報87号)
かがやき/山本攝(寺報88号)
無量寿のいのち/藤沢信照(寺報89号)
仏法を主(あるじ)とする/梯實圓(寺報90号)
生死出づべき道/高田慈昭(寺報91号)
生死の帰依処/騰瑞夢(寺報92号)
香積寺のことなど/山本攝(寺報93号)
横超のおしえ/高田慈昭(寺報94号)
永遠のとき/高務哲量(寺報95号)
必ず煩悩の氷とけ/藤沢信照(寺報96号)
報恩講/若林眞人(寺報97号)
非常の言/高田慈昭(寺報98号)
不自由ということ 不幸ということ/高務哲量(寺報99号)
お念仏の世界観/高田慈昭(寺報101号)
篤く三宝を敬え/天岸浄圓(寺報102号)
抜けるような青空のもと/山本攝叡(寺報103号)
善巧方便/騰瑞夢(寺報104号)
洗面器の底のさくらの絵/森正隆(寺報105号)
夢のお話/高田慈昭(寺報106号)
育ちざかり/那須野浄英(寺報107号)
こわいはなし/宗崎秀一(寺報108号)
報恩講について/梯實圓(寺報109号)
お釈迦さまへのプレゼント/霊山勝海(寺報111号)
前坊守様を偲ぶ/霧野雅麿(112号)
いずれの行もおよびがたし/藤沢信照(113号)
生死いずべき道/服部法樹(寺報114号)
あたたかなひかり/利井唯明(寺報115号)
季節の中で/山本攝叡(寺報117号)

僧鎔師の心を味わう/利井明弘

このテキストは平成3年、寺報58号に掲載されたものです。

明教院から雪華院へ さらにつづく空華の心

行信教校長 利井明弘師

 僧鎔和上の空華忌です。じつは僧鎔さんの百回忌に私の曽祖父である利井明朗がお導師をさせていただいてるんです。弟のお葬式の時に、この辺を歩いておりましたらね、僧鎔和上も明朗もこの辺を歩いておられたんやなあ、今頃は弟が明朗じいと逢うとるなあと思いましたね。
 百五十回忌の時は利井へ案内がなかったんです。その日の夕方ここへ大きな男がやってきて「よすみの利井や」というた。
 そのじいさんがお参りした後大演説をして満堂のお同行が感涙にむせんだということです。この興隆じいがなくなったのは私が小学校五年の時、弟が小学校に上がる年でしたから、私もよく知っています。 
 二百回忌には私の父がお導師をさせてもらって、その帰り二人で話したんです。「お浄土へ帰ってからのみやげ話がまた一つできたね。おじいちゃんに逢うたら、同じようにおまいりさしてもらったよって言えるね」と。
 二百五十回忌には、私の息子がここへ来てくれるであろうと思います。
 弟のご縁もありますが、ここのお寺と私のお寺とは大きい大きいご縁でつながっていた、そんじょそこらのご縁ではないのでしょうね。僧鎔師の教えられた方の弟子が、私のひいじいのお師匠、ということはひいじいは僧鎔師和上のひまご弟子ということになります。僧鎔師和上からずーっと線をひいてくると、つながっている深いご縁がみえてくるんです。
 空華の一番の特徴は”理屈よりもお念仏でよろこぶ”、もっと言えば、こちら側には何もないというのが徹底しているのが僧鎔師和上の考え方なんです。私の力は何も認めない、すべてしていただいているというのが、空華の一大特徴です。そんな私だから、阿弥陀さんが働いてくださってなかったら、お浄土へ行けないんですよ。こうしたら助かるかああしたら助かるかという話じゃないんです。おまかせなんですよ。
 今、ここの俊隆くんが私のところに来ているんですが、俊隆が勉強している部屋がじいさんの書斎だった、そこに隆弘もいたんですが、この興隆の隆をもらって隆弘というんですがね。この書斎で、じいさんが父に云うんです。「よかったなァ」このことばはなかなかでんもんです。まちがいなく救うよ、なまんだぶつよ、安心せえよ、なまんだぶつと唱えなさいよ、絶対に救うぞというておられる。これはね聞いて今安心できるんですよ。何べんも聞いているうちにわかるなんていうもんとはちがう。この世の命が終わった時、必ず救うという仏さんがいらっしゃる。まちがいないことです。それをきいて、「なまんだぶつ、よかったなあ」といえるんです。
 「よかったねぇ」と逢いましょうね。まちがいなく隆弘もここのおじいさんたちもよかったなぁと逢える場所に生まれられるんです。

仏縁/高田慈昭

このテキストは平成2年、寺報54号に掲載されたものです。

「お寺へ参りなさいよ」
「いや、わたしはまだ早い」

行信教校教授 高田 慈昭師

 高田でございます。空華忌にまたご縁をいただきました。
 ご当地北陸というところは、仏法のご縁が、厚いところでございますが、地方へまいりますとなかなか、ご縁がうすいところもございます。
 なかには、わかったような顔して、仏法をあやまって解釈しているものもいる
 うちの近くの奥さん、もう年は七十ぐらいなんですが、
 「奥さん、お寺に参りなさい」
といいますと
 「まだ、わたしは早い」
といわれる。何が早い?いつ行くかわからん世の中ですよ、元気なうちに聞いておきなさいよ、といっても聞こえません。こういう考えの方が多いんですね。
 こちらには「雪ん子劇団」というのがあってね、小さいころから仏縁をむすんでおられますがね、私のほうでも日曜学校や仏教青年会、婦人会といろんな折に仏教のご縁をむすぶようにしているんですが、なかには、「まだ早い」という人がけっこうおられる。
 いや、これは他人事ではありませんね。わたしだってそうでした。お寺に生まれることがなかったら、一生仏法を知らずに終わってたかもしれません。それもね、若い頃は坊さんになるのがいやでね。子供の時にみんなに「坊主、坊主、たこ坊主」なんてバカにされたりしまして、もういややというて、お寺を飛び出そうと思ったこともあります。
 大学入試のころでしたか、仏教に関係ない学校へ行こうと思いましてね、長男でしたが、いろんなところに願書出したんです。ところが全部内申書の段階ではねられた。高校時代にちょっとしたことで停学処分を受けたんですが、これで引っかかって、全部ダメ。うらみましたねえ。その時の先生を。
 でもね、今はよろこんでおります。あの先生があの内申書を書いて下さっておらなかったら、いまの私はなかった。仏法よろこぶ私に育ててくださったのはあの先生のおかげだったとね。お念仏は、いま救われたら、未来も救われる。そして過去までも救われて、おかげさまとよろこぶ身にならせていただけるんです。
 いや、これもよくよくのご縁だったんですね。
 ところで、最近、あの「坊主、坊主、たこ坊主」とからかっていた連中と、よく出会うんです。同窓会でね。うちの学校は大阪の街中で、おまけに、うめよふやせよの時代でしたから、一学年に四百人もの同級生がいるんですが、このごろの話題といったら、まず仕事、ゴルフあたりがはじまりで、つぎに体のこと、病気の話。あっちが痛い、こっちがたまらんなんてね。で、なかにはお医者さんもいますから、みんなそこへかたまって、ワイワイ、ヒソヒソやるわけです。
 で、これで終わりかと思ったら、つぎににぎやかになるのが坊さんのまわりです。四百人の同窓生の中で、坊さんはわたし一人なんです。えらい繁盛で、みんなにやってきます。
 「おい、高田君、お前、坊さんやったなあ。仏教ちゅうのはどんな教えや。うん、俺ももう定年やしなあ。心の整理もつけとかんといかんと思うてな」
 「一体人生って何なんやろかよ近頃思うようになったわ」
 とか言いながら、一流会社の社長も大学の先生も、やってくるんですが、みんな仏法がわかっとらんですなあ。
 「親鸞がどうした、道元がなんじゃ、釈迦がなんじゃ」
 なんて偉そうなこと言っていた証券会社の部長をしている男が、えらい病気で死にかかった。で、回復したら四国の八十八ヵ所巡礼しとる。
 「なんや、お前、家族がなんじゃとかえらそうなこというとって」、
 といったら、
 「やっぱりいのちがおしい」
 表面ははなやかそうな顔しておるけれども一人一人の心の中に入ってみると、いろんな悩みをかかえとる。で、年いってくるとだんだんそういうことがわかってくるんです。
 ですから、お寺参りは年とってからというのもあながちまちがいではないということになりますね。宗教というのは、やっぱり人生のいろんな経験をして、そこに本当の安らぎを求めてこの世に生まれてきてよかったなあ、と安心していき、安心して死んでゆける身にならせてもらうものだと思うんです。
 生きるよりどころと、死のおちつき所をはっきりと知らせてもらうのが宗教なんですから。